S市のエンジェル・クリニックに到着した時、既に夜は明けていた。始発を待って乗り込み、S駅からはタクシーを飛ばしても、時間は八時を回っていた。このときはもう有喜菜の出産は終わっていた。
 未明にドクター・ヘリでN町の総合病院からS市のクリニックに搬送された有喜菜は直ちに帝王切開の手術を受けた。
 処置が適切で何とか間に合ったこともあり、手術は無事に終わり、母子共に異常はないと聞かされ、紗英子の眼に涙が溢れた。
 不妊治療を受ける患者は別棟の不妊治療外来に行くが、妊娠確定後も一般の妊婦たちと同じ扱いではなく、従来の不妊治療外来で経過を診る。特に代理出産のようにデリケートでプライバシーの守秘を厳重にする必要がある場合は、こちらですべてが行われる。
 しかし、それも出産から後は一般の産婦人科病棟に移り、一般のお産と同じように扱われた。
 新生児室は、その一般病棟の三階にあった。向かいにナースステーションが見え、新生児室は全面がガラス張りの窓になっており、来院者たちからも内部の様子が見られるようになっている。
 今もたくさんの赤ちゃんたちがコット(移動式のベビーベッド)に寝かせられている。大声で泣きわめく強者や、すやすやと寝入っている落ち着き屋もいて、生まれたての赤ちゃんとはいえ、人間というものは、こうまで早々と個性を持っているのかと愕かされる。
 紗英子は若い看護士に案内され、ガラス張りの窓に近づく。向かって最奥から二番目、ピンクのベビードレスを着ているのが紗英子の―いや、紗英子と直輝の子どもであった。
 コットの前面には〝宮澤有喜菜様 出生 2013.11月10日 A.M.5:06〟とプレートに書いてある。赤ん坊の小さな手首には女の子であることを示すピンクの腕輪がはめられていた。
 やはり、建前上、この子の母親は有喜菜ということになっているが、それはこの際、問題ではなかった。
 現行の日本の法律では、この子を紗英子と直輝の実子として戸籍に入れることはできないのだ。でも、そのことは承知で代理出産という道を選択したのだから、悔いは一切ない。
 ピンクの小さなカバードレスがそれでもまだ大きく見えるほど小さな赤ん坊は出生体重、2,700gと記されていた。体長は48.5㎝。
 顔はこれもまた、ぶかぶかのピンクのニット帽を被らされているので、定かではないけれど、紗英子というよりは直輝に似ているように見えた。特に眼許などは写し取ったように直輝に似ている。大きくなったら、さぞかし綺麗な子になるだろう。
 紗英子がガラス越しの我が子との対面に感慨深く浸っていたその最中、直輝が近づいてきた。彼はただ黙って横に並んで赤ん坊を眺めていた。
 紗英子はある種の期待に満ちた気持ちで夫を振り返り、見上げた。
 これですべてがうまくいく。長い間、欲しいと願っていた我が子を授かり、自分たち夫婦は本来あるべき姿に戻ることができるだろう。
 紗英子は微笑み、明るい希望に満ちたまなざしを夫に向けた。しかし、次の瞬間、直輝の口から出たのは、世にも信じがたい科白だった。
「別れてくれないか」
 〝え〟と、紗英子は自分でも愚かしいと思えるほど、無防備な声を出した。直輝の静かすぎる表情にほんの一瞬、憐憫とも悔恨ともつかぬ別の感情が浮かび消えた。
「自分が今、どれほど残酷なことを口にしているかは判っている。だが、俺たちはもう終わりだ。俺は今度のことでつくづく思ったよ。俺とお前の望むものはあまりにも違いすぎる。俺が犯してしまった罪といえば、そのことにもっと早く気づくべきだったということだ」
 紗英子は縋るような眼で夫を見た。
「どうして、どうして、そんなことを言うの? やっと、やっと子どもに恵まれたのに。私たち、赤ちゃんが生まれて、これからまた新しくやり直せるんじゃなかったの?」
「無理だ。俺はもう、お前とは歩いていけないよ」
 苦渋に満ちた顔で断じた夫が紗英子はまるで見知らぬ他人のように思えた。刹那、彼女の中で閃くものがあった。
「有喜菜、有喜菜ね? あの子が代理母だっていうことを自分からあなたに告げたのね。あれほど直輝さんには話さないでって頼んでおいたのに、あの裏切り者、泥棒猫!」
 口汚く罵る紗英子を、直輝が哀れむような眼で見つめた。
「止さないか。有喜菜のことは俺たちの離婚には一切関係ない。確かに俺は」
 そこで、直輝はひとたび言葉を句切り、うつむく。そのままの体勢で言葉短く告げた。
「俺は有喜菜を必要としている」
 その言葉に、紗英子はカッとなった。夫はあくまでも紗英子を見ようとはしない。
「有喜菜は必要としていて、私はもう必要ではない、つまり用済みっていうことなのね? あの女は自分が代理母だって告げて、あなたの気を引いたんだわ」
 直輝の声にやりきれないものが滲んだ。
「彼女は生命賭けでお前の子どもを生んでくれた恩人だろう」
「私の子ども? 私一人の子どもだっていうの! あの子は、あなたの子どもでもあるのよ?」
 激した口調で言い募るのに、直輝は頷いた。
「それは判っている。生まれてくるまでは愛情が持てるかどうか自分でも不安だったが、こうして、生まれてきた子どもを見ていると、愛おしいと心から思えるよ」
「じゃあ、何故? どうして、別れようなんて言うの? あなたは自分の血を分けた子どもを棄てるというの」
 直輝がゆっくりと首を振った。
「たとえ代理出産で生まれた子どもではなくても、子どもがいながら離婚する夫婦はたくさんいる。考えてごらん、互いに情の通い合わない両親の下で育つ子どもが果たして幸せといえると思うかい?」
「―」
 その科白に、紗英子は息を呑んだ。
 夫の顔を見ても、その整いすぎるほど整った面には最早、何の感情も浮かんではいない。その事実が何より物語っていた。既に直輝の心は自分から離れてしまっていることに―。
 そして、紗英子は気づいたのだ。このすべてを諦め切ったような哀しげな静けさは、かつて、有喜菜が紗英子に見せたものに似ていると。
 妊娠が判った日、有喜菜が湖にはるかな視線を向けながら、ひっそりと纏っていた静謐さに通ずるものがあった。もしかしたら、直輝と有喜菜はとても似た者同士なのかもしれない。魂の奥深い部分での同士とでも言えば良いのだろうか。
 やはり、直輝の側にいるべきだったのは、この自分ではなく有喜菜であったのか。
 紗英子はもう、どれほど言葉を尽くそうと、夫の心を取り戻せないことを知った。
「子どものこれからの養育費はもちろん、俺がすべて負担する。お前が生んだというのならば、認知もできようが、残念ながら、今のこの国の法律ではそれも認められない。だが、たとえ戸籍上は赤の他人でも、この子が俺の子どもだという事実は変わらないし否定するつもりもないんだ。それだけは理解して欲しい」
 去ってゆく直輝にできることは、それが精一杯だと判っていた。彼は彼なりに最後まで誠意を尽くそうとしているのだ。不実な男であれば、代理出産は紗英子一人が勝手に行ったことと言い逃れて知らん顔もできるのだから。
「判ったわ」
「じゃあ。俺はもう行くよ」
 直輝が踵を返そうとするのに、紗英子は早口で声をかけた。
「赤ちゃんは、赤ちゃんを抱いてはいかないの?」
 直輝の歩みが止まる。彼は首だけをねじ曲げるようして振り返った。
「抱いてしまえば、余計に別れの辛さが身にしみる。いつか、もし許されるなら、その子が大人になった時、俺と対面させてくれ」
 直輝の眼には光るものがあった。泣いているのかもしれない。
 今度こそ、彼が背を向ける。大好きだった彼が、十二歳のときから今までずっと見つめ続けてきた彼が、私から去ってゆく。
 紗英子は大声で泣きわめき、直輝を引き止めたい衝動と必死に闘った。
「有喜菜と―結婚するの?」
 最後にこれだけは訊いておきたいと声をかけた。
 直輝はまたしても立ち止まったが、今度は振り返らず向こうを見たままで言った。
「今はまだ、はっきりと決めたわけではないが、多分、そういうことになるだろうと思う」
 曖昧な口調でぼかしたのは、紗英子の気持ちを推し量ってのことだろう。直輝は昔から一本気なところがあった。こうと目標を決めたら突き進むような性格なのだ。
 やがて廊下の角を曲がり、直輝は永遠に紗英子から去っていった。
 もう多分、彼と逢うことは二度とないだろう。紗英子は自分に歓びをもたらしてくれたはずの赤ん坊から視線を逸らし、直輝が去ったのは別方向へと歩いていった。

 その日は一旦、N町のマンションに戻った。有喜菜はまだ面会謝絶で、逢えるような状態ではなかった。輸血もしたとかで、数日は安静が必要だと担当医から説明を受けた。
 有喜菜に逢うまでに数日の間を持てるのは、紗英子にとっても幸いなことであった。今日、直輝に別離を切り出されたままで逢ったとしたら、きっと有喜菜をとことんまで責め、罵倒してしまったに違いない。この数日間で、紗英子も自分なりに今の状況を把握し、受け容れることが幾ばくかでもできるはずだ。
 当然ながら、マンションに直輝の姿はなかった。予め覚悟していたことではあるけれども、まだ一縷の希望に縋っていたのに、それもすべては粉々に打ち砕かれた。
 クローゼットからは、直輝のめぼしい衣装はすべて消えていた。紗英子が帰宅するまでに彼もこちらに戻り、身の回りのものを整理して持ち出していったのだ。
 紗英子は未練がましく、まだ希望的観測を抱いていた自分を嘲笑った。
 かつて夫婦で使っていた寝室に脚を踏み入れると、紗英子のベッドの上に腕時計が置かれていた。凜工房の時計、紗英子が去年のクリスマスに結婚記念日の祝いを兼ねて彼に送ったものだ。
 思えば、あれはまだほんの一年前にすぎない。去年のクリスマス・イブの夜、二人だけでささやかなパーティをし、プレゼントの交換をした。その後で、直輝は情熱的に紗英子を求め、二人は幾度も愛を交わした。
 たった一年が過ぎただけだというのに、自分はひとりぼっちになってしまった。
 一体、自分の何がいけなかったというのだろう。我が子を持ちたいと願い、代理出産を選択したことが、大切な夫を失わなければならないほどに悪かったのだろうか。
 広いベッドに置き去りにされた時計が彼の決意を何より象徴している。
 紗英子は夫がいつも寝ていた傍らのベッドに身を投げ出し、すすり泣いた。シーツからは夫が好んで使っていたコロンの香りがした。樹木を思わせるような爽やかな香りが紗英子は大好きだった。
 
 五日後、紗英子は再びS市のエンジェル・クリニックに赴いた。
 有喜菜は三階の右端の部屋にいた。今回は特に特等個室ではなく、ごく一般的な個室である。
 軽くノックしても返事がなかったため、紗英子はドアを開けた。
 有喜菜は既に歩行もできるようになっており、そのときはベッドの上に身を起こしていた。
 傍らに小さなコットが置かれている。中を覗き込むと、赤ん坊がすやすやと寝息を立てていた。
「今回は色々と大変だったわね。でも、お陰で元気な子どもが生まれたわ。本当にありがとう」
 その後で代理出産の報酬は今日付で有喜菜の指定口座に振り込むことを告げた。
 他にかけるべき言葉は何もなかった。
 ともすれば、烈しい感情が殻を破って暴れだそうとしている。気を許せば、夫を奪った女、約束を破った卑怯者と罵倒の言葉を投げつけてしまいそうな自分が怖かった。
「約束を果たせて良かった。これで、私の役目も終わったのね」
 有喜菜は淡々と言い、視線を動かした。
 その先は赤ん坊に向かっている。
「この子はあなたに返すわ。だから、彼を私にちょうだい」
 有喜菜は紗英子の方を見ようともしないで言った。
「報酬も要らないから」
「子どもと報酬の代わりに、彼を渡せというの?」
 その時、有喜菜が初めて紗英子を見た。
「別にそんなつもりはないわ。ただ、彼が言っていたの。私たち―むろん、紗英と直輝と私、三人のことだけど―は、きっと進むべき道を間違ったんだろうって。間違いに気づいたならば、今からでもそれを正すべきだってことも」
「彼が私を選んだのが間違いで、あなたを選ぶべきだったとでもいうの?」
 興奮と屈辱に、つい声が上擦った。
「怒らないで。大きな声を出したら、赤ちゃんが起きてしまうわよ」
 ムキになる紗英子とは反対に、有喜菜は至って落ち着き払っている。
「誰もそんなことを言っているのではないの。それに、何が正しくて間違いだったかなんて、それこそ天の神さまにしか判らないでしょう。ただ」
 有喜菜は言いかけ、口をつぐんだ。紗英子から視線を剝がし、ベッドの側―窓越しに何かを見ている。
「ただ?」
 沈黙に堪りかねて問うと、有喜菜は視線を窓の外に投げたままで呟いた。
「ただ、判っているのは、二十四年前、あなたが直輝を好きだったように、私も彼を好きだったっていうこと」
 そのひと言に、紗英子は鋭く息を呑んだ。
 やはり、有喜菜も昔、直輝を好きだったのだ! 
 そして、何を今更と嗤う。有喜菜が彼を好きだということなど、とうに自分は知っていたはずだ。知っていて、気づかないふりをしていた。いや、正確にいうと、事実を認めるのが怖かったのかもしれない。でも、本当に気づいていないのなら、有喜菜に好きな男がいると直輝に嘘をついてまで、彼を奪ったりはしなかったはずだ。
 五分後、紗英子は赤ん坊を抱いて部屋を出た。有喜菜は帝王切開なので、あと数日は入院して経過を見るが、赤ん坊の方は至って順調そのものであり、特にこれ以上の入院の必要はないという。
 つまり、今日、紗英子は我が子を連れて晴れて家に戻るのだ。
 病室を出て一歩踏み出したその時、紗英子の中でストンと落ちてきたものがあった。
 あの横顔。先ほど、病室で有喜菜が横を向いたときに見せたあの表情は紛れもなく、夢の中で見た謎の女に違いなかった。直輝の上に全裸で跨り、淫らに腰をくねらせ、喘ぎ声を上げていた女。
 そして、紗英子は一年前にも、五日前に見たのと殆ど同じ夢を見ている。
 五日前の夢では、女は顔を見せなかったけれど、一年前に見た夢では、後ろを向いていた女が一瞬、紗英子を振り返ったことがある。あのときに見た顔は、確かに今日、病室で見た有喜菜の表情と一致していた。
 淫夢で見た女の顔は有喜菜だった。いつかの淫らな夢が現実になったのだ。紗英子は今、あの夢はやはり予兆であったのだと悟った。
 直輝と有喜菜は、紗英子の知らない間に、既に結ばれていたのだ。何の根拠もないことだが、この時、紗英子は理解した。
 それは妻、いや元妻であった女特有の勘とでも呼べば良いかもしれない。或いは同じ男を軸に有喜菜と二十四年もの間、ずっと牽制し合ってきた女の勘?
 いつ二人が再会し、どんな形で関係を持つようになったのかは知らないけれど、二人が既に引き離せない関係にあることだけは判った。恐らくは紗英子の推察どおり、有喜菜から直輝に真相を告げたに違いない。
 だが、すべてはもう終わったことだ。今更、有喜菜を裏切り者と責めたところで、壊れた関係が修復できるものではない。
 第一、二十三年前、自分が嘘をついて直輝を奪ったそのときから、悲劇は既に始まっていたのだ。まさしく、最初に裏切りと呼べる行為に走ったのは、この自分だった。紗英子の中で果てのない虚無感が押し寄せ、ゆっくりひろがっていく。
 紗英子は腕に抱えた赤ん坊を抱き直した。
 愛おしく何よりも大切なはずの我が子が何故か、急に疎ましいものに感じられた。子どもをこの手に抱けるのなら、何を引きかえにしても良いとまで思った。
 待望の子どもをやっと得たというのに、胸にひろがってゆくこの喪失感は一体、何なのだろう。
 
 一階まで降り、受付で子どもを連れて帰ることを告げて外に出た。
 玄関から続く庭を歩いていく中に、紗英子の眼に映じたグラジオラスの花が涙にぼやけて滲んだ。
 そのままぼんやりと歩いていると、ふいに腕の中の赤ん坊が泣き出した。
「あらあら、どうしちゃったの?」
 紗英子は狼狽え、赤ん坊を揺すり上げる。出産に備えて育児書はたくさん読んで知識は詰め込んだつもりだけれど、実践が伴わないのだ。
「ええと、まずは襁褓、それからミルク―」
 育児雑誌でたたき込んだ知識を総動員しかけたその時、向こうから若い看護士が歩いてくるのが見えた。顔見知りなので、挨拶する。
「こんにちは」
「まあ、こんにちは。そうかー、今日、赤ちゃんの方は退院なんですね」
 看護士は丸い顔をほころばせた。
「色々とお世話になりました」
「いいえ、でも、本当に良かったですね。赤ちゃん、大切に育てて上げて下さいね」
「はい」
 紗英子は頭を下げた。
「元気で大きくなるのよ」
 看護士は紗英子から赤ん坊を抱き取った。不思議なもので、看護士に抱かれた途端、赤ん坊は泣き止んだ。
「あら、泣き止んだわ」
 眼を丸くする紗英子に、看護士は微笑んだ。
「赤ちゃんはとても敏感なんですよ。弱い存在だから、余計に身の危険を察知するところがあるというか。矢代さんはまだ赤ちゃんの抱っこには慣れてないでしょう。だから、抱き方でそれを感じて、不安になって泣いちゃう。大丈夫ですよ、新米お母さんは皆、同じようなものですから。少しずつ育児をしていく中に、上手な抱っこの仕方も判るようになってきます」
 看護士はおくるみに包まれた赤ん坊を紗英子に返した。
「でも、この子、本当にお母さんによく似てますね」
「お母さんって、私のこと?」
 紗英子がきょとんとするのに、看護士は笑う。
「当たり前ですよ。この子のお母さんっていえば、矢代さんしかいないじゃないですか」
 その科白は紗英子の心をついた。
 この子のお母さんといえば、私しかいない。
 思わず涙が溢れてきた。
 どうして、この子の存在をただの一瞬でも否定したりしたのか。苦い後悔がよぎった。
 その刹那、迸るような愛おしさが身体の芯から突き上げてきた。
 ―この子は私の子ども。たとえ他人の腹を借りて生まれてきても、紛れもない私自身の血を引く我が子なのだ。
 私はもう母親なんだわ。
 私にはもう、この子しかいない。
 紗英子は赤ん坊を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。先ほどまで涙の膜の向こうでぼやけた花の色が今は、はっきりと見えた。
 澄んだ冬の陽射しが眼にも鮮やかな黄色の花を優しく包み込んでいる。外は身を切るような寒さにも拘わらず、その花の周囲は温かさと希望に溢れているようでもあった。
 紗英子には、その先に自分と我が子の未来が続いているように思え、思わず微笑していた。

♦Epilogue(終章)♦

我が子真歩へ

 私の赤ちゃん。
 ようこそ、ママの許へ来てくれて、ありがとう。あなたの誕生には、たくさんの人の想いがこもっていることをどうか忘れないで。
 あなたにはママしかいないけれど、ママはパパの二人分、あなたを大切にして愛してあげるから。
 いつか、あなたにもパパのこと、あなたがどうやってこの世に生まれてきたかを話すときがくるでしょう。
 どうか忘れないで。
 この世に生まれてきたということが、どんなにかけがえなく幸せなことかを。
 あなたはママの宝物、天の神さまが授けて下さった大切な大切な赤ちゃんなんだからね。

             (完) 
     
  
 
 
  
 
グラジオラス
  花言葉
    情熱的な恋、密会、用心、たゆまぬ努力。十一月十日の誕生花。十一月生まれの人の誕生石はトパーズ。