それを聞いたときは、馬鹿らしいと思った。学生ではあるまいし、何を呑気なことを考えているのかと一笑に付したものだったが、時折、独身の女子社員から手紙やプレゼントが届いたり、時には呼び出されて告白されたりするのは迷惑も良いところだ。
 小泉満奈美はその中でも特にしつこい女で、直輝が何度断っても、懲りずに秋波を送ってくる。一度は
―元彼にしつこくストーカーされてて、困ってるんです。
 などと言い、相談に乗って欲しいと会社近くの居酒屋に呼び出された。が、実際に行ってみれば何のことはない、そんな話は根も葉もない真っ赤な嘘で、真実は満奈美が直輝の気を惹いて二人きりで逢うための口実にすぎなかった。
 そのときはまさか顔を見るなり帰るわけにもいかず、二時間くらいは渋々付き合ってやった。それに味をしめたのか、満奈美は断れども断れども大胆なアプローチをかけてくる。
 すっかり辟易している直輝に同期の同僚などは
―何だ何だ、据え膳食わぬは男の恥だぞ? あの小西って子、名前だけでなく本当に女優の小西真奈美に似てるだろ。顔も身体も良さそうだし、この際、お前も少しは愉しんだらどうだ? 全っく、お前が羨ましいよ。同じ歳の男なのに、どうして俺は全然女が寄ってこなくて、お前には群がるんだ?
 などとかえって羨ましがられ、けしかけられる始末だった。
「ねえ、課長、また今度、一緒に飲みましょうよ」
 しなだれかかるような声音に総毛立ち、直輝はピシャリと内線を外線に切り替えた。
「もしもし、営業課の矢代ですが」
―お忙しいところ、申し訳ありません。
 きびきびとした話し方には嫌みがなく好感が持てる。小泉満奈美と話した後なので、余計にそう思える。女特有の性(さが)をこれでもかと言わんばかりに全面に押し出した態度は、嫌みでしかない。
―私のことを憶えていらっしゃるでしょうか。N中で一緒だった宮澤と申します。
 宮澤―。直輝は一瞬、ポカンとし、破顔した。
「有喜菜?」
―そう、私、宮澤有喜菜。憶えてます?
「憶えてるも何も、忘れるわけないだろ。懐かしいな。確か、いちばん最後に逢ったのは」
 直輝が記憶の糸を手繰り寄せようとしている中に、有喜菜がさらりと言った。
―六年前のN中の同窓会のときよ。
「おう、そうだ、そうだった」
 直輝は幾度も頷いた。
「どうした? 急に」
―ちょっとね。昨夜、久しぶりに中学のときの卒業アルバムを見てたら、直輝のことを思い出しちゃって。あ、今はもう流石に呼び捨てはまずいかしら。
「なに水臭いことを言ってるんだ。君に〝直輝さん〟なんて呼ばれた日には、それこそ鳥肌が立つよ」
―ふふっ、相変わらず酷い物言いね。
 有喜菜は華やかな笑い声を立てる。先刻までの昔通りの爽やかでボーイッシュだった有喜菜をイメージさせる声とは違い、どこか艶のある色っぽい声に思わずドキリとした。
「そういえば、紗英子と時々逢ってるんだって」
 妻の名前を出すことによって、直輝は不自然に高鳴る自分の鼓動を止めようと試みた。
 受話器越しに、少しの沈黙があった。
 やはり、久しぶりに電話を掛けてきた女友達に対して妻を持ち出すべきではなかったか? 直輝が柄にもなく狼狽えていると、有喜菜はまた涼やかな声で笑った。
―ええ、奥さまとは今も懇意にさせて頂いてるわよ。
 どこか皮肉っぽくも聞こえる口調に、直輝は更に慌てた。
「あ、どうだ、久しぶりだし、今度、一緒に飯でも食わないか?」
 これでは中一の頃の自分と全く変わっていない。直輝は自分でも苦笑した。
 しかし、昔は有喜菜の前でいい格好しようなんて考えたことは一度もなかったのに、おかしなものだ。
 有喜菜にもその気持ちは伝わったらしい。クスクスとこれは昔どおりの有喜菜の笑い声が聞こえ、
―良いわ、いつにする?
 と十三歳の有喜菜を彷彿とさせる物言いで返事が返ってくる。
「今夜にでも、どう?」
 返事がないので、心配になった。
「急すぎるかな?」
―良いわよ。場所はどこにする?
 今度はすぐに応えがあって、直輝は心から安堵した。
 それから場所を決めて、電話はものの十分とかからずに終わった。
 受話器を元通りにした後、何気なく顔を上げると、通路を隔てた同僚のデスクの側に小泉満奈美が立っていた。何か所用があって来たらしい。
 刹那、満奈美がかすかに片目を瞑って見せた。直輝はまるでおぞましいものでも見たような気持ちで、慌てて視線を逸らす。
 全っく、何なんだ、あの女。
 腹立たしい気持ちになり、直輝はそのまま最上階の社員食堂にランチを取るために行った。むろん、満奈美のことなど、もう頭にはない。考えているのは、今夜、六年ぶりに再会する有喜菜のことだけだ。
 だから、満奈美が去っていく自分の方を燃えるような憎悪を宿した眼で見つめていることにも気づくはずもなかった。

 その夜になった。午後七時、直輝は会社近くのピアノ・バー〝Cat,s Eye〟の扉を押した。
 この店はマスターが殆ど趣味でやっているようなものである。脱サラした五十代後半のマスターは銀髪の知的な雰囲気だ。直輝は会社帰りにしばしば立ち寄り、仕事の悩みなどをよく打ち明けている。父親に対するのに近い心情を抱いていた。
 直輝の父は十年前に他界している。もし父親が生きていれば、こんな話もしただろうにと思う気持ちがマスターに向いているのかもしれなかった。
 雑居ビルの三階にある店は手狭ではあるが、ワインカラーの落ち着いた内装で統一されており、ほの暗い照明がまるで深海の底にいるような錯覚をさせる。
 カウンター席が幾つかと、他には壁沿いにテーブル席が三つ。片隅にこの店の呼び物であるグランドピアノが存在感を主張している。
 直輝は入るなり、店内をざっと見回した。カウンターのスツールに女が一人座っている。昔、〝黒いドレスの女〟という映画を見た記憶があるが、まさにそのイメージどおりの女であった。
 丈の長いロングドレスに身を包み、長い両脚を交差させている。ドレスは飾り気のないごくシンプルなデザインで、胸許は適度に空いてはいるが、けして胸が露わに見えるというほどではない。
 全体的に見ればおとなしめのデザインのはずなのに、ハッとしてしまったのは、裾に大きなスリットが入り、隙間からほの暗い室内でも眩しいほど白い、すんなりとした美脚が覗いていたからだ。
 後ろ姿しか見えないが、髪は艶やかに背中まで流れている。まるで今日の空を覆っているような見事な漆黒だ。
 あんな良い女が、こんな店にいるなんて、こいつは滅多にお目にかかれないな。
 と、マスターが聞けば気を悪くするに違いない科白を心で囁き、カウンターに近づいた。
「よう、来たな」
 先にめざとく気づいたマスターが笑顔で手を振る。いつもながら、糊のきいた白いシャツに黒と赤のギンガムチェックのベストと赤の蝶ネクタイ。伊達男(ダンディー)という言葉は、このマスターのためにあるのではないかと思うほど似合っている。
 今は若い連中は男も女もそれなりに装うことを知っているから、皆、町を歩く若者は見劣りはしない。タレントやモデルではなくても、それなりに綺麗な若者はたくさんいる。
 でも、幾らオシャレをして上辺だけを取り繕ってみても、こういう燻し銀のような魅力や輝きは、若者にはけして出せない味だ。マスターの端正な面には若い頃はさぞかし男前だっただろうと思わせる名残は十分に残っている。
 上辺だけでなく、長年の人生で重ねてきたものが内側から滲み出ていて、彼の豊かな年輪を感じさせる雰囲気がまたマスターをより魅力的に見せているのだった。
「こんばんは」
 会社では既に営業課長の肩書きを与えられ、若い部下からは一目置かれている。が、この店に来ると、父親ほど歳の違うマスターには礼を尽くすのはいつものことだ。
「ところで、良い女ですね」
 流石に聞こえては罰が悪いので、小声で囁くと、マスターは小さく肩を竦めた。
「よく言うよ。矢代君の待ち人だろう」
 え、と、直輝は愕いて振り返った。
 と、丁度、黒いドレスの女が顔を上げたところだった。視線と視線が宙で絡み合う。
「久しぶり」
 女の美しい面に、艶やかな微笑が浮かんでいる。すっかり臈長けて見違えるように綺麗になってしまった美貌の中、かすかに少女時代の有喜菜の面影が垣間見えた。
「有喜菜!?」
 失礼かと思ったが、あまりの愕きに声が裏返った。六年前の同窓会で彼女を見かけたのは、ほんの一瞬だったし、直輝は仕事の都合で一時間程度しかいられなかった。
 実は、間近で有喜菜を見るのは、もう六年どころではなく久しぶりなのだ。
「おい、見間違えたよ。一体、どこの良い女なんだって、マスターに訊ねちゃったよ」
 これは全くの本音であったが、有喜菜は笑って、いなした。
「流石に、長いこと営業マンをやってたら、直輝もお世辞を言うことを憶えたのねぇ」
「君は相変わらずだな。言いたいことをずばすば言うところは少しも変わってない」
「―でしょ」
 どうやら有喜菜の変わったのは外見だけで、中身は全く中学時代と同じらしい。
 有喜菜の隣に座り、直輝は改めてしみじみと彼女を見つめた。
「綺麗になったね」
 感に堪えたように言うと、有喜菜が昔のようにアーモンド型の瞳をくるっと動かして言う。
「また、お世辞?」
「まさか、俺が有喜菜にお世辞なんか言うわけないだろうが」
「それもそうね」
 有喜菜と直輝は顔を見合わせて笑った。
 こうして顔を突き合わせて話をしていると、時が戻ってあの時代に戻ったかのようだ。
「本当に懐かしいな」
 有喜菜と過ごす時間は、直輝をあらゆるものから解き放ってくれる。それはあの頃と少しも変わらない。有喜菜はいつも余計なことは喋らず、ただ直輝の想いを、存在をゆったりと受け止めてくれた。
 もしかしたら、自分が心から求めていたのは、有喜菜のような存在、自分のすべてを認め受け容れてくれる女だったのかもしれない。この時、直輝は生涯で初めて、紗英子との結婚に懐疑的な想いを抱いた。
 話は弾み、あらゆる方面に及んだ。互いの近況から、かつて机を並べていた中学時代の話までと尽きなかった。ただ結婚していた頃の話になると、有喜菜は美しい顔を翳らせ、口をつぐむ。
 あの太陽のように明るかった有喜菜をここまで哀しませたのは、どんな男だったのか。紗英子から有喜菜の悲惨な結婚生活はあらかた聞かされていたものの、今、彼女のしおれた花のような様を見ていると、逢わなかったこの二十年余りの間、有喜菜が過ごしてきた日々の大変さが改めて感じられた。
「子どもは? 確か、大分前に紗英子から君が妊娠したことを聞いたような気もするけど」
 水を向けてみると、有喜菜は曖昧な笑みを浮かべた。
「いないわ。三回妊娠したけど、どの子も育たなかったの。一度目は八週で流産、二人目は六ヶ月まで育ったのに死産になってね。三度目は四ヶ月でまた駄目になっちゃった」
 語尾がかすかに震え、直輝はハッとした。
 有喜菜の翳を落とす長い睫がかすかに震え、露の滴が宿っていた。
「ごめん、心ないことを訊ねてしまった」
 直輝は狼狽え、マスターに作って貰った水割りをひと息に煽った。有喜菜のドレスに包まれた肢体はほっそりとしていながら、肉感的だ。つんと上を向いた乳房は形も良いし、ウエストは細く、女性的なふくらみを保ちつつ、余計な肉は一切ついていない。
 三十六歳でしかも三度も妊娠していながら、この体型を維持できているのは奇蹟だとしか言いようがない。―と、即座に見ないふりをして有喜菜の身体を見てしまうのは、やはり助平なエロ親父と呼ばれる年代になってしまったからだろうか。
 どうも意識すればするほど、豊かな胸のふくらみや、スカートのスリットから覗く魅惑的な長い足に意識が向いてしまうようだ、その注意を逸らそうと酒を飲んでみるが、むしいろ逆効果で、飲めば飲むほど、視線は有喜菜の乳房にいってしまう。
 一方の有喜菜はアルコール類ではなく、ウーロン茶だけを飲み続けている。
「私、あなたのことが好きだったのよ。でも、あなたは紗英子のことしか見ていなくて、私なんか眼中になかった」
 だから、突然、有喜菜が発した言葉は最初、直輝には全く意味をなさずに飛び込んできた。
「え?」
 自分でもみっともないと思うほど素っ頓狂な声が上がった。
 しかし、物問いたげな直輝を無視して、有喜菜はつと立ち上がった。
 片隅のグランドピアノまで行くと、マスタ―に了解を得てから、ピアノの前に座る。ほどなく、〝Candle Light〟の旋律が緩やかに流れてきた。
 誰の曲か忘れたが、有名な作曲家が作ったインストゥメンタルの曲である。ライトが照らす蒼白いカクテルバーで向かい合う男女二人、その二人の顔を照らすテーブルのキャンドル・ライト。ごく自然にそんな情景が浮かび上がってくるようなムードのある、それでいて、どこか哀切な響きの籠もった曲調だ。
 それにしても、今夜は愕きの連続だ。有喜菜は中学時代、テニス部に所属しており、エースとしてならしていた。県大会で準優勝の実績もあり、スポーツ万能というイメージが大きかったのだけれど、まさかピアノもプロ顔負けの演奏をするとは知らなかった。
 考えてみれば、自分は有喜菜について果たして、どれだけのことを知っていたのだろう。
 すぐ近くにいながら、紗英子と付き合いだしてからは有喜菜は遠い存在になった。お互いに何でも知り合っていると思い込んでいたけれど、その実、直輝は有喜菜について何も知らない。
 ふいに曲が途切れた。そこで彼は初めて、演奏が終わったのだと知った。水を打った静寂の中、マスターの拍手が直輝の半ば麻痺したような意識を破った。
 直輝は唇を噛みしめ、ピアノからまた自分の方へと近づいてくる有喜菜を凝視した。
 自分は何かとんでもない愚かな間違いを犯してしまったのではないだろうか。それが何かとまでは、はきとは判らなくても、永遠に取り返しのつかない失敗をしたのではないかという焦りと後悔の入り乱れた気持ちが直輝を苛立たせた。
「今し方の話だけど」
 直輝が切り込むのに、有喜菜は真顔で首を振った。
「あれはもう良いの。ごめんね。私も久しぶりに直輝に逢って、言わなくても良いことを口にしてしまったみたい」
 有喜菜は改めてマスターにカンパリソーダを頼んでいる。
「演奏したから、汗もかいたし、喉も渇いちゃった」
 舌をちろりと覗かせ、肩を竦めて見せる。
 妖艶な外見には似合わないその邪気のない仕種は、まさに十三歳の有喜菜そのものであった。ぐっと烈しい感情が突き上げてきて、直輝は言った。
「有喜菜、俺はあの頃、君を」
「その話はもう止めて。今更、過ぎたことよ」
 マスターが氷をグラスに入れる音だけが静けさの中に鋭く響き渡った。渡されたグラスごと、有喜菜は見事な飲みっぷりでカンパリソーダをひと息に煽った。
 白い喉を仰け反らせるその姿に、直輝は身体の芯が熱くなる。有喜菜の豊満な肢体をベッドに組み敷けば、こんな風に白い喉をのけぞらせるのだろうか。その時、彼女はどんな声で啼くのだろうか。
 直輝はハッと我に返った。
 馬鹿な、有喜菜はガキの頃からの友達だぞ? その友達に対して、俺は何を考えてるんだ?
 紗英子と結婚するまでは、他の女との拘わりが一切ないとは言えないが、結婚後は浮気は一度もしていない。ゆえに、直輝は自分がそれほど堪え性のない色情狂ではないと思っていたが、今夜、これほどまでに有喜菜に欲情してしまうのは、どうしたことなのだろう。