「そう? 前も言ったでしょ。食べられるときに食べる主義だって」
「もちろんそれは良いことだと思うけれど、これからはもっと健康面や安全面でも慎重になっても良いんじゃないかしら? 妊娠中はカロリーの過剰摂取は禁物らしいわよ? 初期はともかく中期以降は妊中毒症を起こすし、そうなったら、お腹の赤ちゃんにも色々と良くないの。後は走ったりとか、ましてや階段の二段飛ばしなんて良くないわ。転んだら流産や早産の原因になりかねない。今、有喜菜が履いているパンプスも、ヒールが高すぎ。妊娠中は安全なローヒールをはかなきゃ」
「紗英。忠告はありがたく聞くけど、これだけは言っておきたいの。私はあなたたちの子どもを生むという仕事を引き受けた。極力気をつけて無事に元気な赤ちゃんをあなたに手渡せるようにはする。でも、だからといって、別に妊娠期間中の私の生活すべてをあなたが管理して良いわけじゃない。私だって、逐一、あなたの干渉を受けるのはいやだわ」
私の務めは元気な赤ちゃんを生むことであって、それは私自身が気をつければ良いんだし、あなたが私の私生活にまで入り込んできて良いということにはならないのよ。
どこか苛立ったような言い方は有喜菜らしくない。
「―」
紗英子は押し黙った。確かに、有喜菜の言葉は理に適っている。紗英子は有喜菜から元気な赤ん坊を受け取れば良いのであって、そこから先―有喜菜のプライベートまでに立ち入る権利を得たわけではないのだ。
でも、元気な赤ん坊が生まれなかったら?
紗英子は子どもを持つという目的意識が大きかった分、様々な育児雑誌を読みあさり、知識には精通していた。まあ、実践を伴わない知識と言われれば、そこまでのものだけれども。
そんな紗英子から見たら、有喜菜の今の状態は極めて危なかしいものに見えてならなかった。妊婦がハイヒールを履き、階段を二段飛ばしで上り下りし、健康のことも考えずに食べ放題に食べる。仮に紗英子が有喜菜の立場なら、妊娠が判ったその日から、妊婦にとっては理想的な生活を心がけるだろう。
軽くて歩きやすい運動靴を履き、階段は手すりを持ち、静かにゆっくりと行き来する。もちろん走らないし、食事は野菜を中心にローカロリーのヘルシーなものを取る。むしろ、有喜菜は妊娠したからといって、生活を何ら改める気もなさそうだ。そのことが紗英子には信じがたく、また自爆行為にも思えた。
もちろん、有喜菜の腹の子が有喜菜自身の子どもなら、紗英子だって妙な干渉なんてしない。母子ともにどうなろうが、それは有喜菜の好きでやることで、紗英子の知ったことではない。
だが、今、彼女の胎内にいる赤ん坊は紗英子の大切な我が子なのだ。有喜菜の好きにさせておいて、万が一、子どもに何かあれば後悔してもしきれないではないか。
「それはまあ、確かにあなたの言うとおりね」
紗英子はやや鼻白んで言い、もう殆ど冷めてしまったパスタを気のなさそうにつついた。
有喜菜はといえば、紗英子に受けた忠告なんてまるで聞いていなかったように、山盛りのフルーツパフェを小さな匙で掬って口に運んでいる。その傍らには、とうに空になったパスタ皿があった。
それにしても、よく食べる女。
紗英子は苛々としながら、有喜菜の健啖ぶりを眺めた。今、長い髪は一つのシュシュで結わえられている。美人はどんな格好をしても様になるもので、そういう姿さえ、有喜菜の仕種はドラマのワンシーンを眼にしているようだ。
その時、有喜菜が小さなくしゃみをして、次いで咳込んだ。
「大丈夫!?」
紗英子はまたしても声が大きくなった。
「大丈夫よ、昨夜は急に冷え込んだでしょ。ちょっと風邪を引いたみたいで、朝、風邪薬を飲んだから」
紗英子は眼を剥いた。
「駄目よ! 妊婦が売薬なんて無意識に飲まないで。妊娠したら、ちゃんと掛かり付けで診て貰ってから、そこで処方された薬だけを飲まなくちゃ。無闇に売薬を飲んだりして、お腹の子どもに何かあったら、どうするつもり?」
有喜菜が音を立ててスプーンをテーブルに置いた。その音がやけに大きく聞こえたのは、紗英子の気のせいだろうか。
紗英子はそれには取り合わず、更にまくし立てた。
「それに、風邪気味だというのなら、仕事は休んだ方が良かったんじゃない? 無理をしてひどくなったら、それこそ強い薬を飲まなくてはならないでしょうし、それがお腹の赤ちゃんに悪影響を与えないって保証はないもの」
「良い加減にして」
有喜菜の少し掠れたハスキーな声が意外に響いた。隣のテーブルに座った女子高生の二人組がちらちらと意味ありげにこちらを見ている。
「あなた、一体、何さまのつもり?」
有喜菜は手許にあった白いナプキンで苛立たしげに手をぬぐっている。白いほっそりとした指先にパフェのクリームがついていた。
「有喜菜―」
直輝と同様、普段は滅多と感情を露わにすることのない有喜菜が声を荒げ、紗英子は息を呑んだ。
「良い、子どもを生むのはこの私なのよ? なのに、何で、そのことについてあなたにいちいち指図されなきゃらないの? そんなに私のやることなすことが気に入らないのなら、私ではなく、あなたが子どもを生めば良いじゃない」
「酷いわ、有喜菜。私に子どもが生めないって、あなたは知っているでしょうに。それに、その子は私の子どもなのよ、幾ら、あなたのお腹で育つからって、あなた一人の好きにしても良いというわけにはいかないでしょう」
紗英子はいきなり脳天をハンマーか何かで殴られたような衝撃を受けた。涙が一挙に溢れ出してきて、止まらなかった。
「これだけは言っておきたいんだけど」
有喜菜が突如として居住まいを正した。
「私のお腹にいる子どもは、あなたの子どもであることは間違いないわ。でもね。この子が十月十日、私のお腹にいる間は、私が母親でもあるのよ。言わば、お腹を借してあげて育てる、育ての母というわけ。だから、この子が誰の子どもだと思おうと、その間は私の自由のはずじゃないかしら。要するに、私の役目は十ヶ月後に、元気な赤ん坊をあなたに渡すことでしょう? それさえ守れば、あなたに私の私生活についてあれこれと口出しする権利は一切ないの、良い?」
有喜菜はきっぱりと断じ、長い両脚を優雅に交差させ、余裕の表情で通りかかった若いウエイトレスに食後のコーヒーを頼んだ。
「さっきは私も言い過ぎたかもしれない、それは謝るわ。でも、あなたも妙な勘違いはしないで欲しいの。幾らあなたの子どもをこの身体の中で育てる代理母の立場になろうと、お互いに守るべき礼儀っていうものはあるでしょ」
いつも溌剌とした話し方をする彼女には似合わないような沈んだ、それでいて諦めてないという意思を感じさせる口調である。
そう言って微笑む彼女を見ていると、何故だか胸がツキリと痛んだ。
元気な赤ん坊さえ受け取れば、後は一切、私に有喜菜の生活について干渉する権利はない。それは一見、もっともでありながら、どこか理不尽な要求にも思えた。我が子がもしかしたら危険に晒されるかもしれないのに、そんな状況をみすみす見ないふりをするなんて。
その後、二人はろくに会話もないままに店を出たところで別れた。
私がした選択は正しかったのだろうか?
他人の腹を借りてまで我が子を得たいと願ったのは、やはり人としての道にもとるものだったのだろうか。
三ヶ月前、代理母出産を希望すると宣言したときの夫の表情がありありと浮かんだ。
子どもが生まれるというのは神の領域なのだ。だから、妊娠・出産を人為的に操作するのは神の意思に反するのだ。あの時、直輝は主張し続けた。更には彼はこうも言ったのだ。
子どもがいないのは淋しいけれど、これからは夫婦二人で穏やかな日々を紡いでいこう、と。でも、あのときの自分は頑なに代理母出産に拘り続け、結局、有喜菜を代理母として選び、決行した。結果として、有喜菜は妊娠。
あと十ヶ月後には、待望の我が子が産声を上げる。すべては自分の望み通りになったはずなのに、何故か心は虚ろで寒々としていた。
夫の反対を押し切り、成し遂げ勝ち得た妊娠。自分で生むことはついに叶わなかったが、考え得る限りのあらゆる手を尽くして、とうとう自分の血を引く赤ん坊をこの手に抱くことができる。
しかし、代理母出産をすると告げた日から、夫との間には溝ができ、それは深まるばかりだった。今や夫婦の会話は全くなく、直輝はただ自宅には食事と寝るためにだけ帰るようなものだ。仮面夫婦どころか、今の紗英子は夫にとっては単なる家政婦か同居人にしかすぎない。
あの夜、直輝が
―お前には、ほとほと愛想が尽きた。
と言ったのは何も言葉の勢いだけではなかった。そのことを今になって紗英子は漸く悟ったのだった。
それに、先刻、見た有喜菜の仮面のような表情が瞼に浮かぶ。
―要するに、私の役目は十ヶ月後に、元気な赤ん坊をあなたに渡すことでしょう? それさえ守れば、あなたに私の私生活についてあれこれと口出しする権利は一切ないの、良い?
言い放った時の冷たい瞳。紗英子は静まり返った湖のように感情の欠片も宿さない双眸を思い出し、身をぶるりと震わせた。
いや、あの静謐な瞳の奥底に一瞬、揺らめいたのは蔑み? それとも、憐れみか勝ち誇った勝者の余裕だったかもしれない。
そんなことを考える自分の方がどうかしているのだろうか? 有喜菜は紗英子の二十六年来の友人なのに。すべてが悪い方へとしか考えられなくなってしまっている。
もしかしたら、たった一人の友達すら永遠に失ってしまったのかもしれない。
友達と夫と。
いちばん大切なものを手放した自分。果たして、そこまでするだけの価値が本当に代理出産にあったのだろうか。
子どもが人生最大の幸福とは限らない。
何かのエッセイで読んだ一文がそこだけ鮮やかに甦った。
愚かな、なんて、愚かな私。
ともすれば後悔に泣いてしまいそうになる心を、それでも紗英子は懸命に自分を叱咤する。
きっと直輝の頑な心も、元気な赤ん坊の顔を見れば、春の光に溶けてゆく雪のように解(ほぐ)れていくに違いない。元気な赤ちゃんさえ生まれれば、きっと、すべてが上手くいく。
今はその儚いひとすじの光にも似た願いを祈るような気持ちで心に抱(いだ)くしかなかった。
そう、赤ん坊さえ生まれれば、すべては元に戻り、また優しい夫に戻ってくれるはず。きっと、必ず。
その夜、有喜菜は自室に籠もり、長い間、物想いに耽っていた。ベッドに仰向けに寝転がり、天井を眺めていると様々な想いが空をよぎる雲のように急ぎ足で流れてゆく。
有喜菜の手には愛用の携帯電話が握りしめられている。もうかれこれ二時間余り、有喜菜は二つ折りの携帯を閉じたり開いたりを繰り返していた。
有喜菜の耳奥で紗英子の必死な声音がこだまする。
―無闇に売薬を飲んだりして、お腹の子どもに何かあったら、どうするつもり?
今日の紗英子はいつもにも増して不安定だった。特に有喜菜の行動のすべてが気になって仕方がないように見えた。昨日は昨日で待望の妊娠が判明して、躁状態になっていたようだが、今日は一転して鬱に入っていたようだ。
まあ、紗英子の気持ちが判らないわけではない。代理母出産という異例中の異例ともいえる選択をし、一度で成功することは極めて難しいとされるにも拘わらず、有喜菜は奇跡的に妊娠した。子どもを欲しいという紗英子の一途さはよく理解しているだけに、その歓びが尋常ではないだろうことも察しはつく。
昨日の紗英子はまるで脚が地についていないようで、何を話していても上の空で夢の続きを見ているかのような節があった。
一夜明けて、その歓びも鎮静して、今度は逆に不安ばかりが生じてきているのだろうか。それも理解できないわけではないが、それにしても、これから出産までずっと紗英子に監視され続け、私生活のあれこれにまで干渉されるのでは堪ったものではない。
それでも我慢はしていたのだが、あまりにしつこいので、つい有喜菜も堪りかねて強く言ってしまった。
―そんなに私のやることなすことが気に入らないのなら、私ではなく、あなたが子どもを生めば良いじゃない。
流石に今、思い返しても、あれは言い過ぎだと思う。紗英子がどんな想いで手術を受けたかは部外者の有喜菜だとて想像はできる。女にとって子宮を取るというのは一大事に他ならない。有喜菜自身は別に切ないくらいに子どもを欲しいと思ったことはないけれど、人によって考えは違うだろう。
紗英子は子どもを持つことを人生の第一目標に掲げてきた。彼女にとって、その可能性を根こそぎ奪われた出来事がどれほど辛かったかは察するに余りある。
有喜菜自身、子どもの問題は別として女であるという証―子宮摘出という出来事が自分に降りかかってきたら、やはり相当な衝撃だと思う。
どれだけ紗英子の干渉に腹が立ったとしても、あのひとことだけは人として口にすべきではなかった。
紗英子にしてみれば、決死の想いで挑んで漸く授かった子どもに、何かあれば大変だと思ってのことに違いない。しかし、干渉される立場の有喜菜にはまた傍迷惑では済まない話だった。しかも、それがこれから十ヶ月、子どもが無事に生まれるまで続くというのだから、うんざりするのもこれはこれで仕方ない。
あんな無情な科白を口にする代わりに、何故、事を分けて〝干渉されるのはいやだから、そっと見守って〟と言えなかったのか。有喜菜なりに紗英子の心を傷つけてしまったことに対して反省はしていた。
しかし、その一方で、あくまでも有喜菜の身体を子を産ませるための道具としてしか見ていない紗英子を恨めしく思う気持ちも依然としてあった。
―あなたがそんなにも神経質なくらい私の身体を心配するのは、私のためではなくて、お腹の子どものためでしょう。
はっきりと言ってやりたい想いがないわけではなかったけれど、そんな科白を口にしても自分が惨めになるだけだから止めたのだ。
判りきったことを何を今更と思われるだけで、紗英子は反省などしないだろう。
果たして、自分が代理母などを引き受けたことは正しかったのだろうか。有喜菜の心は揺れていた。
妊娠・出産というのは、そもそも神の領域のはずである。少なくとも昔は人間には立ち入ることのできない神聖な場所であった。それが医学の飛躍的な進歩で、子どもに恵まれない人も親になることができるようになった。
それはもちろん良いことに違いない。とはいえ、幾ら医学が進歩したからといって、本当にやっても良いことなのだろうか。有喜菜の感覚からすれば、他人の腹を借りて自分の子を育てて産ませる―などというのは、はるかに想像の限界を越える行為であった。自分が紗英子の立場であっても、まずやらない。
でも、結果として有喜菜は紗英子の申し出を受け容れ、代理母となることに同意した。それはとりもなおさず、代理母出産という行為を容認したことにはなりはしないか。
有喜菜は判っていた。自分が代理母になることを承知したのは、別に紗英子の必死さに打たれたわけでも、報酬に眼がくらんだわけでもない。確かに紗英子が提示した法外な報酬は魅力的ではあったけれど、それだけで引き受けたりしかなかった。
有喜菜がこの話を受け容れた真の理由―、それは紗英子の夫直輝の存在であった。もちろん、直輝は紗英子の夫だ。これから先、間違っても、直輝と有喜菜の人生が交わることなどないだろう。
だが。直輝の子を孕み、生むという行為を通して、有喜菜は直輝と一体になれる。たとえ直輝自身は知らなくても、直輝の子どもを生むのは紗英子ではなく、この自分なのだから。生まれた子どもはすぐにでも紗英子に手渡すことになるだろう。それでも、有喜菜は直輝の子を産んだただ一人の女として、永遠に彼と繋がっていることができる。
随分と歪んだ考え方だが、有喜菜は今でも直輝をひそかに想っている。二十三年前、親友であったはずの紗英子に突如として断たれた淡い恋心は気の遠くなるような年月を経てもなお色褪せることはなく、ひっそりと有喜菜の心の底で咲き続けていた。
それは図らずも有喜菜から直輝を奪った紗英子への復讐でもあった。紗英子にはけして生めない直輝の子どもを、代わりに有喜菜自身が生むのだ。紗英子がもし、有喜菜の直輝への想いを知れば、絶対に代理母など頼みはしなかっただろう。
有喜菜の気持ちを知らない紗英子は、まんまと有喜菜に復讐のチャンスを与えたのだ。
「もちろんそれは良いことだと思うけれど、これからはもっと健康面や安全面でも慎重になっても良いんじゃないかしら? 妊娠中はカロリーの過剰摂取は禁物らしいわよ? 初期はともかく中期以降は妊中毒症を起こすし、そうなったら、お腹の赤ちゃんにも色々と良くないの。後は走ったりとか、ましてや階段の二段飛ばしなんて良くないわ。転んだら流産や早産の原因になりかねない。今、有喜菜が履いているパンプスも、ヒールが高すぎ。妊娠中は安全なローヒールをはかなきゃ」
「紗英。忠告はありがたく聞くけど、これだけは言っておきたいの。私はあなたたちの子どもを生むという仕事を引き受けた。極力気をつけて無事に元気な赤ちゃんをあなたに手渡せるようにはする。でも、だからといって、別に妊娠期間中の私の生活すべてをあなたが管理して良いわけじゃない。私だって、逐一、あなたの干渉を受けるのはいやだわ」
私の務めは元気な赤ちゃんを生むことであって、それは私自身が気をつければ良いんだし、あなたが私の私生活にまで入り込んできて良いということにはならないのよ。
どこか苛立ったような言い方は有喜菜らしくない。
「―」
紗英子は押し黙った。確かに、有喜菜の言葉は理に適っている。紗英子は有喜菜から元気な赤ん坊を受け取れば良いのであって、そこから先―有喜菜のプライベートまでに立ち入る権利を得たわけではないのだ。
でも、元気な赤ん坊が生まれなかったら?
紗英子は子どもを持つという目的意識が大きかった分、様々な育児雑誌を読みあさり、知識には精通していた。まあ、実践を伴わない知識と言われれば、そこまでのものだけれども。
そんな紗英子から見たら、有喜菜の今の状態は極めて危なかしいものに見えてならなかった。妊婦がハイヒールを履き、階段を二段飛ばしで上り下りし、健康のことも考えずに食べ放題に食べる。仮に紗英子が有喜菜の立場なら、妊娠が判ったその日から、妊婦にとっては理想的な生活を心がけるだろう。
軽くて歩きやすい運動靴を履き、階段は手すりを持ち、静かにゆっくりと行き来する。もちろん走らないし、食事は野菜を中心にローカロリーのヘルシーなものを取る。むしろ、有喜菜は妊娠したからといって、生活を何ら改める気もなさそうだ。そのことが紗英子には信じがたく、また自爆行為にも思えた。
もちろん、有喜菜の腹の子が有喜菜自身の子どもなら、紗英子だって妙な干渉なんてしない。母子ともにどうなろうが、それは有喜菜の好きでやることで、紗英子の知ったことではない。
だが、今、彼女の胎内にいる赤ん坊は紗英子の大切な我が子なのだ。有喜菜の好きにさせておいて、万が一、子どもに何かあれば後悔してもしきれないではないか。
「それはまあ、確かにあなたの言うとおりね」
紗英子はやや鼻白んで言い、もう殆ど冷めてしまったパスタを気のなさそうにつついた。
有喜菜はといえば、紗英子に受けた忠告なんてまるで聞いていなかったように、山盛りのフルーツパフェを小さな匙で掬って口に運んでいる。その傍らには、とうに空になったパスタ皿があった。
それにしても、よく食べる女。
紗英子は苛々としながら、有喜菜の健啖ぶりを眺めた。今、長い髪は一つのシュシュで結わえられている。美人はどんな格好をしても様になるもので、そういう姿さえ、有喜菜の仕種はドラマのワンシーンを眼にしているようだ。
その時、有喜菜が小さなくしゃみをして、次いで咳込んだ。
「大丈夫!?」
紗英子はまたしても声が大きくなった。
「大丈夫よ、昨夜は急に冷え込んだでしょ。ちょっと風邪を引いたみたいで、朝、風邪薬を飲んだから」
紗英子は眼を剥いた。
「駄目よ! 妊婦が売薬なんて無意識に飲まないで。妊娠したら、ちゃんと掛かり付けで診て貰ってから、そこで処方された薬だけを飲まなくちゃ。無闇に売薬を飲んだりして、お腹の子どもに何かあったら、どうするつもり?」
有喜菜が音を立ててスプーンをテーブルに置いた。その音がやけに大きく聞こえたのは、紗英子の気のせいだろうか。
紗英子はそれには取り合わず、更にまくし立てた。
「それに、風邪気味だというのなら、仕事は休んだ方が良かったんじゃない? 無理をしてひどくなったら、それこそ強い薬を飲まなくてはならないでしょうし、それがお腹の赤ちゃんに悪影響を与えないって保証はないもの」
「良い加減にして」
有喜菜の少し掠れたハスキーな声が意外に響いた。隣のテーブルに座った女子高生の二人組がちらちらと意味ありげにこちらを見ている。
「あなた、一体、何さまのつもり?」
有喜菜は手許にあった白いナプキンで苛立たしげに手をぬぐっている。白いほっそりとした指先にパフェのクリームがついていた。
「有喜菜―」
直輝と同様、普段は滅多と感情を露わにすることのない有喜菜が声を荒げ、紗英子は息を呑んだ。
「良い、子どもを生むのはこの私なのよ? なのに、何で、そのことについてあなたにいちいち指図されなきゃらないの? そんなに私のやることなすことが気に入らないのなら、私ではなく、あなたが子どもを生めば良いじゃない」
「酷いわ、有喜菜。私に子どもが生めないって、あなたは知っているでしょうに。それに、その子は私の子どもなのよ、幾ら、あなたのお腹で育つからって、あなた一人の好きにしても良いというわけにはいかないでしょう」
紗英子はいきなり脳天をハンマーか何かで殴られたような衝撃を受けた。涙が一挙に溢れ出してきて、止まらなかった。
「これだけは言っておきたいんだけど」
有喜菜が突如として居住まいを正した。
「私のお腹にいる子どもは、あなたの子どもであることは間違いないわ。でもね。この子が十月十日、私のお腹にいる間は、私が母親でもあるのよ。言わば、お腹を借してあげて育てる、育ての母というわけ。だから、この子が誰の子どもだと思おうと、その間は私の自由のはずじゃないかしら。要するに、私の役目は十ヶ月後に、元気な赤ん坊をあなたに渡すことでしょう? それさえ守れば、あなたに私の私生活についてあれこれと口出しする権利は一切ないの、良い?」
有喜菜はきっぱりと断じ、長い両脚を優雅に交差させ、余裕の表情で通りかかった若いウエイトレスに食後のコーヒーを頼んだ。
「さっきは私も言い過ぎたかもしれない、それは謝るわ。でも、あなたも妙な勘違いはしないで欲しいの。幾らあなたの子どもをこの身体の中で育てる代理母の立場になろうと、お互いに守るべき礼儀っていうものはあるでしょ」
いつも溌剌とした話し方をする彼女には似合わないような沈んだ、それでいて諦めてないという意思を感じさせる口調である。
そう言って微笑む彼女を見ていると、何故だか胸がツキリと痛んだ。
元気な赤ん坊さえ受け取れば、後は一切、私に有喜菜の生活について干渉する権利はない。それは一見、もっともでありながら、どこか理不尽な要求にも思えた。我が子がもしかしたら危険に晒されるかもしれないのに、そんな状況をみすみす見ないふりをするなんて。
その後、二人はろくに会話もないままに店を出たところで別れた。
私がした選択は正しかったのだろうか?
他人の腹を借りてまで我が子を得たいと願ったのは、やはり人としての道にもとるものだったのだろうか。
三ヶ月前、代理母出産を希望すると宣言したときの夫の表情がありありと浮かんだ。
子どもが生まれるというのは神の領域なのだ。だから、妊娠・出産を人為的に操作するのは神の意思に反するのだ。あの時、直輝は主張し続けた。更には彼はこうも言ったのだ。
子どもがいないのは淋しいけれど、これからは夫婦二人で穏やかな日々を紡いでいこう、と。でも、あのときの自分は頑なに代理母出産に拘り続け、結局、有喜菜を代理母として選び、決行した。結果として、有喜菜は妊娠。
あと十ヶ月後には、待望の我が子が産声を上げる。すべては自分の望み通りになったはずなのに、何故か心は虚ろで寒々としていた。
夫の反対を押し切り、成し遂げ勝ち得た妊娠。自分で生むことはついに叶わなかったが、考え得る限りのあらゆる手を尽くして、とうとう自分の血を引く赤ん坊をこの手に抱くことができる。
しかし、代理母出産をすると告げた日から、夫との間には溝ができ、それは深まるばかりだった。今や夫婦の会話は全くなく、直輝はただ自宅には食事と寝るためにだけ帰るようなものだ。仮面夫婦どころか、今の紗英子は夫にとっては単なる家政婦か同居人にしかすぎない。
あの夜、直輝が
―お前には、ほとほと愛想が尽きた。
と言ったのは何も言葉の勢いだけではなかった。そのことを今になって紗英子は漸く悟ったのだった。
それに、先刻、見た有喜菜の仮面のような表情が瞼に浮かぶ。
―要するに、私の役目は十ヶ月後に、元気な赤ん坊をあなたに渡すことでしょう? それさえ守れば、あなたに私の私生活についてあれこれと口出しする権利は一切ないの、良い?
言い放った時の冷たい瞳。紗英子は静まり返った湖のように感情の欠片も宿さない双眸を思い出し、身をぶるりと震わせた。
いや、あの静謐な瞳の奥底に一瞬、揺らめいたのは蔑み? それとも、憐れみか勝ち誇った勝者の余裕だったかもしれない。
そんなことを考える自分の方がどうかしているのだろうか? 有喜菜は紗英子の二十六年来の友人なのに。すべてが悪い方へとしか考えられなくなってしまっている。
もしかしたら、たった一人の友達すら永遠に失ってしまったのかもしれない。
友達と夫と。
いちばん大切なものを手放した自分。果たして、そこまでするだけの価値が本当に代理出産にあったのだろうか。
子どもが人生最大の幸福とは限らない。
何かのエッセイで読んだ一文がそこだけ鮮やかに甦った。
愚かな、なんて、愚かな私。
ともすれば後悔に泣いてしまいそうになる心を、それでも紗英子は懸命に自分を叱咤する。
きっと直輝の頑な心も、元気な赤ん坊の顔を見れば、春の光に溶けてゆく雪のように解(ほぐ)れていくに違いない。元気な赤ちゃんさえ生まれれば、きっと、すべてが上手くいく。
今はその儚いひとすじの光にも似た願いを祈るような気持ちで心に抱(いだ)くしかなかった。
そう、赤ん坊さえ生まれれば、すべては元に戻り、また優しい夫に戻ってくれるはず。きっと、必ず。
その夜、有喜菜は自室に籠もり、長い間、物想いに耽っていた。ベッドに仰向けに寝転がり、天井を眺めていると様々な想いが空をよぎる雲のように急ぎ足で流れてゆく。
有喜菜の手には愛用の携帯電話が握りしめられている。もうかれこれ二時間余り、有喜菜は二つ折りの携帯を閉じたり開いたりを繰り返していた。
有喜菜の耳奥で紗英子の必死な声音がこだまする。
―無闇に売薬を飲んだりして、お腹の子どもに何かあったら、どうするつもり?
今日の紗英子はいつもにも増して不安定だった。特に有喜菜の行動のすべてが気になって仕方がないように見えた。昨日は昨日で待望の妊娠が判明して、躁状態になっていたようだが、今日は一転して鬱に入っていたようだ。
まあ、紗英子の気持ちが判らないわけではない。代理母出産という異例中の異例ともいえる選択をし、一度で成功することは極めて難しいとされるにも拘わらず、有喜菜は奇跡的に妊娠した。子どもを欲しいという紗英子の一途さはよく理解しているだけに、その歓びが尋常ではないだろうことも察しはつく。
昨日の紗英子はまるで脚が地についていないようで、何を話していても上の空で夢の続きを見ているかのような節があった。
一夜明けて、その歓びも鎮静して、今度は逆に不安ばかりが生じてきているのだろうか。それも理解できないわけではないが、それにしても、これから出産までずっと紗英子に監視され続け、私生活のあれこれにまで干渉されるのでは堪ったものではない。
それでも我慢はしていたのだが、あまりにしつこいので、つい有喜菜も堪りかねて強く言ってしまった。
―そんなに私のやることなすことが気に入らないのなら、私ではなく、あなたが子どもを生めば良いじゃない。
流石に今、思い返しても、あれは言い過ぎだと思う。紗英子がどんな想いで手術を受けたかは部外者の有喜菜だとて想像はできる。女にとって子宮を取るというのは一大事に他ならない。有喜菜自身は別に切ないくらいに子どもを欲しいと思ったことはないけれど、人によって考えは違うだろう。
紗英子は子どもを持つことを人生の第一目標に掲げてきた。彼女にとって、その可能性を根こそぎ奪われた出来事がどれほど辛かったかは察するに余りある。
有喜菜自身、子どもの問題は別として女であるという証―子宮摘出という出来事が自分に降りかかってきたら、やはり相当な衝撃だと思う。
どれだけ紗英子の干渉に腹が立ったとしても、あのひとことだけは人として口にすべきではなかった。
紗英子にしてみれば、決死の想いで挑んで漸く授かった子どもに、何かあれば大変だと思ってのことに違いない。しかし、干渉される立場の有喜菜にはまた傍迷惑では済まない話だった。しかも、それがこれから十ヶ月、子どもが無事に生まれるまで続くというのだから、うんざりするのもこれはこれで仕方ない。
あんな無情な科白を口にする代わりに、何故、事を分けて〝干渉されるのはいやだから、そっと見守って〟と言えなかったのか。有喜菜なりに紗英子の心を傷つけてしまったことに対して反省はしていた。
しかし、その一方で、あくまでも有喜菜の身体を子を産ませるための道具としてしか見ていない紗英子を恨めしく思う気持ちも依然としてあった。
―あなたがそんなにも神経質なくらい私の身体を心配するのは、私のためではなくて、お腹の子どものためでしょう。
はっきりと言ってやりたい想いがないわけではなかったけれど、そんな科白を口にしても自分が惨めになるだけだから止めたのだ。
判りきったことを何を今更と思われるだけで、紗英子は反省などしないだろう。
果たして、自分が代理母などを引き受けたことは正しかったのだろうか。有喜菜の心は揺れていた。
妊娠・出産というのは、そもそも神の領域のはずである。少なくとも昔は人間には立ち入ることのできない神聖な場所であった。それが医学の飛躍的な進歩で、子どもに恵まれない人も親になることができるようになった。
それはもちろん良いことに違いない。とはいえ、幾ら医学が進歩したからといって、本当にやっても良いことなのだろうか。有喜菜の感覚からすれば、他人の腹を借りて自分の子を育てて産ませる―などというのは、はるかに想像の限界を越える行為であった。自分が紗英子の立場であっても、まずやらない。
でも、結果として有喜菜は紗英子の申し出を受け容れ、代理母となることに同意した。それはとりもなおさず、代理母出産という行為を容認したことにはなりはしないか。
有喜菜は判っていた。自分が代理母になることを承知したのは、別に紗英子の必死さに打たれたわけでも、報酬に眼がくらんだわけでもない。確かに紗英子が提示した法外な報酬は魅力的ではあったけれど、それだけで引き受けたりしかなかった。
有喜菜がこの話を受け容れた真の理由―、それは紗英子の夫直輝の存在であった。もちろん、直輝は紗英子の夫だ。これから先、間違っても、直輝と有喜菜の人生が交わることなどないだろう。
だが。直輝の子を孕み、生むという行為を通して、有喜菜は直輝と一体になれる。たとえ直輝自身は知らなくても、直輝の子どもを生むのは紗英子ではなく、この自分なのだから。生まれた子どもはすぐにでも紗英子に手渡すことになるだろう。それでも、有喜菜は直輝の子を産んだただ一人の女として、永遠に彼と繋がっていることができる。
随分と歪んだ考え方だが、有喜菜は今でも直輝をひそかに想っている。二十三年前、親友であったはずの紗英子に突如として断たれた淡い恋心は気の遠くなるような年月を経てもなお色褪せることはなく、ひっそりと有喜菜の心の底で咲き続けていた。
それは図らずも有喜菜から直輝を奪った紗英子への復讐でもあった。紗英子にはけして生めない直輝の子どもを、代わりに有喜菜自身が生むのだ。紗英子がもし、有喜菜の直輝への想いを知れば、絶対に代理母など頼みはしなかっただろう。
有喜菜の気持ちを知らない紗英子は、まんまと有喜菜に復讐のチャンスを与えたのだ。