ブラに先端が当たっただけで、切ない吐息が洩れてしまうのもそのせいだ。
 夫に愛される妻。またもその言葉が頭をよぎり、紗英子は頬を赤らめた。ベランダとリビングはガラス戸一枚で繋がっている。リビングに戻ると、ソファに座り、何の気なしに液晶テレビのスイッチを入れた。
 特に意識せずにリモコンを弄っている中に、次々と場面が変わる。何度目かに出たのは民放のいかにも面白くなさそうな連ドラであった。今、売り出し中の若手女優だか何だか知らないが、とにかく演技が下手である。
 丁度、主演のその女優とこれは一応、若手の演技派として注目されているイケメン俳優の濡れ場真っ最中であった。
 ドラマは明治初期、華族の令嬢が政変で両親やすべてのものを失いながらも、逞しく生き抜いていくいわゆる波瀾万丈ものである。ちゃんと原作小説があるのだが、そちらは最後は、ヒロイン自らが起こした紡績工場が軌道に乗り、女実業家として成功するだけでなく伯爵に見初められて玉の輿に載るというサクセス・ストーリーの王道を行く話だ。
 しかし、まだしもベストセラーになった原作にはストーリー性があるものの、肝心のドラマの方にはストーリー性も何もあったものではない。ヒロイン演じる女優が毎回、脱ぐか脱がされるかして、眼を覆いたくなるような濃厚なベッドシーンが披露される。
 あまりに悲惨でお粗末な内容に、視聴者からは毎日、クレームの電話が鳴り続けているし、評論家からは、朝ドラであんなハードポルノ張りの卑猥な映像ばかりを流すなどもってのほかと手厳しくこきおろされている。
 紗英子はこれまで、相手役のイケメン俳優をひそかに良いなと思っていたのだけれど、このドラマでヒロインを見初める伯爵役を演じる彼を見てからは大嫌いになった。
 今も女優も俳優もほぼ全裸といって差し支えない格好になり、ベッドの上で烈しく絡み合っている。女優がただ、わざとらしい喘ぎ声を上げているだけで、到底、見られる代物ではなかった。同じベッドシーンでも、例えば映像の美しさとか、演じ手の迫真の演技とかが引き金となり、鑑賞に堪える見応えのある場面になり得るときもある。しかし、この場合、俳優の方はともかく、女優の配役は完全に失敗であった。
 何故か、それが二日前に見た淫らな夢の中の男女と重なり、紗英子は眉をしかめ、慌ててチャンネルを変えた。
 それにしても、あの夢の中の女は誰だったのだろう。一旦は忘れかけていた疑問がまた意識の水底からぽっかりと顔を出した。
 しかし、次の瞬間、紗英子は眼を見開いた。
 今度も局は違うが、民放である。こちらは、いつもこの時間帯はワイドショーをしていた。先ほどのメロドラマよりは少しはマシだけれど、こちらも有閑主婦向けに作られたお粗末な内容の番組といった感がある。
 まるで紗英子が美容院や銀行の待ち時間に読む女性週刊誌そのものの情報ばかりが続く。
 が、その日は違った。画面に大写しになっているのは、誰かの記者会見らしい。椅子に座った女性タレントが涙ぐみながら、記者の質問に応えている。
―幡多(はた)さん、最後にひとこと、お願いします。現在、日本の法律では代理母出産というのは認められてはおらず、不妊に悩み代理出産を望む女性たちは皆、海外に渡って代理母を捜すしかありません。そんな過酷な状況の中、子どもを持つこと、母親になることを諦めず果敢な努力を続けている方たちにアドバイスして頂けませんか。
 女性記者の質問に対し、タレントはハンカチで眼を押さえながら応えた。
―私たちも途中で何度、諦めようとしたか判りません。何でそこまでして子どもを持ちたいのかと随分と批判も受けました。でも、病気で子宮を失ってしまった時、私の子宮には元気に育ちつつある赤ちゃんがいたんです。その赤ちゃんの生命よりも、私は自分が生きるということを選択しました。その時、私は子どもに誓ったんです。必ずママは生きて、あなたを取り戻すからね、必ずママの元に帰ってきてねと。私の子どもを持つという夢は、犠牲にした我が子との約束でもありました。どうぞ、皆さん、最後まで諦めないで、元気な赤ちゃんをその腕に抱くまで治療を続けてください。私のように子宮をすべて失っても、母親になるという道はまだ残されています。私は、今も苦しい治療を続けられているすべての不妊に悩む方々が一日も早く元気な赤ちゃんを授かることを願っています。
 会見はそれで終わった。画面は変わり、今度は、かねてから噂のあった人気歌手グループのボーカルと若手人気女優の電撃結婚スクープになった。
 だが、紗英子の眼には何も映ってはいなかった。代理母出産。その言葉だけが頭の中を嵐に翻弄される木の葉のように回っていた。
 そういえば、と、今更ながらに思い出す。
 あの女性タレントは幡多ふゆ香ではなかったか。歳はもう三十歳は過ぎているはずだ。数年前、テレビ局のプロデューサーであった夫との間に第一子を妊娠したが、初期に子宮ガンが見つかり、妊娠十六週で胎児ごと子宮を摘出した。
 その後、不妊治療を始めたことで話題になった。既に子宮はないので、残っている卵巣から卵子を取り出し、夫の精子と顕微授精させてから代理母の子宮に戻すという方法が取られた。いわゆる代理母出産である。
 幡多ふゆ香の場合は精子と卵子は自分たち夫婦のものを使うため、他人の腹を借りるだけで、生まれてくる子は紛れもない実子ということになる。しかし、中には夫婦どちらかの精子や卵子の状態が良くないため、第三者―非配偶者のものを借りて代理母出産に臨む場合もある。
 いずれにしても、日本の現行の法律では認められていないので、海外へ渡って、外国人の代理母に出産を依頼しなければならない。従って、かかる費用も莫大なものがある。
 幡多ふゆ香は数度目の挑戦で漸く妊娠にこぎ着けた。彼女は自分が妊娠するわけでもないのに、代理母が妊娠するまでは懐妊祈願に神社に参り、受精卵が着床したと判ってからは、安産祈願に出かけた。その模様も同じワイドショーで放映されていたのを見たことがある。
 そして、ひと月前、妊娠中の代理母が海外の病院で無事出産、幡多ふゆ香は数日前に生まれた双子の女の子を連れ、夫とともに帰国した。
―私のように子宮をすべて失っても、母親になるという道はまだ残されています。私は、今も苦しい治療を続けられているすべての不妊に悩む方々が一日も早く元気な赤ちゃんを授かることを願っています。
 幡多ふゆ香の言葉が耳奥でリフレインする。
 子宮をすべて失っても、母親になるという道はまだ残されている―。その言葉は紗英子の心を真っすぐに捉え、絡め取った。
 その瞬間、紗英子の心も決まった。費用の問題もある。直輝が何と言うか―恐らく真っ向から反対するに違いない。
 だが、やらねばならない。紗英子は自分のためにこの世に生まれ出ようとしていた生命を犠牲にしたわけでもないし、一度ですら妊娠したことはない。それでも、何としてでも子どもを持ちたいという熱意は誰にも負けはしなかった。
 紗英子はすぐに自室からノートパソコンを持ってきて、早速立ち上げた。海外へ渡るというのは最終的な手段にするとして、紗英子にはある考えがあった。
 S市のエンジェル・クリニックという病院では、日本で唯一の代理母出産を行っていると聞いたことがある。もちろん、違法のため、院長は何度か警察で事情聴取を受けたこともあり、逮捕されかけたこともあるが、いずれも不起訴で釈放された。
 院長はそれでも、
―不妊に悩み苦しむ人たちの光になれば。
 と、依然として代理母出産を取り扱っている。
 まずは、そこに問い合わせてみようと思ったのである。
 電話番号を調べ、携帯でクリニックにかけてみた。その一時間後。
 紗英子は携帯を握りしめ、興奮のあまり頬を紅潮させていた。
 丁度、運も良かった。たまたま時間が空いていたとかで、受付の看護士が院長本人に代わってくれたのだ。
 紗英子の事情をひととおり聞いた院長は、力強く請け合った。
―大丈夫ですよ、卵巣が両方共に健康な状態で残っているのであれば、見込みは十分あります。一緒に元気な赤ちゃんが授かるように頑張りましょう、お母さん。 
 院長はまだ妊娠もしていない紗英子に対して、お母さんと呼びかけた。三十五年間の人生で、〝お母さん〟と呼ばれたのは初めてだった。電話を切ってから、紗英子は一人、ひっそりと涙を流した。
 確認したところによれば、確かにかかる費用は莫大なものだ。紗英子の貯金だけでは当然足りず、実家の両親にも頭を下げて頼まねばならないだろう。
 紗英子一人の我が儘なのだから、直輝や彼の実家は当てにできない。
 更に、紗英子にはまずしなければならないことがあった。

 紗英子は両手を背後について、真っすぐに脚を伸ばして座っていた。草地の上に直に座ることになるが、スカートが多少汚れても構いはしない。
 今はそれどころではなかった。今後の計画がうまく運ぶかどうか。それは、これからの首尾にかかっている。
 もちろん、相手が承諾してくれなくても、道が他にないわけではない。クリニックの院長は言っていた。
―全く面識のない人に代理母を依頼する方が良い場合もありますし、逆に、知らない人よりは自分のよく知っている知人などに頼む方が良い場合もあるんです。要はケース・バイ・ケースですね。信頼できる人に任せて、たとえ自分が腹を痛めるわけではなくても、その経過を見守りたいか、それとも、ただ自分の子どもを生んでくれるという役目を依頼するだけの関係か。その点は矢代さんが十分見極めてください。
 もし、紗英子自身に姉妹がいれば、血縁関係のある間柄の方がより望ましいのだとも言われた。、生まれてくる子どもはむろん遺伝的には我が子に相違ないが、やはり自分が生むわけではないので、情が湧きにくいときがある。そういう場合、姉妹が生んだ子どもだと、割とすんなりと受け容れられるものだというアドバイスも貰った。
 だが、紗英子には残念なことに、姉妹はいない。七十を過ぎる母親に幾ら何でも頼むわけにもゆかず、結局、誰か他人に依頼するしかなかった。
 今、紗英子が座っている場所は、なだらかな傾斜になっていて、その途中だった。
 やわらかな下草がびっしりと生えていて、緩やかな斜面を降りた先は河原になっている。その向こうは澄んだ川面が冬の陽射しを浴びて煌めいていた。
 見れば、河原を若い夫婦が散歩でもしているのか、ゆっくり歩いている。ベビーカーに乗っているのは一歳くらいの赤ん坊で、父親らしい男性が押していた。その傍らをまだ若い母親が寄り添うようにして歩いている。
 良い光景だと素直に今なら思えた。
 たとえ、この計画が上手くいこうといくまいと、やれるだけのことをやれば良い。
 若い子連れは紗英子が眺めているのに気づいてもいないのか、ゆっくりと下の道を通り過ぎていった。子どもが何か面白いことを言ったらしい。父親が子どもに何か話しかけ、母親は弾けるように笑った。
 澄んだ笑い声が清澄な真冬の大気に溶けてゆく。ありふれた、けれど、心温まる和やかな光景である。名残惜しい気持ちで、親子連れを見送っていると、背後から声をかけられた。
「紗英」
 紗英子はゆっくりと振り向いた。
「ごめんね。仕事中なのに」
 有喜菜は首を振った。
「なに水臭いことを言ってるのよ?」
 紗英子の隣に並んで座り、笑いながら言った。
「紗英が急に電話してくるなんて、よほどのことじゃないとないわ」
 どうしたの、何かあったの?
 姉のように優しく訊ねられ、紗英子は一瞬、後ろめたい想いに駆られた。一時は有喜菜が故意に、直輝と自分を仲違いさせようと企んで、時計コレクションのことを話したのだと勘繰ったこともあったからだ。
 が、やはりというべきか、紗英子は今までのように、素直に有喜菜に心を開けない自分を感じていた。直輝が紗英子には二十三年目にやっと披露したコレクションを、有喜菜には二十三年前に披露していた。そのことに拘っているのだ。
 馬鹿げているとは思う。所詮は子ども同士のことにすぎず、直輝の妻となって年月を経た今、何をそこまで拘るのかと自分でも考えるが、理屈と感情が必ずしも一致するとは限らない。
 依然として魚の小骨が喉にかかったような、些細だけれども不快感を憶えずにはいられない何かが紗英子の心から消えてくれない。ふさわしい表現がなかなか見つからないが、強いていえば、それは、ほのかな不信感であった。むろん、有喜菜に対してだけではない。夫に対しても似たような気持ちを抱いている。
「ねえ、紗英?」
 紗英子の様子がいつもと違うことに気づいたのだろう。有喜菜が小首を傾げた。
「本当にどうしたの、何があった? 直輝と喧嘩でもしたの?」
 突如として有喜菜の珊瑚色の唇から出た夫の名に、紗英子はピクリと反応した。
 いや、今は動揺している場合ではない。しっかりしなくては、長年の夢が実現するかどうかの瀬戸際に自分は立っているのだから。
 が、いざ切り出すとなると、話の緒(いとぐち)が見つからない。話の持っていきようによっては、大失敗に終わるだろう。ここは慎重に事を運ばなくては。
 想いに沈む紗英子を、有喜菜は心配と警戒の入り混じったような顔で見ている。
 突如として歓声が響き渡り、二人の間のどこか気詰まりな沈黙を破った。
 思わずホッとして振り向くと、斜面を女の子がすべっている。
「あの制服はN中ね」
 紗英子の口からは無意識に言葉が出ていた。
「そうね」
 有喜菜が応える。
 N中は紗英子や有喜菜、直輝が通った公立中学である。
「それにしても、やんちゃな女の子ねぇ」
 紗英子は笑った。女子中学生は斜面を滑り降りると、後ろ向いてピースして手を振っている。
「もう! 糸(し)織(おり)ったら、危ないじゃない。肝が冷えるわ」
 河原に伸びた小道を向こうから自転車を押した少女がやってくる。セーラー服姿は同じN中の生徒だ。
「優奈(ゆうな)ったら、大袈裟なんだから」
 糸織と呼ばれた少女は笑いながら、走ってゆく。
「ちょっ。糸織、待ちなさいってば」
 自転車の少女は慌てて友達を追いかけていった。
「今時の女の子って、皆、あんな感じなのかしら」
 有喜菜も紗英子も共に三十五歳、早くに子どもを生んでいれば、もうあれくらいの娘がいてもおかしくはない。現に、中学時代の同級生の中には中学生どころか高校生の子どもがいる者だっている。
「さあね。こんなオバさんになったら、今時の若い子のことはてんで判らないわ」
 有喜菜が心もち肩をすくめた。
「あの子たちを見てたら、思い出したの」
「思い出すって、何を?」
 紗英子は今日、初めて有喜菜を真正面から見た。相変わらず、白いシャツと黒のタイトスカートが抜群のスタイルを引き立てている。
「私たちが中学生だった頃のこと」
 ああ、と有喜菜が頷いた。
「そうよね。私たちも、いつもあんな風に帰ってたものね」
「私が自転車通学で、有喜菜は歩きだったよね。有喜菜はさっきの子のように、この坂を勢いよくすべるのが好きで、私ははらはらしながら見てた」
「もう、随分と昔になったわね」
 有喜菜がしみじみと言った。恐らく、この瞬間には、二人は同じことを考えているはずだった。同じ制服を着て、同じ道を通い、同じ時代を生きた同士であり、仲間だ。
 紗英子の中で有喜菜に対する親近感が急速に増した。今、有喜菜と自分は間違いなく同じ時間を、想い出を共有している。
「あなたの言うとおりね。あの頃がもう随分と昔のような気がするわ」
 紗英子は呟き、空を見上げた。雲一つない抜けるような蒼い空。薄青い冬の空はいかにも寒々しく寒走って見える。
「あの頃は良かった、戻れるものなら時を巻き戻して、あの時代に帰りたいわ」
 視線を戻し、前方を見ても、既に少女たちの姿はどこにも見当たらなかった。
 同じ時代を共有していた二人は、別々の高校に進学した。直輝と紗英子は公立のN高校へ、小さいけれど貿易会社を営む父親を持つ有喜菜はお嬢さま学校として知られる私立の女子校へと進学し、それぞれの進む道は別れた。
 そう、時は二度と戻せないし、人は過去に帰ることもできない。ただ、ひたすら未来へ、前へ向いて進むしかない。たとえ、その先に何が待ち受けていようとも、後戻りはできないのだ。
「―有喜菜に頼みがあるの」
 紗英子は改めて、知り合って三十五年になろうとする親友の顔を見つめた。
「私の赤ちゃんを産んでくれる?」
「紗英、何を言ってるの、私―」
 流石に有喜菜も言葉を失っている。
「代理出産を考えているのよ。その代理母の役目をあなたに引き受けて欲しいと思ってる」
 既によくよく考えた上での固い決意だったので、ひとたび話し出せば、言葉は自分でも意外なほどにすらすらと出てくる。
 対する有喜菜の方は予期せぬ展開に、衝撃も大きいようである。