しばらく後、医師が手のひらにおさまるほどの大きさのエコー写真を持って戻ってきた。
「まだ早い時期ですから、赤ちゃんの姿は見えません。これはごく普通のことだから、心配はないんですよ」
 エコー写真は紗英子も撮ったことがあるので馴染みはある。モノクロで子宮の内部が映っているのだ。医師は写真を指し示しながら説明してくれた。
「白っぽく映っているのは、子宮内膜が厚くなっていることを示します。どういうことかというと、妊娠が続いている可能性が高いといえます。恐らく、その辺りに受精卵が着床したのでしょう。順調な経過を辿れば、ここにもうじき、赤ちゃんの姿が見えてくるはずです」
 普通、このエコー写真は妊婦本人が貰うのだけれど、この場合、妊娠したのは有喜菜でも、写真は〝母〟である紗英子に渡される。が、有喜菜本人が希望すれば、彼女の方にも渡して貰えるということだった。
 それについて訊ねられた時、有喜菜は即答した。
「私は特に希望しません」
 あまりにも素っ気ない返答に、温厚な医師も気圧されたように押し黙り、診察室には微妙な静けさが満ちた。
 恐らく医師もその場に居合わせた看護士も、有喜菜がこの妊娠を心から歓んでいるわけではないと察していたはずだ。が、一度目の試みでの成功という幸運に酔いしれている紗英子には、有喜菜の固い表情に気づくゆとりはなかった。
 診察室を出た後も、紗英子はまだ夢の中をふわふわと漂っているような気分だった。会計を済ませ、有喜菜とクリニックの玄関を出ると、二人は何となくぶらぶらと歩いた。建物を取り囲む庭園を抜けると、ほどなく湖に行き当たる。
 国内でも十位以内に入るという大きさの湖は今日もよく澄んでいた。ちょっと見には滋賀県の琵琶湖を連想させるようだ。蒼く澄み渡った空と水平線が混ざり合い、どこからが湖なのか判別がつかない。
 カモメが白い翼をひろげて蒼い空を旋回している。真っ白なカモメまでもが空の色に染まりそうなほど鮮やかなブルーだ。
 果てのない空を仰ぎながら、自分は多分、この日に見た空を忘れはしないだろうと紗英子は思った。先刻見たばかりのクリニックの庭園には、寒桜が早くも満開になっていた。桃色の愛らしい花をを眺めて通り過ぎ、考えてみれば、今朝、クリニックを訪れたときの自分は寒桜も何もけして眼に入ってはいなかったのだと改めて気づいた。
 それほどに今日の診断結果は紗英子の頭を占めていたのだ。当然といえば当然かもしれないけれど、今日まで自分がいかに治療のことしか考えていなかったのかと思い知らされた気分だった。
 むろん、医師の言うように、まだまだ油断するべきときではなく、もしかしたらこの歓びがぬか喜びに終わってしまう可能性だってあることも理解はしているつもりだ。
 しかしながら、体外受精の中でも更に高度な顕微授精、しかも代理母の子宮に受精卵を戻すという大変難易度の高い治療が初回で成功する―それがどれほど稀有で幸運なことかも判っていた。
 かつて紗英子自身が受けた三度の体外受精でも経験済みなように、体外受精とうのはむしろ成功する確率の方が極めて低いのである。上手く行くカップルは大抵、一度目でなくても二度め、三度目くらいで成功するし、それで成功しなければ何度高額な治療費をかけて試みても成功はしないといった無情な側面がある。
 大概の夫婦は数度試した段階で、治療を断念する。というより、せざるを得ないのだ。不妊の原因が例えば病的なものである場合の治療そのものに保険は効くけれども、体外受精にはきかず、すべて自費で支払わなければならない。一度が五十万単位の高額医療をそう何度も試せるはずがない。
 もしかしたら何度でも挑戦し続けたら、その中には成功するかもしれなくても、よほどのセレブでもない限りは経済的に続けるのは困難なため、諦めるしかないのだ。それが現在の不妊治療の限界でもあった。
 紗英子は今、幸福の絶頂にいた。不思議で堪らない。これまでは―特に子宮を摘出してしまって以降、自分は無色の世界に生きていたようなものだった。花の色も鳥の姿も、自分には何の色も持たず、ただモノクロの世界で機械的に呼吸し、何の意味もなく動いて無為に日々を過ごしているだけだった。
 それが、今はどうだろう! 寒桜は濃紺のピンクに染まり、湖は早春を感じさせる穏やかな陽光に煌めいている。蒼穹を舞う白い鳥たちは祝福の歌を奏でるかのように優雅に翼をひろげていた。
 昨日まで、いや、つい今し方まで灰色に染まっていたはずの周囲が一瞬にして薔薇色に変化したような感覚である。世界中が自分のために祝福してくれているようでもある。自分はこんなにも子どもを渇望していたのかと今更ながらに思い知らされた。
「ありがとう、有喜菜」
 ダイヤモンドのように輝く湖面を見ている中に、紗英子はまたしても涙が込み上げてきた。何と言っても、いちばんの功労者は有喜菜なのだ。まずはお礼を言わなくてはと思い、口にした。
「あなたのお陰よ。これで私と直輝さんも漸く自分の子どもが持てるわ」
 紗英子は傍らにひっそりと立つ有喜菜を見た。相変わらずのスレンダーで、当然ながら、まだお腹は少しも膨らんではいない。だが、彼女の胎内には既にひそやかに新しい生命が芽生え、育ちつつあるのだ。そして、それは有喜菜の子どもではなく、他ならぬ紗英子の、紗英子が心から愛する男、直輝の子であった。
「先生はまだ何も言わなかったけど、予定日は今年ぎりぎりくらいかしら。来年ってことはないでしょうね」 
 早くも赤ん坊が生まれる日にまで想いを馳せ、浮き浮きとした調子で言う。有喜菜は相槌を打つでもなく、何の感情も感じさせない瞳を湖面に向けていた。
「有喜菜?」
 紗英子は不安げに有喜菜を見た。どうしたのだろうか、気分でも悪いのだろうか。
 これからは有喜菜には今まで以上に身体に気をつけて貰わなければならない。無事にお腹の赤ん坊が出てくるまでは、何があっても彼女には無事でいて貰う必要があった。
 言ってみれば、出産さえ終われば、別にどうでも良いのだ。有喜菜が大切な我が子をその胎内で育てている間は、万が一のことがあっては困るのである。
 有喜菜はわずかに眼をまたたかせ、紗英子を見た。
「別に礼なんて言う必要はないわ」
「そう? でも、今回のことは何と言っても、あなたに頑張って貰わなければならないのだし」
 あまりにも冷ややかな反応に、紗英子は怯んだ。
「頑張るも何も、出産は自然のものでしょう。運が良ければ流れずに生まれてくるだろうし、そうでなければ―」
「止めて!」
 紗英子は思わず悲鳴のような声を上げていた。
「やっとやっと恵まれた赤ちゃんなのよ。お願いだから、そんな不吉なことを言わないで。しかも、この子はあなた自身の子どもではないけれど、あなたの中で育って生まれてくるのに」
 はっきりと言葉に出して言わなかったが、血は引かずとも自分の子宮で育てる赤ん坊に対して、どうしてそこまで無情な物言いができるのか? 言外にそんな想いを込めたつもりだった。
 有喜菜は相も変わらず静かすぎる瞳で紗英子を見つめた。
「別に悪気があって言っているわけじゃないのよ。紗英、最初にも言ったはずでしょう。私は妊娠できる身体ではあるけれど、これまで一度も元気な子どもを出産した経験はないの。だから、幾ら妊娠が判ったからといって、そんな風に手放しで歓ぶのはどうかと思う。歓びが大きければ、その分、落胆や哀しみも大きいわ。私はそのことを言っているだけ」
「でも、それはクリニックの先生も大丈夫だろうって」
「そうね。確かに院長も担当医も、習慣性流産とはいえないとは言った。でも、三度あったことが四度目もないとは言えないでしょ」
「もう、止めて。そんな不吉なことばかり考えていては、お腹の赤ちゃんにも影響してしまうわ」
 折角、この世に生まれ出ようとして今、この瞬間にも目覚ましい勢いで成長している小さな生命。その生命を宿しながら、平然と口にする有喜菜の心情が理解できない。
「とにかく、これから出産まで身体には気をつけてね。あなたに何かあったらと思うと、私、どうしたら良いか判らない」
 また涙が零れそうになって言うと、有喜菜は薄く微笑した。
「そうね、せいぜい、あなたの赤ちゃんのために気をつけるとするわ」
 そのどこか投げやりにも聞こえる言葉には気づかず、紗英子は有喜菜を抱きしめた。
「本当にありがとね。有喜菜のお陰で、私、漸く長年の夢が叶いそうよ。ママになれるのね」
「まあ、お母さんになるっていう人が甘えん坊の子どもみたいになっちゃって、どうするの? 今日の紗英は変ね。泣いたり笑ったり、怒ったり、色々と忙しいのね」
「だって、やっと赤ちゃんが、私たちの赤ちゃんが生まれるんだもの。もう嬉しくて嬉しくて頭がどうにかなりそう。きっと直輝さんも歓ぶわね」
「さあ、それはどうかしら」
 ややあって、有喜菜が呟いた言葉は、ついいに紗英子に届くことはなかった。有喜菜は泣きじゃくる紗英子を抱きしめ、それこそ本物の母親のように優しげな手つきで背を撫でていたけれど―、それにしては、彼女は静まり返った湖のような沈黙を纏い、その表情はあまりにも変化に乏しかった。
  
 翌日、紗英子は浮かない顔で電車に乗っていた。昨夜の夫とのやりとりがまだ心に重く淀んでいたからである。
 昨夜、紗英子は直輝に事の次第を報告した。もちろん、代理母の名前は伏せ、妊娠が判明したことを簡単に告げたにすぎなかった。しかし、直輝は紗英子が期待していたような反応は全く見せなかった。
―そうか。
 ただ短く応え、逃げるように書斎へと閉じこもった。
 紗英子はただ茫然と立ち尽くしているしかなかった。むろん、元々この話に乗り気でなかった直輝だけに、自分のように狂喜乱舞するとまでは思わなかったが、せめて笑顔くらいは見せるだろうと想像していたのだ。
 有喜菜の身籠もった赤ん坊は他ならぬ自分たちの子ども、直輝と紗英子の血を引く我が子ではないか。妊娠判明を知った有喜菜が淡々としているのは赤の他人だからまだしも、当の子どもの父親であるはずの直輝が何故、ここまで冷静でいられるのか理解できなかった。
 たとえ誰の子宮で育とうと、別の女が生もうと、子どもの体内を流れる血は直輝のものであり、紗英子のものなのだ。結婚して十三年めにやっと恵まれた我が子だというのに、夫はその誕生が嬉しくはないのだろうか。それとも、最初から彼が烈しく反対しているように、神の倫理とやらを越えた医療技術の果てに得た子どもは、ただそれだけで愛情が持てないとでも?
 だが、と、紗英子は思い直す。直輝にしてみれば、代理母の妊娠を告げられたところで、何の感慨も湧かないのも無理はないかもしれない。何しろ、元来、男性は妊娠・出産を経験する生きものではない。普通に生まれてくる赤ん坊でも、父親の方は母親と異なり、〝親〟となる自覚はゆっくりと芽生えてくるものだという。
 女は身籠もった瞬間から、早々と親になるけれど、男は自分の妻のお腹が徐々に膨らんでくるのを見、時々は妻のお腹を元気に蹴ってくる赤ん坊の存在によって、やっと自分が父親になるのだと認識する。その点が母親と父親の大きな違いなのだと、以前、育児書か何かで読んだことがあった。
 だとすれば、直輝の場合は、妻たる紗英子の腹が膨らんでいくわけでもないのだし、我が子の存在を意識させるものが何もなく、ただ〝子どもができた〟とだけ告げられても、自分が父親だという自覚を持つのは難しいだろう。
 が、その中に有喜菜のお腹も大きくなり、超音波写真に赤ちゃんの姿が映るようにでもなれば、直輝の心情も自ずと違ってくるのではないか。更に十月十日過ぎて、赤ん坊が生まれ、本物の赤ちゃんを家に連れて帰れば、歓びが現実となり、ひしひしと迫ってくるに違いない。
 M駅で降りた紗英子は、苛々と腕時計を覗き込んだ。今日は有喜菜と二人で待ち合わせて外食を共にする予定だった。幸いにも、直輝は得意先の接待とかで、今夜は遅くなるらしい。
 既に腕時計は午後七時を回っていた。約束の時間は六時半。有喜菜の勤務する会社は午後五時で、大抵は定時退社だと言っていた。たまに残業がないわけではないが、妊娠が判ったので、上司に報告して今後はできるだけ負担を軽減して貰うと話していた。
 彼女が妊娠について会社にどのような報告をするのか判らないが、間違っても紗英子や直輝夫婦の名を持ち出すことはあるまい。どんな説明をされようが、紗英子には拘わりのないことと割り切っている。
 五時に会社を出て、近くの個人病院で注射を受けて電車に乗っても、もう着いても良い頃合いだ。N駅もそれなりに大きいが、隣のM駅は更にひと回り大きく、地下街も色々な店が居並んでいる。
 なので、二人はM駅の地下街で待ち合わせ、どこかの店に入ろうと話していたのだ。改札を出た場所に立っていると、側を様々な人々が通り過ぎていく。仕事帰りのサラリーマン、学校帰りの女子高生たち。
 時に人波に押されそうになりながら、背伸びして有喜菜を探していたところ、向こうから有喜菜が小走りに駆けてきた。
「ごめん、紗英。遅れちゃったわね」
「もう! 約束を忘れたのかと思ったわよ」
 紗英子が軽く睨むと、有喜菜は茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。
「ごめん、ごめん。病院の方が少し混んでてね。これでも大急ぎで走ってきたんだから。駅の階段も二段飛ばしよ」
 今日の有喜菜はブラックのパンツスーツで決めている。少し伸びたロングヘアは裾だけ揺やかにカールし、メークはもちろんバッチリだ。良い女の典型というか、ファッション雑誌の一ページから抜け出てきたような姿はいつもと変わらない。
 その抜群な体型からは、まだ妊婦であるとは到底想像も及ばないだろう。しかも、履いているのはスーツに合わせたヒールの高い黒のパンプスだ。確かに有喜菜のノーブルでありながらも艶やかさを感じさせる女っぷりにはよく似合っていたけれど、仮にも妊娠した女にふさわしい靴とは言えない。
 その良い女の見かけには全く似合わない男っぽい仕種が時に飛び出してくる。それは昔、紗英子がよく知る中学生のときの彼女と少しも変わらなかった。
「走ったりしたら駄目よ、しかも階段を二段飛ばしだなんて。もし転んで落ちたりしたら、どうするつもり?」
 声がつい尖ってしまったのは、この場合、致し方ないだろう。
 有喜菜は小首を傾げ、紗英子を探るように見つめた。
「別に子どもじゃあるまいし、そこまで心配して貰わなくて大丈夫よ」
「だって、有喜菜の身体には赤ちゃんがいるのよ?」
 私と直輝さんの赤ちゃんが。
 言いそうになって、紗英子は慌てて口をつぐんだ。
「―時間も過ぎてることだし、そろそろ行きましょう」
 有喜菜はそれについては触れず、二人はどこかぎくしゃくした雰囲気のまま眼に付いたイタリアンレストランに入った。
 紗英子は、あさりときのこのバジル風味のパスタ、有喜菜はチーズカルボナーラを注文する。
「有喜菜、物凄い食欲ねえ」
 紗英子は半ば呆れ半ば感心したように唸った。
 有喜菜はパスタを大盛りにしただけでは飽き足らず、デザートにフルーツパフェまで追加した。まさか、まだ悪阻が始まるはずもないだろうけれど、妊娠初期というのは何となく熱っぽかったり身体がだるかったりと不定愁訴に近いような症状が出るという。
 なのに、有喜菜といえば極めて健康そのもので、食欲は紗英子のゆうに三倍はある。