―考えてみれば、紗英子も含めて俺たちは出発点を間違えてしまったんだろうな。
 ただ、この時、有喜菜の耳奥では、公園で直輝が呟いた言葉がありありと甦っていた。
 何故、私たちは、こうなってしまったのだろう。かつての親友が親友ではなくなり、夫婦が別れるようなことになってしまったのか。
 めぐる想いに応えはない。
 ただ、これだけは一つ確かに言えることがあった。直輝の言うように、やはり間違いに気づいたならば、気づかないふりをしてそのまま同じ道を進むのではなく、勇気を出して振り出しに戻ってやり直すべきだ。
 それが、これ以上の不幸を重ねないための、せめてもの生きてゆくすべだろう。
 自分と直輝にも、そして、紗英子にも。
 この先、何が待ち受けているかは判らない。でも、とりあえず今の自分の役目は紗英子の子どもを生むこと。
 紗英子が何を犠牲にしても得たいと願った宝物。もしかしたら、この子が私の中に舞い降りてきたのも、天の神さまの意思なのかもしれない。恐らく、これが親友として彼女にしてあげられる最後のことになるだろう。
 有喜菜はひっそりと微笑んだ。自己満足でもない、混沌の中にひとすじの光を見出した彼女の横顔はどこか町の小さな教会で見かける、赤児のイエスを抱く聖母マリアにも似ていた。
 その時、有喜菜のお腹をまた、赤ん坊が元気よく蹴った。
 有喜菜の出産予定日まで、あと一ヶ月。
 
♦予知夢~黒い霧~♦ 

―苦しい。誰か助けて!
 一面を覆い尽くす漆黒の闇の中で、紗英子は懸命にもがいていた。自分を取り巻くのはただ黒い霧ばかりで、手探りで先に進もうとしても、一体、前進しているのか後退しているのかすら判らない。
 自分はここで何をしているのだろう。焦燥にも似た想いで一杯になり、狼狽え周囲を見回してみても、絶望を宿した瞳に映るのは、ただ黒い靄(もや)のようなものばかりで。
 よりいっそう深い落胆に囚われつつ、紗英子は眼をこらして何とか活路を見出そうとする。
 と、その時。スウッとあたかも海が割れてひとすじの道が現れるかのように、眼前の黒霧が晴れていった。何事かと前方を更に凝視していると、その中、あれほど立ちこめていたのが嘘のように、からりと晴れた前方に誰かがいるのに気づく。
―ねえ、そこにいるのは誰なの? お願い、私を助けて。
 紗英子は声を振り絞る。
 しかしながら、数十メートル先にいるはずの人間たちは、いっかな紗英子に気づく風もない。
 人間たち?
 紗英子は茫然として前方を見つめた。あそこにいるのは一人ではなく、二人だ。それにしても、あの人たちは何をしているのだろう。疑問に思いながら伸び上がるようにして見つめている中に、突如としてテレビ画面がクローズ・アップするように、一つの光景が大きく迫ってくる。
 その二人は男と女だった。男の顔は―。
 そこで、紗英子は背中に氷塊を入れられたように、ゾワリと身体中の膚が粟立つのを憶えた。
 男の顔は紛れもなく夫直輝のものではないか! 更に背中に届くロングヘアーしか見えないが、あの均整の取れた抜群の体躯を有しているのは。あそこまで並外れた容姿を持つ女を少なくとも紗英子は一人、知っている。
 そう、小学生時代からの親友宮澤有喜菜である。直輝がこちらを向いているのに対し、女の方は背を向けているので、紗英子の方からは容貌までは判別がつかない。
 だが、あの見事に成熟した肢体といい、艶やかな長い髪といい、すべては紗英子の記憶にある有喜菜のものと一致していた。かなり前から、有喜菜は明るいブラウンに染めていた髪を黒髪に戻し、伸ばしている。
 幾つもの闇を集めたような漆黒の長い髪は、彼女をよりエキゾチックで謎めいた美女に見せている。ご丁寧に、夢の中の女は、その丈なす豊かな黒髪までもが有喜菜と酷似していた。
 何故? どうして、直輝さんと有喜菜が?
 ただ一つの疑問だけが嵐に翻弄される頼りないわくら葉のように舞い踊る。
 現在、二人の間には何一つ接点はないはずだ。有喜菜が代理母であることを、夫は知らないのだから。
 有喜菜のことを考えている中に、紗英子の胸に苦いものが込み上げてきた。
 幼いときからの恋人であり、やがて夫となった大切な直輝についた小さな嘘。
 あれは確か、中二になったばかりの頃。それまで同じクラスだった直輝と有喜菜が離ればなれになり、入れかわるように紗英子と直輝が同じクラスになった。有喜菜から中一のときに紹介されて以来、紗英子は直輝にずっと憧れていた。
 でも、直輝はいつも有喜菜とくっついていて、二人の間に紗英子の入る余地はなかった。もちろん、当時、直輝と有喜菜はカップルというわけでもなく、付き合っていたわけでもない。
 二人がつるんでいる様子は、どこから見ても男の子同士の無邪気な友情に見えた。だが、紗英子はそれが気に入らなかった。
 中二になって同じクラスになってからというもの、紗英子は積極的に直輝にアプローチしていった。
 何事にも消極的で大人しく、いつもクラスの喧噪の片隅で縮こまっているような自分が何故、あんなにも積極的にふるまえたのかも判らない。それほどあからさまに直輝に近づいていった。
 例えば、休み時間にわざと数学の問題集を持っていって、〝ここが判らないの、教えてくれない?〟と訊ねてみたり、あるときは手作りの弁当を二人分持参してみたり。
 そんなある日、直輝に突然、訊ねられた。
―有喜菜って、誰か好きな男はいるのかな?
 あれは紗英子にとって思いもかけぬ爆弾発言であった。
―さあ? どうなのかしら。
 紗英子は愛らしく首を傾げながらも、心の中ではめまぐるしく思考を回転させていた。
 次の瞬間、紗英子は直輝に言ったのだ。
―あ、でも、そういえば、この間、有喜菜が言ってたっけ。F組の杉田君のことが一年の頃から、ずっと気になってたって。
 紗英子はあの時、直輝の顔色を上目遣いに眺めながら、さり気なく反応を見守った。そう、あくまでもさりげなさを装って。心に邪(よこしま)で醜い野心と嫉妬を隠していることなど、大好きな彼に気ぶりほども悟られないように。
 直輝は一瞬、整った顔を強ばらせ、信じられないといった表情で言った。
―本当なのか? その話って。
―それは判らないわ、でも、私も有喜菜から直接聞いたんだけど、どうなのかしらね。
 いつも歳の割には大人びて滅多なことで取り乱したことのない直輝が顔色を変えて、立ち上がった。
 彼はもう紗英子のことなど眼中にもない様子で、校庭から教室へと駆け戻っていってしまった。後には桜の樹の下に残された紗英子と、まだ殆ど手つかずの弁当二つ。その日のの朝、五時起きで紗英子が腕によりをかけて直輝のために作った弁当だったのに、彼は見向きもしなかった。
 あの時、紗英子は思ったものだ。有喜菜なんて、大嫌い。直輝が有喜菜を好きなのかどうかまでは判らなかったけれど、何か特別な感情を抱いているのは間違いない。
 さもなければ、有喜菜が他の男の子を好きらしい―と聞いただけで、血相変えて飛んでいくはずはない。
 その後、直輝がどうしたのかまでは知らない。でも、その翌日、焦りと妬心をひた隠し、紗英子は直輝に告白した。
 とはいえ、よもや直輝がそれを承諾するとは自分でも考えていなかった。サッカー部のエースであり、勉強も常にトップクラス、更にルックスも人気モデルに引けを取らない直輝。そんな彼に憧れ想いを寄せる女子生徒は圧倒的に多く、中には三年の美人の先輩が告白したなんていう噂まで立ったほどだ。
 それに引きかえ、紗英子は成績こそ、そこそこ上位にいつも名を連ねているものの、容色も何もかもがすべて平凡中の平凡だった。そんな垢抜けない自分が学校中の女子の憧れである直輝の心を射止めるなんて、できるはずがないと諦めていたのだ。
 しかし、現実には、直輝は紗英子の告白を受け容れた。
 紗英子はその日から、全学年女子の賞賛と羨望を浴びるようになった。今でさえ、紗英子は夫が何故、自分をあのとき選んだのか判らない。
 が、直輝が選んだのは結局、この自分であり、有喜菜ではなかった。彼が有喜菜を選ばなかったことに、紗英子のついたささやかな嘘が関係しているのかどうかまでは知らない。けれど、あれから既に気の遠くなるような年月が流れた今、紗英子がついた嘘など、時の流れという大河の底深く沈んでいった小石のようなものではないか。
 これだけの年月が経った今、二十三年前に、誰が何を考えていたかなんて、どうでも良いことだ。以前、流行った刑事物のドラマで、主人公の名刑事が番組の終わりにはいつも口にする決め科白があった。〝真実はいつか必ず明らかになる。他人を出し抜き、陥れ、罪を犯したからには、一生のうのうと生きられると思うな〟。
 とはいえ、紗英子は別に何の罪を犯したわけではない。ただ、小さな嘘を一つついただけ。
 しかも、もしかしたら有喜菜には本当にその頃、直輝ではなく別に好きな子がいたという可能性だって全くあり得ない話ではないのだから。
 だから、大丈夫。自分は何も悪いことはしていないのだし、怯える必要はない。そう言い聞かせてみても、何故か、後味の悪さは消えない。おかしいと思った。いつもなら忘れているような過去のささやかな嘘が、どうして今日はこんなにも鮮やかに記憶に甦るのか。
 昔のことを考えたから、こんな奇妙でおぞましい夢を見てしまったのだろうか。
 今や、すっかり霧が晴れた向こうで、全裸の直輝と女―どう見ても有喜菜にしか見えない―が抱き合っている。
 むろん、女の方も一糸纏わぬ生まれたままの姿で、下になった直輝に大きく両脚をひらいた格好で跨った女があられもない声を上げ続けている。
―いやっ、あんなもの、見たくない。
 紗英子は思わず両眼を固く閉じ、顔を背けた。
 幾ら眼を閉じても、紗英子には二人のイメージが嫌になるほど鮮明に浮かび上がるのだった。腰を烈しく動かす直輝と、彼の上に乗り、身をくねらせ、のたうち回る女と。
 いかにしても、その残像が瞼から消えない。
―お願いだから、こんな夢を見せないで。
 紗英子が泣きながら叫んだその時、はるか彼方から、周囲の空気を震わせるように電話が鳴っているのが聞こえた。その音は静寂を切り裂くように鋭かったが、今はこの悪夢から自分を連れ出してくれるなら、何でも良かった。

 紗英子はふと眼を開いた。早朝の冷たい空気を震わせ、枕許の携帯が鳴っている。
 まるで辛い責め苦から漸く解放されたような心持ちで、紗英子はゆっくりとベッドの上に身を起こした。ナイトテーブルの置き時計は今、やっと午前4:30を指していた。
 もう秋というよりは晩秋のこの季節、まだ外は一面の闇に閉ざされている。それは先刻、見たばかりの不吉な夢―あの夢に出てきた黒い霧を連想させた。
 紗英子は慌てて禍々しい予感を振り払う。一体、こんな時間に何事だろう。訝しく思いながらも、もしや有喜菜の身に何かあったのではという嫌な想像をしてしまった。
 有喜菜の出産予定日は十一月下旬である。確かに十一月も十日が近いから、もう生まれても良い時期には入っている。
 しかし、三日前に受けたS市のエンジェルクリニックの健診においても、まだまだ生まれる気配はないと告げられ、安心したような反対にもどかしいような想いで帰ってきたばかりなのだ。
 紗英子がなかなか電話に出ないので、傍らのベッドで眠っていた直輝が先に出たようである。
「もしもし」
 まだ眠さの残るけだるげな声で応対していた夫の声が突如として一転した。
「はい、はい。判りました。すぐに行きます」
 直輝は早口で言い終えると、携帯を握りしめている。その横顔には、かつて見たこともないほど切迫したものが漂っている。
「あなた、どうかしたの?」
 恐る恐る訊ねると、夫は低い声で応えた。
「産気づいたそうだ。どうも尋常な様子ではないらしい」
 〝誰が〟と主語は略しているけれど、直輝が〝代理母〟のことを言っているのはすぐ判った。
「そんな。尋常じゃないって、どういうこと?」
 紗英子は夫に噛みつくように迫った。
「三日前にクリニックで健診を受けたときは、何も問題はなかったのよ? 赤ちゃんも有喜菜も元気そのものだって言われたのに。なのに、何で、何で、有喜菜がそんなことになっちゃったの?」
 そこで初めて紗英子は自分が取り返しのつかない失態を犯してしまったことを知った。
 一瞬、後ろめたさに視線が泳いだ。夫の顔がまともに見られない。急いで何か取り繕う言葉を探してみたけれど、こんなときに限って、頭はまるで考えることを停止してしまったかのように働かない。
 怖々と顔を上げると、じいっとこちらを見つめている夫と眼が合った。
 短い、けれど一生分にも思える沈黙が二人の間に流れた。その危うさを孕んだ沈黙を破ったのは、直輝の方であった。
「俺はもう、知っている」
「―え?」
 刹那、紗英子は夫の言葉の意味を理解できず、次の瞬間には、心臓がそのまま凍りついてしまうのではないかと思った。
「知っているって、まさか、あなた―」
 それから先、言葉は続かなかった。動転しきっている紗英子とは裏腹に、直輝は落ち着いた口調で言った。
「とにかくS市のクリニックに急ごう。今は、そちらが先だ」
―俺はもう、すべてを知っている。
 先ほどの直輝の言葉が紗英子の心を射貫くようだった。
 取り急ぎマンションを出てN駅に向かい、電車に乗った。S市まで片道二時間を要する。急行の二人がけの座席に並んだ夫はクリニックからの電話の内容をかいつまんで説明した。
 昨日深夜に、有喜菜がにわかに産気づいたこと。しかし、当人も規則的に襲ってくる激痛が普通ではないと気づいたらしく、携帯で救急車の出動を要請した。
 駆けつけた救急隊員は急を要すると判断、近くの総合病院へ運んだものの、そこで〝常位胎盤早期剥離〟と診断された。 
「常位胎盤早期剥離ですって?」
 紗英子は唇を戦慄かせた。だてに子どもを望んでいたわけではない。出産経験はなくても、その言葉の意味するものがどれほど危険かという知識くらいはあった。
 常位胎盤早期剥離。その名のごとく、胎盤が出産を待たずして先に剥離、つまり、剝がれ落ちてしまうことをいう。この場合、早急に手を打たねば、胎児はもちろん、当の妊婦までもが大量出血をきたし、死亡に陥る。
「どうして、そんなことに―」
 紗英子はやり切れない想いで涙ぐんだ。紗英子の心中など頓着しないかのように、直輝は極めて事務的な口調で続ける。
「通常であれば、大病院だから十分、こっちでも対応できるが、今回は代理出産という特異なケースだ。だから、プライバシーや生まれた子どもの親権問題も絡めて、S市のクリニックの方で出産した方が良いという見方だったらしい。それでも、妊婦本人が望めば、当人や胎児の安全を最優先させて、そのまま出産ということもできた。だが、有喜菜は―代理母はS市のクリニックで出産することを望んだ。自分の生命は二の次で良いから、生まれてくる子どもの生命、更に子どもを待ちわびる実の両親のためにも、最後まで代理出産を依頼した家族のプライバシーは守りたいと」
「あ―」
 紗英子は声をつまらせた。生まれてくる子どもの生命と子どもを待ちわびる家族のプライバシーは守りたい。有喜菜はそう言ったのだ。
 ああ、有喜菜。お願い、死なないで。
 その時、紗英子は初めて有喜菜の無事を願った。生まれてくる子どもと、代理出産を依頼した自分たちを生命賭けで守ろうとしてくれている彼女を思い、涙したのだった。
 夫が何故、有喜菜が代理母であることを知っていたのか? それについての疑問と衝撃は依然としてあったけれど、今はもう、それどころではなかった。
 今はただ、生命を賭けて新しい生命をこの世に送り出そうとしている友の許へ駆けつけたかった。