あれは、一体、誰だったのだろう。自分でないとすれば、誰? 何かとても懐かしい、見憶えある顔だったような気もするのだけれど。いや、あれはやはり自分だったに違いない。他ならぬ自分自身の顔を見たからこそ、どこかで見た女の顔、誰かに似ているような胸騒ぎがしてならないのだ。
 紗英子は無理に自分に言い聞かせる。
 その間にも、直輝の責め立ては容赦がなくなり、紗英子は更に追いつめられて、極限目指して上りつめてゆこうとしていた。
「何て綺麗なんだ、素敵だよ、紗英子」
 直輝が感に堪えたように呟く。
「直君、許して、許して」
 自分でも何を口走っているのか判らない。
 それでも、最後はやってくる。最後のひと突きで、紗英子は何度目になるか判らない絶頂を迎え、同時に直輝も達した。ビュクビュクと熱い飛沫が感じやすい最奥で弾け、まき散らされてゆく。
「あぁ、あうっ、ああー」
 最奥で飛沫が散り、内壁に当たる度に、感じたことのないほどの快感が下腹部から四肢へと拡散し、冗談ではなく、このまま気が狂ってしまうのではないかというほど気持ちが良かった。
「愛してる、紗英子」
 意識を失う寸前、直輝の声が耳に流れ込んできた。少なくとも、この瞬間、直輝は確かに紗英子を抱き、心から妻を愛しいと思ったのだ。その言葉にも心にも嘘はなかっただろう。
「もう、無理。直君―」
 あまりに烈しい荒淫に、紗英子は身も心も疲れ果て、深い眠りの底に落ちていった。

 身体が情事の後の特有のけだるさに包まれていた。紗英子はゆっくりと瞼を開き、首を回して傍らを見た。すぐ側で直輝が安らいだ寝顔を見せていた。二人きりの寝室に、直輝の規則正しい寝息だけが聞こえていた。
 枕許の置き時計を見ると、針は午前四時を少し回ったところだ。イブのパーティを始めたのは確かまだ日付が変わる前、九時過ぎだったから、少なくとも三、四時間は眠ったのだろう。
 暗い室内はまだ暖房の余熱が残っていた。タイマー設定をしていたので、途中で切れてしまったらしい。紗英子はそろりとベッドに身を起こし、用心しながら降りてヒーターをつけにいった。
 直輝に抱かれた―しかもこんなに烈しく抱かれたのはもう数年ぶりのことだ。いや、不妊治療を始めてからは、極めて儀礼的なセックスしかしなかったから、数年ぶりどころではないかもしれない。
 とはいえ、別に初夜―処女を失ったわけではないから、身体がきついということはない。それでも、久しぶりに男を受け容れた身体はやはり、下半身に鈍い痛みはかすかだけれど残っていた。
 が、身体はだるくても、心は妙に弾んでいる。我ながら現金なものだと紗英子は思う。
 それでも、頬がひとりでにしまりなく緩んでしまうのは、やはり、満たされた妻の余裕というものだろうか。
 子どものできないセックスなど、何の意味もないものだと思っていたのに、やはり、好きな男とのセックスというのは、そのような理由づけなど越えた極上のものなのだろうか。
 まだ余熱があるとはいえ、真冬の早朝はかなり冷える。裸のままの紗英子は小さなくしゃみをし、慌ててベッドに戻った。ほどなくヒーターがつけば、冷え切った空気も直に暖められる。
 ベッドに戻ると、再び上掛けの下にすべり込んだ。
 紗英子はしばらく直輝の寝顔を眺めていた。何もかもを預けたような、安心しきった表情が微笑ましい。思わず涙ぐんでしまうほど、この男を愛おしいと思えた。
 自分の心はとうに冷え切っていたと思っていたのに、まだ夫への愛情は奥底で眠っていたのだ。昨夜、直輝に抱かれたことによって、その眠っていた感情がめざめたのかもしれない。それは長らく放置され、セックスで快感を得ることを忘れてしまっていた紗英子の身体にも似ていた。
 直輝は夕べ、紗英子のその凍った身体に火を点し、彼女の中の官能―女である感情を目覚めさせたのだ。そして、女であることに気づいたときに、紗英子の夫への想いもまた再び芽吹いた。
「紗英子」
 唐突に直輝の声が耳を打ち、紗英子は現実に引き戻された。
「あなた」
 吐息のような声が洩れた。
 今更だが、昨夜の自分の乱れ様を思い出して、恥ずかしい。まともに夫の顔を見られなくて視線を逸らすと、直輝の黒い瞳が光を放ち、真っすぐ射貫くように見つめていた。
「良かったよ、とても。それに、俺の腕の中であんな風に乱れる紗英子が物凄く可愛かった」
 確か紗英子が直輝に服を脱がされ、生まれたままの姿になっ時、彼はまだ服を着ていたはずだ。あまりに烈しい情事に流され翻弄され、直輝がいつ服を脱いだのかさえも憶えていない。
 今、当然ながら、彼は裸であった。一糸纏わぬ姿で、紗英子のプレゼントした凜工房の時計だけを腕に填めている。
 鍛え抜かれ、引き締まった身体に腕時計だけ身につけている―、その姿が何故かとても淫らでエロティックに思え、紗英子はカッと身体の芯が熱くなった。
 淫らな思考に呼応するかのように、下腹部からジュルリと淫らな液が滲み出るのが判った。
 私ったら、何を考えているの?
 数時間の中にあれほど烈しく抱かれ、幾度も絶頂を迎えたにも拘わらず、淫らな自分の身体はもう貪欲に反応している。紗英子は自分が急に見知らぬ淫乱な女になったような気がした。
 そういえば、と思い出す。直輝と口論して淫らなおぞましい夢を見た朝も、こんな風に秘所がしとどに濡れていた。もっとも、今、自分の秘所が濡れているのは自分の愛液だけでなく、直輝が幾度も放った精が混じってはいるのだろうけれど。
 あのときの夢に出てきた女のことが妙に気になった。あれは自分だったのだと無理に納得しようとしても、心のどこかで違うと言い張る声がする。別にどうでも良いことだと言えば言えたが、何故か気になってしまうのは自分でもおかしかった。
 直輝はいつしか腹ばいになっている。紗英子がぼんやりとしている間に、取ってきたものか、火を付けた煙草をくわえていた。
 紗英子はゆっくりと身を起こした。直輝の視線が露わになった乳房に注がれている。そのまなざしにまだ情事のときの熱さと衰えることのない獣じみた欲望を感じ取って、紗英子は頬を赤らめた。慌て上掛けを引き上げ、胸許を隠す。
 しかし、悪い気分ではなかった。またもや、夫に愛され、満たされた妻の心―などと、いつか女性誌で読んだ記事のタイトルが浮かんでくる。それはセックスレスの女性には到底、縁のない言葉。
 そう、私は満たされている。夫にこんなにも愛されている。この私ほど幸せな女がいるだろうか?
 かすかな優越感に浸っていると、自然に一人の女の顔が脳裏をよぎった。
 直輝が紗英子の胸許から視線を外し、ゆっくりと動かした。何を考えているのか、宙に視線をさまよわせている。
「この―時計」
「ん?」
 直輝が小首を傾げた。これも夫の癖の一つだ。中学時代からの数ある癖。中三の時、練習試合でサッカーボールが右耳に当たり、少し聴力が落ちた。よく聞こえない時、直輝はこんな風に心もち首を傾ける。
 直輝の仕草の一つ一つがこんなにも愛おしい。自分の中にまだ、夫への愛情がこれほど残っていたこと、この男が自分にこれほどまでに影響力を持つことに紗英子は今更ながらに愕いていた。
 直輝について、私に知らないことはない。
 妻の自信というものだ。夫に愛される妻だけに許された特権。
 また、あの女の顔が瞼に浮かんで消える。
「昨日の夜、私がプレゼントした時計ね」
「ああ」
 直輝が煙草の先をクリスタルの灰皿に押しつけた。おもむろに起き上がり、紗英子を見つめる。
「凜工房の時計なんて、なかなか手に入らないんだ。何しろ一人の職人が一つ一つ手作りで拵えている稀少品だから、大量生産できない。時計マニアなら、誰でも欲しがる垂涎の品さ」
 直輝は腕に填めた時計を見て、満足そうに言う。
「それにしても、紗英子が凜工房を知ってるなんて、少し愕いたよ」
「直輝さんって、時計マニアなの?」
 え、と、小さな呟きが洩れた。意外なことを言われたと思ったのは明白だ。直輝は眼をわずかに見開いて紗英子を見返した。
 戸惑いが韓流スターに似た端正な顔に浮かんでいる。
「まあ、そう呼ばれてもおかしくはないだろうな。それが、どうかしたのか?」
「この時計ね。何を選んだら良いか判らなくて、有喜菜に相談したのよ」
 微妙な沈黙があった。直輝はもう一度、腕時計を眺める。
「―有喜菜に逢ったのか?」
「ええ」
 その刹那、直輝の表情が動いたような気がして、紗英子はハッと胸をつかれた。慌てて窺い見ても、夫の整った面に起こった爪の先ほどの変化はもう完全に消えていた。
 夫に愛される妻。夫のことを何でも知っていると自負している自信に満ちた妻。
 だが、果たして本当にそうなのだろうか。自分は夫について―直輝のことをすべて知っているといえるのか。
 紗英子の中で拭いようのない疑念が生まれた瞬間であった。
 紗英子は目まぐるしく思考を働かせた。こういう場合、夫をあからさまに責め立てたり、追及したりしてはいけない。確か、女性週刊誌の〝夫の効果的な操縦法〟特集に書いてなかったか。
「ねえ、一つだけ訊いても良い?」
 紗英子は甘えるような口調で訊ねた。
「うん、何だ?」
 直輝を見ても、特に警戒している様子はない。
「有喜菜って、直輝さんの家に遊びに行ったことがあるんだって?」
 重くならないように、あくまでもさりげなく。紗英子は自分に言い聞かせ、言ってから夫の横顔を盗み見た。
 しかし、直輝の表情は少しも変化はしなかった。全く不自然なほどに。
 また、わずかな間があり、直輝がぼそりと返した。
「そんなこともあったっけ」
「まさか、付き合ってたりしたとか?」
 今度はすぐに反応があった。
「馬鹿か、お前。有喜菜と俺がどうして付き合わなきゃならないんだよ。あいつと知り合ったのは、確かに俺が紗英子と出逢うよりは前のことだけど、それだって、たった数ヶ月の差しかないじゃないか」
 それが付き合っていなかったという理由にも証拠にもならない。内心はそう言い返したかったけれど、まさか、口にはできない。
 だがと、思い直した。仮にそのようなことが―それに近いことがあったとして、それがどうしたというのか。自分は今や直輝の妻であり、直輝との間には恋人として付き合った九年と結婚して以来、夫婦として過ごした十二年間がある。その間、紗英子はずっと直輝の特別な存在であった。
 万が一、有喜菜と直輝との間に何らかの淡い感情があったのだとしても、今になって、そのことで悩む必要があるとは思えない。まさに、紗英子が直輝とともに築いてきた年月の重みの前では、取るに足りないことだ。
「クリスマスプレゼントとして腕時計を贈ったらってアドバイスしてくれたのは有喜菜なのよ」
 また沈黙。しばらくして、直輝が小さく応えた。 
「そっか」
 それきり、気まずい雰囲気が二人の間に漂った。紗英子は何か喋らなければならないような気がして、口を開く。
「有喜菜が言ってた。中一の頃、直輝さんの家に遊びにいって、そこで時計のコレクションを見せて貰ったんだって。それで、私にそのことを教えてくれたのね」
 直輝は依然として何も言わない。紗英子は二人の間の空白を埋めたい一心で、またもや次の言葉を発した。
「私ったら、そんなこと、全然知らなかった。直輝さんが腕時計を集めてたなんて、昨日、有喜菜から聞いて初めて知ったのよ」
 ちょっとショックだった。
 言おうかどうしようかと迷った末、とうとう口にしてしまった。
「直輝さん、何で私には教えてくれなかったの? ―っていうか、そのコレクションを見せてくれなかったの? まるで私だけがのけ者にされているようで、哀しかったわ」
 あれほど責める言葉は口にしてはいけないと自戒していたというのに、やはり、言ってしまった。
 そう思っても、言葉は二度と取り戻せやしない。そうなると、直輝がなかなか応えないことにも意味があるような気がして、余計に苛立ってしまう。
「ねえ、どうして?」
「別に理由なんて、ないさ」
「でも、そんなに腕時計に興味があるのなら、私と付き合ってた頃に、少しでも、そういう話をしたはずじゃない?」
「誰だって、他人には話さずに大切にしまっておきたいものがあるだろ」
「他人? 私は直輝さんにとって、他人なの?」
「そういう問題じゃないだろうが」
「話をはぐらかさないで。私が他人だから話したくなくて、有喜菜には話せた? なら、有喜菜は一体、あなたの何なのよ?」
「そういう言い方は止せ。別に有喜菜が悪いわけじゃない。俺が―ただ、お前に話さなかっただけだ」
 そのひと言は紗英子の心を鋭く抉った。
―俺がただ、お前に話さなかっただけだ。
 自分一人で大切にしておきたいことは、他人には話さないと直輝は言う。ならば、その大切なことを話した有喜菜は他人ではないということになる。では、話さなかった紗英子は何なのだろう?
 私は彼にとって何なの?
 直輝に愛されて、彼のことなら何でも知っている―つい先刻までは自信に満ち溢れていたのに、今はこんなにも心許ない。もしかしたら、良い気になっていたのは紗英子一人だったのか?
 直輝と歩んできたこの長い年月は、彼にとっては何の意味も持たないものだったのか?
 夫婦として苦楽を共にしてきた紗英子よりも、有喜菜との友情の方が大切なのだろうか。 いや、それは違う。直輝が有喜菜にそのことを話したのは、もう二十三年も前の昔だ。それを今更とやかく言っても始まらないのは判っている。しかし、紗英子が気がかりなのは、その後、直輝は紗英子に話そうと思えばいつでも話せたはずなのに、一向に話してくれなかったことだ。それが何より辛かった。
 所詮、自分は直輝にとって、その程度の存在なのだろうかと考えると、情けない。
「ともかく、もうこの話は終わりにしよう」
 直輝が突如として、宣言するように言った。
 低い、感情のこもらない声はつい今し方まで紗英子に熱く〝愛している〟と囁き、情熱的に何度も彼女を抱いた男とは全くの別人だった。
 紗英子はふいに有喜菜が憎らしくなった。何もかも、あの女のせい。有喜菜が私に直輝との秘密を暴露したりするから。
 現実には秘密を暴露したわけではなく、ただ直輝へのプレゼントに悩む紗英子に適切なアドバイスをしてくれただけなのだが。
 しかし、あの時、有喜菜に二人を仲違いさせてやろうという邪心がなかったと誰が言い切れるだろう。―そう考えてしまうのは、自分の心が歪んでいるせいだろうか。
「直輝さんって、やけに有喜菜を庇うのね」
 思わず落ちた呟きを直輝は聞き逃さなかった。
「煩い。良い加減にしろッ」
 直輝は怒鳴ると、紗英子に背を向け再びベッドに横たわった。
 こんなにすぐ側にいるのに、何故か直輝の背中が随分と遠く感じられる。たった今まで、幾度も愛を交わし、熱い身体を重ねた二人なのに、こんな風に冷たくよそよそしい関係になってしまうのは何故なのか。
 やはり、紗英子が余計なことを言ったのが原因だろうか。しかし、考えまいとすればするほど、疑問は大きく膨らんでゆく。