あの日の、二十三年前の衝撃の瞬間は今も忘れがたい屈辱となって、有喜菜を責めさいなむ。
―ねえ、有喜菜。聞いて聞いて。今日、学校で昼休みに直輝君に告白したのよ、私。
 何も知らない無邪気なふりを装い、有喜菜を出し抜き、知らない間に直輝に接近していった紗英子。まるで泥棒猫のように、直輝を有喜菜から奪っていった―。
 紗英子から直輝に告白したのだと打ち明けられた刹那、有喜菜は眼の前が真っ白になったものだった。
―それで、どうなったの? 
 放課後、学校からの帰り道、川沿いの土手を並んで歩きながら、有喜菜は声を震わせないようにするのが精一杯であった。
―うふっ、直輝君ってば照れまくって、〝良いよ、俺で良ければ付き合おう〟ですって。
 紗英子はそれからも煩くさえずっていたが、有喜菜はもう何も耳には入らなかった。
 直輝が、直輝が紗英子の告白を受け容れた。その重い事実だけが有喜菜の心を支配し、打ちのめした。
―そう、良かったじゃない。
 努めて狼狽えないように、余裕を滲ませて祝福するのが精一杯。でも、自宅に帰ってからは二階の自室に駆け上がり、ベッドに打ち伏して泣いた。
 どうして、もっと早くに告白しなかったんだろう? 自分をどれだけ責めてみたところで、時は既に遅かった。有喜菜の性格からして、既に纏まってしまった直輝と紗英子の間に割り込もうとまでするつもりはなかった。
 だが、妙だとも思った。紗英子はこれまで一度も、直輝のことを好きだと話したこともなく、それらしい態度を示したこともなかった。小学校のときには、クラスの初恋の男の子について、それはもう煩いくらいに毎日、聞かされたはずなのに。
 もしかしたら、あの頃、紗英子は紗英子なりに、有喜菜の存在を牽制していたのかもしれない。そのことに疎い有喜菜が気づかなかっただけで、紗英子は有喜菜を警戒し、将来はライバルになり得ると判断して、有喜菜には直輝が好きだという気持ちを気ぶりほども見せずに彼に近づいたのだろう。
 紗英子自身にはその自覚がなかったとも考えられるが、結局、紗英子はそう取られても仕方のないことをやってのけだのだ、あのときは。
 まあ、恐らくは無意識の中に―女の勘というヤツで、紗英子は何となく有喜菜を煙たく思っていたに違いない。一年のときは有喜菜と直輝が同じクラスだったから、二年になって二人が離れ逆に紗英子と直輝が同じクラスになったのがチャンスとばかりに猛アタックした、それが真実だろう。
 あの時、奥手で優柔不断な紗英子のどこに、男子に猛アタックするほどの勇気と決断力があったのかと、有喜菜はただただ信じられない想いであった。
 直輝はどんな気持ちで紗英子の告白を受け容れたのか。その場で快諾したというくらいだから、彼もまた有喜菜など眼中になく、紗英子だけを見つめていたのか。
 だが、であれば、何故、彼は紗英子に妻となってからも見せなかった大切な宝物を有喜菜には早くから見せてくれたのか。今となっては、直輝の心を推し量るすべはない。
 有喜菜は溜息をつき、緩慢な動作でベッドに身を起こした。その時、突如として烈しい吐き気が胃の底からせり上がってきて、有喜菜は手のひらで口許を押さえた。
 狼狽えながらトイレに駆け込み、便座に掴まり覗き込むようにして吐いた。
「ううっ、う―」
 恐らく今夜、紗英子と一緒にいたときに食べたものはすべて戻してしまったのではないか。それほどに吐いた。
 漸く頑固な吐き気が治まってから、有喜菜は吐瀉物を流し、トイレを出た。洗面台で口をすすぎ、顔を洗うと少しは気分が良くなったが、不快感はまだ体内に残っている。
 悪阻が始まったのかもしれない。
 有喜菜は茫然と鏡の中の自分を見つめた。
 過去に三度の妊娠を経験しているが、悪阻らしい悪阻を経験したことはない。異変が起こるまで妊娠経過は至って順調だった。
 鏡の中の女は蒼白く、透き通るように不健康な血の気のない顔をしている。唇はルージュも落ちて、酷い有様だ。
 これから十ヶ月間、自分は子どもをこの身体の中で育てる。その事実が今初めて、ひしひしと迫ってきた。これが自分自身の子であれば歓びも湧こうが、この子は間違っても有喜菜の子ではない。憎い―あの女の子だ。
 憎い? 私が紗英子を憎んでいる?
 これまで一度も憎んだことなどなかったのに、今、自分は確かに紗英子を憎いと思った。
 有喜菜はそっと腹部を押さえた。ここに新しい生命が息づいている。そう思っても何の感慨も子どもへの愛おしさも湧かなかった。
 しかし、この子は紗英子の子であると同時に直輝の子でもあった。うまくいけば、この子は二十三年前に途切れた男との縁を繋いでくれるかもしれない。
 いや、子どもなんてこの際、どうでも良い。
 私はもう昔の私ではない。親友だと信じていた女に大好きだった彼を横取りされて、ただ泣いて堪えていた十三歳の私ではないのだ。
―ウシナッタカコヲトリモドシテ、ナニガワルイノ? サエコガカレヲヨコドリシナケレバ、カレハワタシノモノニナッテイタカモシレナイノニ。
 そう、彼を取り戻して何がいけないというのだろう?
 有喜菜は清潔なタオルで顔を拭き、口許をぬぐった。再び自室に戻り、ベッドに座る。無造作に放り出されたメタリックピンクの携帯を取り上げ、ゆっくりと開いた。
 ネットに繋いで検索をかけると、N企画の電話番号はすぐに見つかった。かなり大手の会社だから、様々な部署に分かれているものの、直輝が営業に所属していることは知っている。
―N企画営業部営業課 ○○○―△△△―×××
 その番号を手慣れた様子で入力し、アドレス帳に記憶させる。
―ウシナッタカコヲトリモドシテ、ナニガワルイノ?
 もう一人の自分の声が頭の中でリフレインしている。有喜菜はふいに疲労感を憶え、携帯を傍らに置き、そのままベッドに突っ伏した。身体がひどく疲れやすくなっている。これもやはり妊娠の兆候だろう。
 有喜菜はやがて泥のような深い眠りの底に落ちていった。
 
♦RoundⅦ(再会)♦

 直輝はパソコンの画面から一時、眼を逸らした。こめかみに鈍い痛みを感じて、瞼を閉じ指先で軽く揉む。
 腕時計を覗き込むと、既に十二時はとうに回っている。直輝は深い吐息をついた。この時計は昨年のクリスマスに妻から贈られたものだ。京都の凜工房という小さな工房で凜太という職人が手作りしている。受注生産しかしないという伝説の若い職人で、一般に売られていることはまずない。
 だが、妻はN駅の地下街の時計店でこれを見つけたという。どういう経緯でこの時計が店に並んでいたかは判らないけれど、コレクターにとっては垂涎の的である凜工房の時計はさぞ高かったに相違ない。
 主婦のポケットマネーでさらりと買えるような代物ではないのだ。それをわざわざプレゼントとして贈った妻の心を思うと、いじらしいとも思うし、また申し訳ないとも思う。
 とはいえ、自分たちはもう二度と昔のように屈託ない間柄に戻ることはないだろう。そのことも直輝には判りすぎるくらい判っていた。
 もちろん、妻の紗英子とは単に夫婦として過ごしてきたというだけではない。互いにまだ子どもといえる十三歳のときから恋人として付き合い、結婚した。言わば、長年の歳月を共にした同士という感覚もあり、幾ら溝ができたからといって、憎んだり嫌ったりしているわけではない。
 が、夫婦として―いや、紗英子をもう一人の女として愛することは自分にはできないと、直輝は思っている。紗英子は昨年末、子宮全摘という大変な手術を受けた。男の自分には完全には理解し得ないことではあるけれども、女がその象徴ともいえる子宮を失うというのがどれだけ辛いかくらいは察せられた。
 その大変な手術を乗り越えた妻を、直輝は愛おしいと思っていた。結婚当初から子どもを欲しがり、様々な不妊治療を試みてきても、二人はついに子どもに恵まれず、最後は紗英子が子宮を失うという哀しい結果に終わった。
 よく子宮がなくなれば、女ではないなどと馬鹿げたことを言う輩がいるが、直輝は間違っても、紗英子をそんな風に見たことはない。子宮があろうがなかろうが、紗英子は妻であり、直輝にとっては生涯を共に歩くと決めた伴侶であった。今更、子どもができないことで彼女を責めるつもりも、離婚するつもりもなかった。
 むしろ、子宮を失ってしまった妻を側で支えてやりたいと願っていたほどだったのだ。
 だから、直輝の心が紗英子に対して醒めてしまったというのは、断じて紗英子の身体の変化には関係ないのだ。
 きっかけはクリスマスの当日、紗英子が代理母出産をしたいなどと言い出したことに違いない。あんな馬鹿げた話を紗英子が持ち出さなければ、自分たち夫婦の仲がここまでこじれることはなかった。
 直輝は最後まで何とか紗英子を翻意させようとした。直輝は熱心な信徒というわけではないが、いちおうクリスチャンだ。実家は代々、仏教を信仰している家で、別段それに逆らうつもりもなく、ただ何となく信仰を寄せているという程度のものである。
 たまには日曜朝に教会の礼拝に参加することもあった。煩雑な日常の中で、町外れの小さな教会に身を置くと、どこかホッとした気持ちになれるのは確かだ。礼拝に顔を出す中には、名前は知らずとも顔見知りになった人もいて、そんな人たちがいつものように礼拝に参加しているのを見ると嬉しくなった。
 時計のコレクション同様、彼がひそかなクリスチャンであることを妻は知らない。たまに日曜の朝、ふらりと出かけるのも散歩くらいにしか思っていないだろう。別に秘密にしておこうと思ったわけではないけれど、妻に知らせないひそやかな愉しみがあっても良いだろうと思って口にしなかっただけだ。
 それに心配性の紗英子に迂闊に話せば、
―信仰宗教に入れ込んでいるんじゃないんでしょうね。
 などと、騒ぎ立てるのは眼に見えている。
 紗英子という女は、実家や婚家が仏教を信奉しているのに、キリスト教に惹かれている―そういうことを理解できない、許せないのだ。常識的といえば聞こえは良いが、要するに許容力が狭いのである。
 思えば中学生の頃、時計のコレクションを紗英子に見せなかったのも、紗英子のその性格を自分は見抜いていたからかもしれない。もちろん、コレクションを見せたからといって、紗英子はそれを否定したりはしなかったろう。が、あれこれと根掘り葉掘り訊きたがるには違いなかった。
 男というものは自分が大切にしているものに対して、女にあまり口出しされるのは好まない。いや、それは男でも女でも同じなのではないかと思う。
 その点、有喜菜は違った。紗英子と付き合うようになる前の中一時代、有喜菜はよく直輝の自宅にも遊びにきた。別に有喜菜にコレクションを見せたのは偶然のなりゆきにすぎなかったけれど、あの時、有喜菜は眼を輝かせて〝凄いわ〟と言っただけで、彼のコレクションについて煩く訊ねてきたり論じたりすることはなかった。
 ただ一緒になって、直輝が大切に集めてきたコレクションに眺め入っていただけであった。あの時、有喜菜が静かな理解を示してくれことが、少年であった直輝には嬉しかった。たかだか中学生が集めた安物の腕時計たちがこの上なく価値のあるもののように思えたのだ。
 キリスト教で代理母を禁じているわけではないが、もしイエスがこの世におわせば、やはり妊娠・出産というそもそもは自然の領域である部分に人間の手が加わることは間違いだと言うに違いない。
 もちろん、直輝だとて人間である。人並みに子どもを欲しいと願う気持ちはあるし、我が子をこの腕に抱いてみたいとも思う。だが、妻以外の女の腹だけを借りて―他人の身体を道具として利用してまで、我が子を得たいとは思わない。
 その点が紗英子とは決定的に考えが異なるのである。しかも、紗英子は子宮を喪ったことで、怖いくらいに思いつめている。もう進むべき道がないと思い込み、何が何でも子どもを得なければという半ば強迫観念のようなものに取り憑かれているように見えた。
 これまで不妊治療には気が進まなかったものの、直輝は何とか協力してきた。紗英子にはこの言い方が気に入らなかったようではあるが、まさしく〝子どもを一途に欲しいと願う妻が可哀想〟だったからだ。
 直輝の考えでは、子どもは欲しいし、いればいるに越したことはないが、無理な治療を続けてまで得る必要はない。世の中には敢えて夫婦二人で生きていく生き方を選択する夫婦だっている。だから、自分たちも子どもは諦めて、夫婦で寄り添って生きていけば良いのではないかと考えていた。
 子どもは絶対にいなければならないという人生と、いなくても、何とかやっていけると思う人生。二人のこの考え方が夫婦間の亀裂を決定的なものにした。
 直輝は物想いから自分を解き放ち、また溜息をついた。正直、最近はこの妻から贈られた時計が重荷になりつつある。この時計を見る度に、妻の存在を強く意識してしまい、引いては例の代理出産のことに意識が飛んでしまうのだ。
 あろうことか、受精卵を代理母の子宮に戻す治療は第一回めで成功したという。直輝はどこかで高をくくっていた。体外受精というだけでも難易度が高く、ましてや代理母出産というのはその中でも最高峰といっても良いほどの難しい治療になる。
 まず一度で成功することはないと聞いていたから安心していたのに、何と代理母はその一度目で妊娠した。むろん、すべて紗英子から聞かされた事後報告ではあったが。
 紗英子から決意を聞かされた当初、直輝はあくまでも精子は提供しないと主張した。しかし、紗英子が包丁を持ち出して自殺の真似事までするに及んで、これはもう引くに引けないところまできてしまったのだと悟った。
 あの時、直輝が承諾しなければ、紗英子は真似事どころではなく、本当に包丁で喉をかき切っていただろう。あの瞬間、妻はとうとう狂ってしまったのだと思わざるを得なかった。そして、静かな諦めが直輝の心の中にひろがっていった。思えば、あのときから、自分の心は妻から離れていったのだ。
 眼の前で死なれては堪らないから、一度だけという条件付きで承諾したのに、何ともはや運命とは皮肉なものだ。どこの誰とも知らぬ代理母はそのたったの一度で身籠もったとは。
 確かに紗英子の主張するとおり、代理母の胎内に宿った子どもは血縁的にも直輝と紗英子の子どもだ。今の日本の法律では自分たちの実子とは認められないかもしれないが、誰が何と言おうと、我が子であることに変わりはない。
 しかし、血縁的には親子であろうが、自分がその子どもを我が子として受け容れられるかどうかと問われれば、NOとしか応えようがなかった。直輝の考えでは、たとえ百パーセント自分の遺伝子を持っていようが、第三者の女性の胎内を借り腹として生まれてきた子どもは、あくまでも自分の遺伝子を持った他人にすぎなかった。子どもとは本来、男女が愛情を高め合った上での親密な行為の果てにできるものなのだ。
 たとえ、自分の考えがどれほど理想論すぎると笑われても、直輝はその考えを変える気は毛頭ないのだ。自分の気持ちが判っているからこそ、直輝は紗英子を止めた。紗英子は恐らく、生まれてきた赤ん坊を見れば直輝の気持ちも変わるだろうと希望的観測を抱いているのだろうが、恐らく、それはあり得ない。
 結局、不幸なのは生まれてきた子どもではないか。人為的操作を施され、この世に誕生させられた小さな生命を、直輝は父親として認め慈しんでやることはできない。母親である紗英子は溺愛するではあろうが、その子を得ようとしたそもそもの出発点が間違っている。
 自分たち夫婦がこの先、どうなってゆくのが実のところ、直輝自身にも判らなかった。紗英子が代理母出産を諦めてくれさえすれば、まだまだやり直しはできたはずなのに、幸か不幸か一度目の治療で代理母が妊娠したことが、自分たち夫婦を二度と寄り添えぬ関係にしてしまった。
 紗英子から贈られたこの時計も実をいえば、外してしまいたい。しかし、それをしてしまえば、自分たち夫婦の仲は本当におしまいなのだと判っているから、できないでいた。
 直輝は三度目の溜息を盛大につき、心もちネクタイを緩めた。
 その時。内線が鳴り響き、直輝は眉を顰めて電話を取った。
「もしもし」
「矢代課長、外線三番にお電話です」
 どこか舌っ足らずな口調なのは、受付課の小泉満奈美に違いない。
「ああ、判った」
 直輝は事務的な口調で言った。
 と、急に満奈美の口調が馴れ馴れしいものへと変わった。
「課長も隅に置けないんですね。女性の方ですよ、電話」
「君には関係ない話だろう」
 直輝は努めて冷淡に断じる。この小泉満奈美という女には手を焼いていた。
 直輝は社内でもかなりモテる方であった。別に自分で言っているわけではなく、どうやら同僚たちの噂では、そのようなことになっているらしい。自分のどこが良いのか判らないが、若い女子社員の中では〝社内で不倫してみたい、抱かれてみたい男〟のナンバーワンだとか。