「おい、そんなに一気のみして大丈夫なのか?」
 ふふっと、有喜菜はまた無邪気にも見える笑みを浮かべた。
「直輝、私、今、妊娠しているの。だから、あなたの言うとおり、こんなにお酒を飲んじゃ駄目なのよ」
 刹那、直輝は息が止まるかと思った。
「妊娠? 君、再婚―」
「するはずがないでしょ。男も結婚ももう懲り懲り。最初の男は最低だったわ。二度とあんな想いはしたくない」
「じゃあ、何で」
 言いかけ、自分でも良い歳をした男が口にする質問ではないと思った。
 有喜菜も三十六歳の女なのだ。他人には言えない交友関係もあるだろうし、当然、その中には深い仲の男もいるだろう。むしろ、これだけの良い女なのだから、男が放っておくはずがない。
 しかし、何故か直輝は面白くはなかった。有喜菜が顔も見たことのない男に抱かれているシーンを想像しただけで、怒りで眼裏が紅く染まりそうだ。
 が、自分は有喜菜の友達というだけにすぎず、彼女に対してそんなことを考える権利も自由もないはずだ。
 直輝が想いに囚われていると、有喜菜は思いも掛けないことを言った。
「お腹の子どもの父親が誰だか知ったら、あなたも愕くわよ」
「それは、どういう意味なんだ? お腹の子の父親を俺が知っているということか?」
 直輝は勢い込んで言い、途中でハッとして努めて冷静な自分を保とうとした。
「もし、その男が俺の知り合いだというのなら、君さえ良ければ、名前を聞かせてくれないか? 余計なお節介なら良いんだが、仮にそいつがきちんと責任を取らないだなんて言い張っているのなら、俺から話して落とし前はつけさせるから」
 有喜菜はクスリと笑って、直輝を意味ありげに見た、
「この子の父親は、あなたよ」
 その瞬間、直輝はまたしても呼吸が止まった。全く、有喜菜は何度、自分を殺せば気が済むのか?
「おい、冗談は止してくれよ。俺は真面目に話してるんだぞ?」
 冗談ではなかった。幾ら有喜菜が良い女になって現れたとしても、今、見苦しいくらいに彼女に欲望を感じているのだとしても、それはたった今のことじゃないか。
 俺は以前に有喜菜と関係を持ったことなど、ただの一度もない。それだけは断言できる。
 なのに、彼女は腹の子の父親は俺だと言う。そんな馬鹿な話があるか。それとも、有喜菜は頭がイカレちまったのか?
「そうね。信じられないかもしれないけど、私の話は嘘ではないわ。こんなことで、私も嘘を言ったりはしない。でも、私のお腹で今、育っている子どもは他でもない直輝の子なのよ」
 愕くべきことに、有喜菜は泣いていた。
 大粒の涙が堰を切ったように溢れている。
 昔から女の涙には弱い直輝は慌てた。
「何だか君の話は、俺にはさっぱり判らん。よく判るように説明してくれないか」
 優しく宥めるように言えば、有喜菜は涙を零しながら言った。
「奥さんから聞いたでしょ。代理母が妊娠したこと、初めての治療が成功したことは知らないの?」
 直輝は鋭く息を呑んだ。
「まさか。そんな、幾ら何でも君が」
 直輝は小さくかぶりを振り、絶句した。
「幾ら紗英子でも、それはあり得ない」
 有喜菜は泣き笑いの顔で言った。
「冗談でこんなことを言わないわ。紗英子から依頼を受けたのは去年の終わり、クリスマスの日だった。悩んだけれど、引き受けたの。処置を受けたのは三月一日で、妊娠が判ったのが三週間前」
 あれから既に何度か紗英子と共にS市のクリニックに行き、妊娠は確定だと言われている。ひと月経った今では、エコーに胎児の姿も確認され、心臓が動いている様子も見ていた。
 紗英子との間は別段、変わってはいない。今までにない微妙なよそよそしさは否めないが、上辺は穏やかで無難なやりとりが続いている。紗英子も今では有喜菜の私生活についてあれこれ口出しはしない。有喜菜は今でも相変わらずヒールの高いパンプスを履き、ウエストもベルトで締め上げている。
 悪阻も当初予想していたほどではなく、これまでどおり軽かったので、食べたい物を食べたいだけ食べていた。要するに、妊娠したからといって、生活パターンは何も変えていない。
 紗英子の表情から、言いたいことは山ほどあるようだが、少なくとも干渉や批判めいた科白はなかった。
「信じられない」
 直輝は呻き、真実を否定するかのように首を振った。
「何故、紗英子は君にそんなことを?」
 有喜菜は淡く笑んだ。
「それは私にも判らない。気心の知れた女友達に自分の大切な子ども生んで貰いたいと思ったのかもね」
「だからといって―」
 またも直輝は言葉を失う。
 一体、何をどうすれば、そんな愚かなことを考えつくというのだろうか。直輝にとってそうであるように、紗英子にとっても有喜菜は小学生時代以来の大切な親友ではないのか。
 更に、有喜菜は過去に三度も辛い流産・死産を経験しているという。確かに妊娠できる身体なのかもしれないが、そんな哀しい過去を背負った女性に対して、その身体に赤の他人の子を入れて産む代理母出産をせよとは―。
 直輝は最早、有喜菜にかけるべき言葉を持たなかった。直輝にとって、代理母というのは、他人の子どもを生むために腹を貸す道具だとしか思えない。つまり、利用されているだけだとしか。
 もちろん、有喜菜が紗英子に同情や共感を示して、有喜菜自身の意思で協力しようと申し出たのなら、また話は別だ。だが、話の流れからして、どうもそうではないようだし、第一、紗英子の思い込みの激しい性格からすれば、有喜菜に代理出産を頼むのを躊躇いはしないだろう。
 紗英子は、自分がずっと恋人であり妻だと思い続けてきた女は、親友にそこまで非常識なことを頼んだのか。相手の都合や考えをろくに考慮せずに、代理母になれと。紗英子にもし少しでも有喜菜を想う気持ちがあれば、間違っても、そんなことを頼みはしなかったろう。つまるところ、彼の妻は親友である有喜菜を自分の夢を叶えるための道具としか見なさなかったのだ。
「済まない。本当に、何をどう言って謝ったら良いか判らないよ」
 結局、紗英子は有喜菜の身体を利用したにすぎない。医療が発達した現代でも、年に数人はお産で生命を落とす不運な人もいるのだ。その生命賭けともいえる出産を自分の身勝手で大切な存在であるはずの親友に頼むなんて、直輝には信じられないことだ。
 紗英子には良心や優しさといったものはないのだろうか。有喜菜の手前、夫である直輝はただ恥じ入るしかない。
「それは良いの。別に紗英は私に強制したわけでもないし、それなりの報酬を提示して、頭を下げて頼んできたんだし。それを引き受けたのは私よ。だから、別にあなたや紗英をどうこう言うつもりはないの」
「報酬―」
 直輝は情けなさと怒りで泣きたい気分だった。
 俺の、俺が信じていた妻であったはずの女は、長年の親友に札束を積み上げて代理母になれと要求したのか。
 もう、おしまいだと思った。妻との間が既に修復不可能だとの自覚は薄々あったものの、ここまで心が冷えるとは思わなかった。
 今夜、これからマンションに帰って、自分は一体、どんな顔で妻を見れば良い? 何もなかったような顔で紗英子と話ができるだろうか。
「だから、あなたも紗英をこのことで責めたりしないで。紗英は、直輝に代理母については一切話してないはずよ。だったら、最後まで知らないふりを通してね」
 有喜菜の静かな声にいざなわれるように、直輝は顔を上げた。
「君はそれで良いのか?」
「構わないわ」
 有喜菜の微笑はやわらかでいながら、どこか果てのない哀しみを湛えているようにも見えた。それは昔、直輝が見た美術の教科書に載っていたモナリザを彷彿とさせる。
 直輝は元々、真っすぐな気性だ。彼は義憤に駆られながら言った。
「君にはできるだけのことをさせて貰うよ。約束どおり、紗英子には今日の話は一切しないが、出産までもその後も、必要な援助はするから、遠慮なく俺を頼ってくれ」
 これまで直輝は、代理母のことなんて考えたこともなかった。これは紗英子が勝手にすることで、自分にはあくまでも関係のないことだと思っていた。
 むろん、万が一にも治療が成功して赤ん坊が生まれたときには、血縁上の父親として果たす義務は最低限は果たそうという気持ちはあった。
 が、高度すぎる治療だし、所詮はただの一度きりで子どもができるとは正直考えていなかったというところだった。生まれてきた子どもの養育費くらいは出すが、代理出産に拘わった見も知らぬ女のことまでは考える必要もない―というよりは、考えたこともなかった。
 しかし、代理母が親友の有喜菜だというのなら、話は別である。有喜菜は直輝にとって、大切な子どもの頃からの友人であった。その友人に自分の妻が非常識な代理出産を持ちかけ、結果として有喜菜は妊娠した。しかも、その子どもは他ならぬ直輝自身の子なのだ。
 直輝は初めて感慨に囚われて、有喜菜のまだ全く膨らんでいない腹部を見た。本当に話が嘘ではないかと思いたくなるほど、有喜菜の腹は平坦に見える。
「本当に妊娠してるのか? まだ、全然大きくないぞ?」
 有喜菜が笑った。
「まだ三ヶ月なのよ、そんなに大きくなるはずがないでしょう。でも、最近、ちょっとだけお腹が出てきたかなっていう自覚はあるのよ」
「ほ、本当か?」
 思わず手が伸び、有喜菜のドレス越しに触れていた。
「あ、ごめん」
 直輝は紅くなって、まるで火傷したかのように手を引っこめる。有喜菜が笑いながら言った。
「良いのよ。良かったら、触ってみて」
 有喜菜当人の許可を得て、直輝はそろそろと再び手を伸ばした。今度はゆっくりとドレス越しの腹を撫でてみる。確かに、よくよく気をつけなければ判らないほどであるが、ふっくらと盛り上がりかけている。
「あ―」
 直輝は声を上げ、言葉を失った。
 ここに、このほんの少し膨らみかけた有喜菜の腹の中に、俺の子がいる。俺の、俺の血を分けた我が子が育っている。
 直輝の胸に熱いものが込み上げた、不覚にも涙が出そうになり、彼は慌てて横を向いた。
 そのときだけ、彼は紗英子が何故、あそこまで我が子を得ることに狂騒しているのか少しだけその心が理解できたような気もした。
 しかし、それで、大切な有喜菜を非情にも利用したことを許せるかといえば、また別の話である。
「有喜菜、ありがとう」
 知らず、そんなことを口走っていた。
「身体を大切にして、無事に身二つになってくれ」
 照れくさかったので、早口で告げた。
 そんな直輝を、有喜菜は謎めいた微笑を湛えて見つめている。
 マスターの姿は、いつしか消えていた。控え室のようものがあるから、気を利かして、そこに籠もったのだろう。
 普段から、客の身の上相談には快く応じるが、けしてマスターの方から踏み込んでくることはない。それがこの店の人気の秘訣なのだ。
 その後、二人は一時間ほど他愛ない話をしてから、店を出た。直輝はタクシーで有喜菜をマンションの前まで送り届けた。
「少し寄っていく? コーヒーでも淹れるけど」
 その魅惑的な誘いに思わず頷いてしまいそうになりながら、直輝は意思の力を総動員して断った。
「いや、良いよ。今夜はもう遅いから。君も疲れたろうから、ゆっくり寝んでくれ」
「そう? 判った、じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 直輝は後ろ髪を引かれる想いで、有喜菜に背を向ける。
 タクシーに再び乗り込むと、初老の運転手は無言で発車させる。この歳まで、一体いかほどの客を乗せて走ったのだろう。
 見知らぬ他人の長い果てのない人生をほんの一瞬だけ、共有するタクシー運転手と乗客。しかし、運転手は何があっても客の人生に立ち入ることはないし、見て見ないふりをする。
 直輝はいつしか運転手から意識を逸らし、車窓を流れては消える夜の町を無表情に眺めた。
 舗道沿いに植わった桜並木が今、盛りを迎えようとしている。いつしか鈍色の空からは滴が落ち始めていた。
 この雨で桜もかなり散るだろう。
 雨に濡れ、しっとりと雨露を帯びた薄紅色の花びらは、何故か有喜菜の見たこともない裸身を想像させる。
 一糸纏わぬ姿で真っ白なシーツに横たわった有喜菜は、さぞかし美しく、この上なく淫靡に違いない。その白い素肌の上に露を落とすように、熱い口づけを落とせば、白い透き通った肌はほのかな桜色に染まるのだろうか。
 その様を、この眼で見てみたい。いや、見るだけでは足りない。唇で指先で存分に味わってみたい。
 しっかりしろ、俺。
 彼は自分を叱咤した。たまたま有喜菜が代理母になって俺の子を妊娠しただけの話じゃないか。
 何もだからといって、俺と有喜菜が関係したわけでもないし、俺たちの関係が何か特別なものに変化したわけでもない。
 その辺りをしっかりと認識しておかなければ、後々、取り返しのつかないことになる。
 直輝は自分を必死で自制していたが、既にそのようなことを自分に言い聞かせること自体、自分が普通の精神状態ではないと気づくべきだった。
 何も紗英子だけが無邪気な仮面を被っているわけではないのだと知った方が良かったかもしれない。女はいつの時代でも、どんな女でも魔性をその奥底に秘めている。
 そして、愚かな男はそんな女に騙される。
 いや、騙すというよりも、本当に欲しいものを得ようとする時、女は男よりもはるかに利口にしたたかになるのだと、自分の置かれた境遇をも最大限に活用するのだと。

 その夜、直輝は玄関まで迎えに出た紗英子の顔をまともに見る気もしなかった。
 俺をまんまと騙していると思っているんだな、この女は。
 今、この瞬間も、紗英子は代理母が有喜菜であることを俺が知らないと信じ込んでいる。今、ここで洗いざらいをぶちまけ、この女を罵ってやりたいが、有喜菜との約束がある。
―最後まで知らないふりを通してね。
 有喜菜の懸命に訴える様子はいじらしかった。あんなに必死な様を見せられては、到底、約束を破れるものではない。
「お夕飯は? 良かったら、すぐに温め直しましょうか?」
 窺うように問われ、思わず怒鳴ってしまった。
「要らないと言ってるだろう!」
 あまりの剣幕に、紗英子が震え上がるのが判った。一瞬、後悔したものの、この女が有喜菜に対してした仕打ちを思えば、たいしたことではないと思い直す。
 最近、紗英子はいつも直輝の顔色を見てばかりいる。おどおどとして、それが余計に直輝の癇に障り腹立たしく思えるのだった。
 一度、噛み合わなくなった歯車は努力して直そうとしても、余計に噛み合わなくなるばかりだ。少なくとも、紗英子の方は、直輝とうまくやろうと努力していることは直輝にも判る。
 しかし、今更、それが何だというんだ。
 俺はすべてを知ってしまった。
 この女の醜い本性も、思慮に欠ける浅はかさも。
 今日という日は、あまりにも色々とありすぎた。
 蒼褪め震えている妻を後に残し、直輝は疲れた身体と心を抱えて一人で寝室に向かった。