初めてホテルで結ばれてからというもの、二人は週に一度は身体を重ねた。大抵は嵐のようなひとときを過ごし、有喜菜は彼の腕の中で何度も花びらを散らした。
 妊婦でありながら、男に抱かれて悦がり狂う自分が何故かとても淫らな堕落した女になったように思えた。しかし、好きな男に求められて、嬉しくないはずはない。
 有喜菜のお腹が大きく膨らんでゆくにつれて、ホテルでの行為も自然と穏やかなものになり、直輝は直輝で有喜菜を思いきり抱いて感じさせたいという欲望と懸命に闘っているようにも見えた。
 暑かった長い夏も終わり、秋がめぐってきた。澄んだ大気に色づいた山々がくっきりと立ち上がって見える季節になったのだ。
 暦は十月に入り、有喜菜の子宮で育つ胎児は九ヶ月を迎えた。もうクリニックの担当医もここまで成長すれば、万が一に早産になっても十分に生育するだろうと太鼓判を押している。二週間に一度の妊婦検診でも、胎児には全く異常は見られなかった。
 皮肉なものだと思う。かつて自分は三度も妊娠したけれども、三人の子どもは一人として育たなかった。なのに、四度目の今回の妊娠では何のトラブルもなく、赤ん坊は医師も愕くほど順調に発育し、有喜菜自身も至って模範的な妊娠経過を辿っている。
 やはり、自分の遺伝子を持った子どもだから、いけなかったのだろうか。今、有喜菜の胎内で育っている子どもは、有喜菜の血を一滴たりとも引いてはいない。だからこそ、今回の妊娠は順調に継続しているのだろうか。
 問題は、有喜菜自身にあったのか? 一度だけ、有喜菜は医師に訊ねたことがある。S市のクリニックで行われる健診には、いつも紗英子が我が者顔でついてくるから、訊くことはできない。だから、安定期の五ヶ月に入るまで注射に通っていた近くの小さな個人病院に行って訊ねたのである。
 有喜菜の思いつめたような表情に、初老の医師は細い眼を更に細めて言った。
―それは、あなたの心配のしすぎというものですよ、宮澤さん。あなたの場合はたまたま不幸が重なったというだけの話でしょうな。まあ、以前のご主人とあなたの相性が悪かったという可能性もないわけではないですが、そういう場合は、稀に生まれてくる子どもが順調に育たない場合があるんです。言わば精子と卵子の不適合とでもいうのでしょうか。しかし、もう済んだことですし、今は順調に赤ちゃんも育っているわけですから。
 その応えは有喜菜の不安を幾ばくかは和らげてくれた。確かに、死んだ子どもたちは可哀想だけれど、過去の不幸を今更嘆いても意味はない。
 有喜菜には正直、今、自分の子宮で育ちつつある赤ん坊に対して愛情はなかった。幾ら我が胎内で育っているとはいえ、遺伝子学的に見れば、全くの他人の子なのだ。何で、赤の他人に愛情など抱けるだろう?
 よく代理出産を引き受けた代理母が妊娠中に胎児に愛情を覚え、出産後も生まれた赤ん坊を実の親に返さない―、そういった事件も起こると聞いている。しかし、自分の場合に限っては、全く考えられない話だ。
 ただ、今回の出産はあくまでも〝仕事〟として引き受けているから、仕事を無事に終えなければならないという意識はあったし、とにもかくにも、これから生まれ出ようとしている生命を預かっているという自覚くらいはある。が、それは、単に他所の子を預かって家で面倒を見ているというくらいの感覚にすぎず、その子どもの居場所がただ家ではなく、自分の腹であるというだけの違いだった。
 考えてみれば、赤ん坊も憐れではあった。たとえ母親が狂信的なほどに望んでいるとしても、腹で育てている〝母親〟は少しの愛情も子どもに抱いてはおらず、むしろ早く赤ん坊が体外へ出て身二つになって、さばさばしたいと考えているのだから。
 では、父親である直輝の心情はどうなのかというと、やはり彼も人間―というより、本来、彼は心優しい男なのだ。生まれてこようとしている赤ん坊が可愛くないはずはなかった。
 それは今も、愛おしげにお腹に触れている彼の表情を見れば判ることだ。
 その日、有喜菜と直輝は、かつて有喜菜が注射に通っていたクリニックを訪れた。S市のクリニックには直輝は行けない。紗英子はまだ有喜菜と直輝のことを知らないからだ。
 有喜菜が診察を受ける間中、直輝は始終、緊張した面持ちで付き添っていた。有喜菜の大きなお腹に医師が超音波を当てると、傍らのモニターに胎児の画像が映し出される。
 直輝は神妙な顔でその画像を見守り、医師からの説明を逐一聞いていたが、
―元気なお子さんですよ。ほら、これが両脚。
 そう言って医師が胎児の脚の部分を指し示した途端、胎児が力強くキックして、現実に有喜菜の大きくせり出した腹部が烈しく動いた。
―何とも生まれる前から元気な赤ちゃんですな。もうかなり大きくなってきてますから、お母さんのお腹の中が狭くて苦しいのかもしれませんね。
 医師は有喜菜が代理出産を引き受けた妊婦であることも知っているはずなのに、付き添っている直輝との関係は全く訊ねなかった。
 その真摯な表情から、赤ん坊の父親であることは容易に想像がついたはずだ。代理母と胎児の遺伝子上の父親が本物の両親であるかのように睦まじく寄り添って健診を受けにきた―その異常な事実を訝しくは思っただろうが、態度には出さなかった。
 よほどの事情があることは自ずと伝わったのだろうか。
 医師がにこやかに言った時、有喜菜は直輝の頬が濡れているのに気づいた。彼は、有喜菜の腹部を元気に蹴る赤ん坊を見て、泣いていたのだった。
 その時、有喜菜は思ったものだ。やはり、直輝も人並みに我が子が可愛いのだと。たとえ代理出産という尋常ではない手段で得た子でも、彼にとっては紛れもない我が子なのだ、と。
 そして、有喜菜は更にその先を考えた。直輝が生まれてくる子に父としての愛情を感じているならば、自分たちに未来はない。やがて直輝は紗英子の許に戻るだろう。
 仮に有喜菜が生まれた赤ん坊を我が子だと主張し、手許にとどめておけば、もしかしたら直輝も有喜菜を選ぶかもしれない。しかし、そこまでして直輝を引き止めるつもりはなかった。
 第一、お腹に入れて育てている最中から、ひとかけらの愛情も抱いてはいない女を母と呼ばせるのは、あまりにも赤ん坊が可哀想だ。紗英子の愛情は盲信的な愛かもしれないが、それでも、とにかく子どもを母親として愛していることだけは確かなのだから。やはり、子どもは実の親を親として育つのがいちばんの幸せだろう。
 また、何も罪もない子どもを餌に男を引きつけるような真似は、有喜菜の性に合わない。健診に付き添ったときの彼の涙を目の当たりにして、有喜菜は出産を無事終えたならば、彼を紗英子と赤ん坊に返そうと思い始めていた。 
 だが―。そのときの直輝の涙は、実は全く別の理由から来るものであった。そのことを、有喜菜は直に思い知らされることになった。
 その日は土曜日で、直輝の仕事も休みだ。だから、健診が終わった後も、二人は病院の近くの公園をゆっくりと散策した。
 折しも晩秋の公園は秋の陽射しが穏やかに降り注ぎ、色とりどりの紅葉した樹々が立ち並んでいる。
 小さな公園には遊具らしいものは殆ど見当たらないが、片隅に鉄錆びた小さな滑り台だけがぽつねんと置き忘れられたように放置されていた。
 そういえば、この公園で遊ぶ子どの姿を見かけたことがない。今頃の子ども事情はよく知らないけれど、保険会社の同僚たちには小中学生を持つ人もたくさんいて、今の子どもはやれパソコンだゲームだと言って、外で遊ぼうとはしないという。
 ふと、有喜菜はこの滑り台で遊ぶ元気な子どもの姿を想像してみた。その手は知らぬ中に、膨らんだお腹を撫でていた。
 もし、この子が自分の血を分けた子どもであったら。自分は何としてでも直輝と子どもを紗英子から奪い取ろうとするだろう。
 だが、この子は私の子どもではない。やはり、紗英子にちゃんと返すべきなのだ。
 と、ジャンパースカートの上から、赤ん坊が動いているのがよく判った。近頃ではとみに胎動が烈しくなり、時には痛みを感じるほど腹壁を強く蹴ることもある。
 もしかしたら、胎児は男の子なのかもしれない。
「男かな、女かな」
 ふと傍らを歩く直輝が呟き、紗英子の膨らんだ腹に手を当ててきた。妊娠九ヶ月めに入ったときから、しばらく二人はホテルに行くのを止めようと話し合っていた。出産が終わるまでは、こうして時折逢っても、食事したりショッピングしたりと、ごく普通のデートを愉しもうということになっている。
「性別は訊かないことにしているのよ」
 有喜菜が微笑むのに、直輝は頷いた。
「その方が良いね。生まれるまでの愉しみがあって良い」
「生まれてくる赤ちゃんの名前は何てつけるの?」
 別に深い意図があって問うたわけではなかった。が、直輝はどこか遠い瞳で呟くように言った。
「名前は紗英子に任せるよ。あんなにも欲しがり待ち望んだ子どもだ。彼女が付けるのがいちばん良いだろう」
「そう。そう、よね」
 肩すかしを食らわされたような気分で、有喜菜は足許の小さな石ころを蹴った。心を晩秋の寒い風が吹き抜けてゆくような気がした。
「愉しみよね。来年の今頃は、もしかしたら、生まれた赤ちゃんがこの公園で遊んでいて、それを微笑んで眺めているのは、あなたと紗英かもしれない。ううん、きっとそうよね」
 それが良いのだ。やはり、血の通い合った親子、夫婦が一緒に過ごすのが最も理想的なのだ。
 と、直輝が小首を傾げた。
「それは、どうかな」
 ふいに彼は表情を引き締めた。
「有喜菜に話しておかなければいけないことがある」
「なあに?」
 有喜菜は別に意図したつもりはないが、その表情がどうも直輝には子どもっぽく見えたようである。
 時々、直輝に指摘されるのだが、有喜菜自身には判らない。
―有喜菜って、本当、よく判らないよな。何かこう、ぞくってくるほど色っぽいと思いきや、俺たちが知り合った中学生の頃と変わらないみたいに無邪気な表情するんだもんな。
 そんな時、直輝は決まって、まるで眩しいものでも見るような視線をくれる。
―俺は昔も今でも、そんなお前が眩しくて、見てられないよ。
 と、他人が聞けば一笑に付すだろう科白を大真面目に言っている。
「お前が無事に身二つになったら、俺は紗英子と別れるよ」
「―!」
 有喜菜は息を呑んだ。
「でも、直輝。それは」
 言いかけた有喜菜を、直輝の鋭い声が遮る。
「黙って聞いてくれ。これはもう何度も考えて出した結論なんだ。有喜菜の出産が終わったら、俺は紗英子と離婚する」
「私の―せいなの?」
 声が戦慄いた。家庭を壊すつもりはなかったと今更口にしたところで、それが何の理由になるだろう。結果として、有喜菜のささやかな復讐は一つの家庭を丸ごと壊してしまったのか。
 直輝は、口にしている非情な内容とは裏腹に、穏やかな表情で首を振った。
「もちろん、全くないと言えば、嘘になる。だけど、基本的には有喜菜のせいじゃない。今度のことで、俺は紗英子に対して、もう一緒にやっていく気持ちが持てなくなった。子どものこと、他の諸々のこと。何に対しても、俺とあいつは考え方、受け止め方が違いすぎる」
 直輝の顔が歪んだ。
「俺がもっと早くに気づいていれば、あいつを不幸にすることもなかったし、お前にも辛い想いをさせることもなかった」
「―直輝」
 有喜菜はかける言葉もなく、ただ黙り込んで直輝を見つめた。
「俺はつくづく馬鹿な男だよ。二十四年前に、その事実に気づいていれば、ここまで糸がもつれることはなかったのに。考えてみれば、紗英子も含めて俺たちは出発点を間違えてしまったんだろうな」
「間違った道を歩いて、今、やっとその誤りに気づいたっていうこと?」
「だろうな。随分と長い時間がかかったけど、今からでも、俺たち三人はやり直さなきゃならない。このままの状態を続けても、きっと俺たちだけじゃなく、紗英子ももっと不幸になる」
 有喜菜はハッとした。直輝の口にした〝俺たち〟という言葉の中にはもう、紗英子は含まれていない。今の彼にとって〝俺たち〟というのは、他でもない有喜菜と直輝なのだった。
 ついに直輝を紗英子から奪い返したのだ。そう思っても、有喜菜の心は少しも弾まなかった。
 自分にはこの男しかいない。復讐のために近づき、気づいた真実。その真実はあまりに重すぎて、有喜菜自身ですら、押し潰されそうだ。
「一つだけ訊いても良いかしら」
 控えめに言うのに、直輝は頷いた。
「何でも訊ねてくれ」
「赤ちゃんはどうするの?」
 既に有喜菜には、彼がどう応えるか、あらかた予測はついていた。
 それでも、彼が返答するまでには少しの刻を要した。直輝は唇をかすかに震わせ、それから眼を伏せた。
「もちろん、紗英子に育てさせるつもりだ」
「あなたはそれで良いの?」
「良いも悪いもない。子どもに対して情はあるし、叶うことなら、いつも側にいて成長を見守ってやりたい。でも、有喜菜。俺と別れたら、あいつにはもう何も残らない。生命を賭けても惜しくはないと思うほどに望んだ子どもまでを紗英子から奪い取ることはできないよ」
 そして、結局、紗英子のその狂おしいほどの願いは天に通じ、その代償のように、紗英子は直輝を喪った。紗英子が子どもをあくまでも望み続け代理出産に踏み切ったことが、直輝と紗英子の間に決定的な亀裂をもたらしたのだ。 
 しかし、誰が紗英子を責められるだろう。
 人間として、我が子を持ちたい、母になりたいと願うその心を否定できるなど、実は天の神ですら、許されはしないのだ。
「もし、神さまの思し召しがあるなら、俺たちにもいずれまた自然な形で子どもが授かるだろうから」
 最後に、直輝はポツリと言った。
その時、一陣の秋の風が二人の側を吹き抜けた。ザアーッと音を立てて、頭上の樹々が葉を撒き散らす。風に乗って、赤や黄色の眼にも鮮やかな葉が舞い上がった。
 葉が降る、降る。
 雪のように、すべてのものの上に。
 有喜菜と直輝は一切の言葉を発することもなく、降り続ける色鮮やかな葉を浴びながら立っていた。
 静かな秋の公園を、ゆっくりと季節がうつろってゆく。

 その日の夕刻、一人、マンションに戻った有喜菜宛てに速達が届いていた。
 有喜菜は自室のベッドに座り、その封筒を開けた。いかにも紗英子の好みらしい淡いピンク色の洋封筒を開くと、丁寧に折りたたんだお揃いの便せんと小さなお守りが出てきた。
―有喜菜へ
 大分、お産も近づいてきましたね。
 このお守りは奈良の有名なお寺で特別にご祈祷して頂いたものです。
 本当はあなたと一緒に安産祈願に行けたら良かったのだけれど、もういつ赤ちゃんが生まれるか判らない状態のあなたに遠出はできないと思い、私一人で出かけてきました。
 今度、逢うときに渡しても良いのですが、少しでも早く身につけて貰いたかったので、送ります。 
 寒くなってきたので、風邪など引かないように気をつけてください。
 それでは、また。
              紗英子 

 有喜菜は小さなお守りを眺めた。金地に朱で〝安産〟と刺繍されている。わざわざこのお守りを買うために、紗英子は新幹線に片道数時間乗って奈良まで出かけてきたのだ。
 ひと月前までの有喜菜なら、鼻で嗤って、もしかしたら、そのままゴミ箱に棄てたかもしれない。でも、今はできなかった。
 別に直輝の気持ちをはっきりと知って、紗英子に同情めいた気持ちを抱いたわけではない。それは、紗英子に対して、あまりにも失礼というものだろう。
 ただ、夫の―最も愛していた男の心を失ってまで得ようとしたもの、それが紗英子にとっては我が子であり、赤ん坊であった。その大切な赤ん坊を託されている身であれば、子どもの無事な誕生をひたすら願う母としての紗英子の心を無下にはできないと思ったのである。
 有喜菜はお守りをそっと握りしめてから、ジャンパースカートの肩紐に結びつけた。
「あなたのママからの贈り物よ。だから、最後まで一緒に頑張ろうね」
 有喜菜は本物の子どもが側にいるかのようにお腹を撫でながら、話しかける。すると、すぐに合図に応えるかのように、キックしてくる反応があった。
「ふふ、紗英子は私と違って昔から成績良かったものね。あなたもママに似て、きっとお利口さんなのね」
 有喜菜はお腹を撫でながら、話しかける。
 また数回、胎児が腹壁を蹴ってきた。
 いつしか有喜菜は泣いていた。だが、この涙が何に対する涙かは有喜菜自身にも判らなかった。