前回まで書いてた どうする家康を巡る旅。



この旅をしたのが 12月9日、10日。


その後17日に、『どうする家康』の最終回を終えて

もう一度行きたいよね?

と、今回は大河ドラマ館 3館を全部廻って来よう!


☝️で、この冒頭に書いてますが
12月29日 年末押し迫った日に
行って来よう!
日帰りで。(やっぱり 頭がおかしいから)


大河ドラマ館は


静岡 浜松 岡崎の3箇所





大河ドラマ館 どれも同じ展示

と、思ってたら

前回 岡崎と浜松に行ってみて

特色がある!と、気が付いたんですね。


と、言うわけで 今回は各大河ドラマ館の特色を書きたいと思います。


まずは


大河ドラマ館 岡崎



こちらは、三河武士のやかた家康館に作られてるので 四天王をはじめ 元々の重臣にも重きが置かれてます。




家康に過ぎたるものが二つあると言われた

本田忠勝


山田裕貴くんの、忠勝。かっこよかったね〜


今回行きたかったのは


撮影に使われた この甲冑が展示されてると知ったから。


 

​岡崎は、家康が産まれた場所。
どうする家康でも、三河家臣団の結束力は
戦国三英傑の中でも 群を抜いているのがわかる。
昔から 家康は本当は亡くなってて 影武者説が出てるけど
彼等だったら もしも本物がいなくても
うまーく隠して 徳川家を守れたんじゃ無いか?と思えたよね。


家康が天下を取れたのは、その家臣団が優秀で

家康は、家臣を上手に使ったから

と、言われてるけど

もちろん、そうではあるけど

家臣の方も 家康と言う威光を使って 自分達の領地を守った

お互いWin-Winの関係だったのでは?と。

その結束力の要の


大森南朋さんが演じてた酒井忠次


酒井忠次は、元々 家康とは親戚なんですよ。

どうする家康でも、第一話で家康が浜松からの里帰りの時に 忠次が妻を紹介する時に

『殿のおばにあたります。』と言ってましたね。


他もいろいろ書き始めると 止まらなくなるので この辺で😂


つぎ
井伊直政の衣装が



赤備えは、やっぱりカッコいいよね〜



李人君の平服だけど、多分私の方がデカい💦



この衣装を着ての初登場場面は マジで女の子かと思ってた



どう見ても 可愛い女の子😂


 
浜松と言えば、やはり大河ドラマ 女城主直虎の居城があった 井伊谷が近くにある。
それで、この浜松館は 井伊直政にスポットを当てている。

直政は 徳川四天王に数えられてるのは

武功を挙げただけしゃなくて、外交も得意だったり

文武両道だったから〜

だけじゃ無かったんですよ。


元々の家臣に比べても 特別扱いされた。と、言うのもいろんな資料でわかって来てるんです。


と、言うのも 岡崎から浜松に入った時の どうする家康でも、浜松の民からかなり馬鹿にされてましたよね。

あの時の直政が、女装をして家康を討とうとした場面は フィクションだけど

でも、あの場面はかなり的を射てるんですよ。


遠江(浜松)城は 元々今川領だったけど ここを攻略して 信康に岡崎城を任せて 家康が入ったわけですが そこに住んでる地元の人は そもそも今川様の領地だったのに それを裏切って 織田信長の傘を盾に何者じゃい!的な感情があったけど

井伊直政は、そもそも遠江の鎌倉時代から続く 名家。

井伊家は 跡取りに苦労して 随分没落してるけど

やはり この辺りでは お殿様なわけよ。

その民衆の不満を和らげる為に

直政を重用したとも考えられてる。


それにしても、

浜松は 家康が29歳〜45歳までの青年期に居城した街ですが この時期はいろんな困難に見舞われましたね。





甲本さんが演じた 夏目広次が家康の身代わりになる場面は 何度みても泣けました。


家康が ずっと広次の名前を間違えていたのが

この場面で謎が解けたのですが

まあ、古沢さんの脚本に痺れましたよ。


今回 岡崎から浜松に向かってる時に 夏目広次の碑を見つけて あの場面を思い出して泣けて来た。



そして 最後は


大河ドラマ館 静岡



こちらの大河ドラマ館は、上の二つはお城のそばにあるんですが ここだけ静岡浅間神社の敷地内にあります。


 

駿府は、家康が晩年 秀忠に将軍職を譲ってこの駿府にいましたが
その前は 家康が今川の人質時代に過ごしたのが駿府。
人質と言うと 可哀想なイメージがあるけど 家康は今川家でとても大事にされてたと言われてます。
(どうする家康でも、駿府に帰りたいと言っていたのは あながちフィクションでは無いのかも。)

と、言うわけで


今川義元の衣装などの展示が。


 

今川義元と言うと 桶狭間で信長の奇襲で負けた事がクローズアップされてるし
武士と言うより 公家に近くて〜的な事を言われたけど
東海一の弓取りと言われるくらい 武将としても優秀で
文武両道の素晴らしい人だった。

信長に負けたのは 油断からだと言われてるけど もちろん油断はしてたと思う。
その油断と言うのは そもそも武士と言うのはこうあるべきと言う 固定概念だったと考える。
信長の奇襲に対応出来なかったのだが
昔は 武士と言うのは正々堂々と 奇襲や夜襲など卑怯な真似は恥ずかしい事と考えてた。

武士は 笑われる事を1番の恥と考えられてた時代、

信長は、全くそう言うのを気にしなかった。

これは、信長の父親 天才秀才の秀忠の育て方によるものだったらしく 一般教養を強いるよりも

好きな事をさせて育てたそうで

『うつけもの』と呼ばれたのは そう言う育ち方をして柔軟な考えを持つようになったから。



大河ドラマで 家康が晩年に着てた衣装も。







撮影に使われた甲冑や冑



いろんな小道具も展示されてて、あの場面に使われたものだ!と発見するのも楽しかったです。




どうする家康の大河ドラマ館も そろそろ終了です。


岡崎会場は 今月8日まで