直輝はしばらく荒れ狂う感情と必死で闘っているように見えた。紗英子は殴られるのを覚悟していたのだが、彼は固めた拳を最後まで上げようとはしなかった。
 代わりに、ややあって耳に流れ込んできたのは、夫のものとは思えない冷淡な声音だった。
「勘違いするな。俺は何もお前じゃなければいけないほど飢えてもないし、獣でもない。一夜の欲望を晴らせる場所なんて幾らでもあるさ」
 つまりは、何が何でも紗英子を抱きたいとまでは思っていないということだ。夫にしてみれば、セックスが和解、或いは妻の冷えささくれだった心を癒すと考えていたのかもしれないが、それこそ紗英子に言わせれば、大いなる勘違いも良いところだ。
 紗英子にとって、セックスはあくまでも子どもを持つための手段にすぎず、子宮を失い子どもを授かるという夢を永遠に手放した瞬間、最早、何の意味も価値もない浅ましいだけの行為になってしまった。
 つまりは、夫に対して、それだけの感情しか残ってはいないということでもある。もし仮に紗英子がまだ直輝を愛しているのであれば、直輝の言うことも素直に共感できたろう。
 彼の指摘はある意味では、正論ともいえる。セックスは何も子作りのためだけに存在するのではなく、夫婦間のコミュニケーション、愛情表現の一種でもある。誰もがそのとおりだと頷くに違いない。
 ただし、それは夫と妻が互いに愛し合い信頼し合っていればの話で、気持ちがとうに冷め切ってしまっているのであれば、また話も違ってくる。少なくとも、子どもを望んでいる間は、紗英子は直輝を夫として必要とし、愛していたはずだ。むろん、その必要としている気持ちの中で〝子どもの父親〟としての要素が大きく占めていたことは認める。
 それでも、まだ夫への想いは確かにあった。しかし、辛い不妊治療の過程で、幾度も直輝に背を向けられ拒絶されていく中に、紗英子の気持ちもまた直輝と同様に少しずつ冷えていった。
 恐らく、二人の気持ちは不妊治療を始めたときから、少しずつすれ違い、溝は深まっていっていたのだろう。だが、二人ともにそのことについては気づいていながら眼を背け、見ないふりをしてきた。だからこそ、辛うじて結婚生活の破綻を免れていたのだ。
 直輝の方は知らないが、紗英子に限っていえば、今夜の夫のひと言で気持ちも完全に冷えた。蔑まれていたというのもショックだったけれど、いちばん辛かったのは憐れまれていたという事実だ。
「出かけてくる」
 直輝が寝室のドアを開ける気配がした。
 紗英子は背を向け、ギュッと眼を瞑っていた。出ていきたければ出ていくが良い。あなたがいなくても、私は平気だ。
 子どもを持つ夢も失った今、これ以上、何を怖れることがある? もう、怖いものは何もない。
 直輝がどこへ行くかは大体、想像がついた。しかし、そんなことは考えたくもないし、考えるだけの価値もない。男が欲望を一時的に晴らす場所―例えば風俗などはこの小さな町にもごまんとある。
 まあ、それは紗英子の考えすぎかもしれない。直輝は元々、セックスにそれほど執着のある方ではない。妻に一度拒まれたからといって、すぐに風俗店に直行するほどこらえ性がない男ではなかろう。
 或いは馴染みの女の子のいるバーとかキャバレーとかに行くのか。しかし、そこで酒を飲むだけとは限るまい。酒を飲んだ後は、ホテルにでも行って、それから―。
 紗英子はそこで首を烈しく振った。いやだ、これでは、まるで自分が夫の行動にいちいちヤキモキして、妬いているようではないか!
 あんな妻に対して理解のない男なんて、好きにすれば良いとたった今、思ったばかりなのに。しかし、直輝が誰か別の女を抱いていると想像しただけで、まるで心が土足で踏みにじられたような嫌な気持ちになってしまう。
 自分はまだ、あんな冷酷な男に未練があるというのだろうか。自分は考えているより、夫を愛しているのだろうか、誰にも渡したくない、触れさせたくないと思うほどに。
  
♠RoundⅢ(淫夢)♠ 

 翌朝の目覚めはすごぶる悪かった。
 それにしても、あんな夢を見るなんて。
 紗英子は眉をしかめながら、緩慢な動作で起き上がった。頭が重い。
 まだ退院してまもないのだから、体調が一人前でないのも仕方ないのかもしれない。そうは思いながらも、身体が気持ちについてゆかない現実に紗英子は苛立った。
 少し吐き気もする。こめかみにズキリとした痛みを憶え、紗英子はふらつく身体を意思の力で支えるようにしてキッチンまで歩いた。病院から処方された鎮痛剤と吐き気止めを水で流し込む。
 薬がすぐに効くはずもないが、冷たい水は今の不快感を少しは和らげてくれた。
 キッチンには四角いテーブル、椅子が置いてある。その一つに腰を下ろし、紗英子は長い髪を無造作にかき上げた。途端にたくさんの髪の毛が抜け落ち、床に散らばった。
 これも女性ホルモンの影響だろう。医師が言っていたことを、ぼんやりと思い出す。
 子宮摘出後は、女性ホルモンが減少するため、更年期障害のような症状が出るだろうと言われた。
―矢代さんの場合は、卵巣が機能していますから、そこまで深刻にはならないでしょうが、それでも、来るものは来るでしょう。もちろん、そういった症状は薬を適宜処方して服用することによって対応してはいきますので、ご心配なく。
 その症状の一つとして、大量の髪の毛が抜け落ちることもあり得る―と予め聞かされてそれほど愕きはしないが、やはりショックは隠せない。
 それにしても、あの夢は一体、何だったのだ。
 紗英子はまた、神経質に髪の毛をかき上げ、抜け落ちた髪の毛に眉を寄せる。
 あんな夢を見たのは生まれてこのかた、初めてだ。途方もない、淫らな夢。
 夢の中で、紗英子は観客にすぎなかった。
 大きな幅広の寝台の上で烈しく身体を貪り合う男女。その一方の男は直輝だとはっきり判った。男は観客である紗英子に顔を向ける位置におり、女の顔は紗英子から判別はつかず、ただ後ろ姿が見えるだけ。
 直輝が烈しく下から突き上げる度に、女は嬌声ともとれる喘ぎ声を上げ、腰をくねらせる。鍛え抜いた逞しい身体に華奢な女を跨らせている直輝、直輝はちょうど寝台の上に座っている。両手を後方につき、自分の身体を支えるようにして座り、その上に女があられもなく大股を開いて跨っている。
 後ろにいる紗英子からは見えないが、二人がある一カ所で深く繋がり合っているのは明らかだ。
―あ。ぁ、ああっ。
 二人の情交は延々と続き、ついに終焉を迎えた。女がひときわ高い声を放ち、豊満な肢体を仰け反らせた。次いで直輝もまた最後の鋭いひと突きで女を刺し貫き、頂点へと上りつめたようだ。たとえ直接眼にはせずとも、直輝が女の胎内深くで熱い飛沫を思うがまま散らすのが紗英子にはよく判った。
 何で、あんな夢を見たのかしら。
 昨夜、夫が久しぶりにセックスしようなどと言ったからだろうか。しかし、子どもも授からないと判った今、自分にそんな願望があるとも思えなかったのに。
 紗英子はまた知らない間に、眉根を寄せてていた。と、下腹部をつうーっと何かがつたい落ちてゆくのが判った。
 な、なに?
 慌ててトイレに駆け込むと、パジャマのズボンを降ろす。紗英子はそこで烈しい衝撃を受けた。
 ショーツがしっとりと濡れていたのだ。
 馬鹿な、そんなことがあるはずがない。幾度も否定しようしたけれど、眼の前に動かぬ証がある以上、認めないわけにはゆかない。
 ショーツのクロッチ部分には、小さな滲みが幾つもできていた。
 濡れて―いる?
 紗英子は愕然として、その淫らでおぞましい証を見つめた。別に子宮が亡くなったからといって、完全に女でなくなったわけではない。医師の言ったとおり、まだ卵巣は二つとも正常に働いているわけだから、女性ホルモンは出ているのだ。
 だとすれば、淫らな夢を見たせいで、自分でも知らない間に膣内に溢れた蜜液でしとどに濡らしてしまったのか。
 これほどの恥ずかしい想いはしたことがない。たとえ誰が見ていなくても、自分が知っている。
 男性であれば、夢精とでも呼ぶのだろうが、こういう場合、女は何というのか。いや、呼び方なんて、どうでも良い。自分では全然、興味も執着もないと思っているのに、実は無意識の中に性に対して強い関心を抱いていた。―そう自覚するのはなかなかに勇気の必要なことだった。
 特に、どちらかといえば潔癖ともいえる紗英子は、余計に認めるには抵抗のある事実だ。
 夫の求めを拒み通した挙げ句、淫らな夢を見て一人で下着を濡らしてしまった。到底、他人に話せるような内容ではない。
 それとも、夫があんな誘いを仕掛けてきたから、つい身体だけが反応してしまったにすぎないのだろうか。紗英子本人の意思とは全く無関係のところで、起きた生理的な反応かもしれない。
 結局、紗英子はそう結論づけた。そうでもしなければ、あまりに恥ずべき事実に、余計に気が滅入りそうだったからだ。

 二日後はクリスマスだった。
 部屋の灯りを消した淡い闇の中で、キャンドルの灯りだけが揺れている。
 紗英子が焼いたブッシュド・ノエル。樹の切り株を模したケーキは純白(ホワイト)の雪(・スノー)を思わせる生クリームをたっぷりと塗り、紅いチェリーとサンタとトナカイの砂糖菓子で飾り付けられている。
 ケーキを囲む紗英子と直輝の傍らでは、愛らしいツリーが全身に煌めくイルミネーションを光の衣のように纏い、いかにもイブの夜らしい雰囲気を作り出していた。
 蝋燭の他にはツリーの灯りだけしかない、幻想的な空間に、直輝の端正な顔が浮かび上がって見える。
 これで二日前の出来事がなければ、申し分のないイブの夜になるはずであった。
 あれから、二人の間には常に緊張した空気が漂っている。それは例えるなら、細い針でほんのひと突きしただけで音を立てて割れそうな風船にも似ていた。
 それでも大人同士のことだから、こうして何もなかったような顔で毎日を何とかやり過ごしている。
 よく離婚するには結婚を決意するときの倍以上のエネルギーを要するといわれる。あれは満更、嘘ではないだろう。現に、紗英子も今から直輝と別れて、また別の人生を生きようという気にはなかなかなれない。
 また別の男と出逢い、その男を好きになり、新しい家庭を築く。しかも、その選択肢に子どもを持つという夢は付属しない。
 かといって、結婚もせずに一人だけでひたすら歳を重ねていくというのも、あまりに空しく淋しすぎた。それに、三十五にもなった女が何の仕事をして生きていけば良いというのか。
 紗英子は地元のN大の英文科を卒業し、一年間は市役所で臨時職員として働いていた。一年勤務した後、直輝と結婚したのだ。
 つまり、大学を卒業してからは殆どの時間を家庭で過ごしたと言って良い。そんな世間知らずで何の特技も資格もない主婦に何ができる? 
 今から人生をやり直すという煩雑なことをやるくらいなら、少々我慢しても、このまま結婚生活を維持する方がはるかにマシだ。
 忌まわしい夢を見てしまったあの朝、直輝はとうとうマンションには戻らなかった。そのまま出社したようだ。ご丁寧に着替えまで持って出かけたのかどうかは知らないが、帰ってこなかったところを見ると、紗英子の嫌な想像は当たらずとも遠からずなのかもしれない。
 もっとも、酒を飲むだけ飲んでカプセルホテルかビジネスホテルに泊まるという線もあるから、外泊だけで夫が他の女と寝たとは限らないけれど。
 しかし、自分の見たあの淫らな夢がもしかしたら、正夢だったのかもしれないとも思えた。いずれにせよ、直輝にあの夜をどこでどう過ごしたかなんて、訊ねる気はさらさらない。
 いや、もしかしたら、自分は怖いのかもしれない。もし夫に訊ねて、あっさりと真実を白状されたら、その時、自分はどのような反応をするのだろう。他の女と寝たと堂々と宣言した夫と一つ屋根の下に暮らせるだろうか?
 応えはNOだ。何事にも潔癖で周囲からはいささか面白くないとまで評される常識家の自分。そんな自分が浮気を認めた夫を許せるとは思えない。今の安定した暮らしを失いたくないのであれば、ひたすら口をつぐんで知らないふりを通すしかないのだ。
 だが、本当のところ、自分は何を望んでいるのだろうか。夫に守られる安穏な主婦としての日々? それとも、直輝自身を失いたくないと思っている? 彼を誰にも渡したくないと思っているのか?
 多分、そのどちらもが本音なのに違いない。自分では認めたくないけれど、この男に愛想が尽きたと言いながらも、心のどこかで自分はまだ夫を愛している。手放したくないと思っている。
 だが、直輝の方はどうなのだろう。昨夜の言葉を聞いた限りでは、あまり見込みはなさそうに思える。あれを聞かなければ、入院中、彼が見せてくれた数々の優しさや労りを心から信じ、彼はまだ自分を愛していると信じられたことだろうが。
 紗英子が想いに耽っていると、ふいに間近で深みのある声が響いた。
「ハッピー・クリスマス」
 ざっくりとした緑のタートルセーターに、チャコールブラウンのゴーデュロイのズボンは彼のモデル並の体躯を際立たせている。近づいた拍子に、夫がいつもつけているローションの香りが鼻腔をくすぐった。
 深い森林を思わせるような、ほのかな白檀の香り。
 直輝の差し出された大きな手のひらには、不似合いなほど小さな箱が乗っていた。深紅の艶やかな紙で包まれ、緑のリボンが愛らしくかかっている。
「今年は結婚記念日も祝えなかったから。少し奮発しておいた」
 その声音にはほのかな甘ささえ滲んでいて。到底、わずか二日前に夫婦にとっては致命的な喧嘩をしたとは思えないような様子である。もし、これが演技なのだとしたら、直輝は容貌だけでなく、演技力もソン・イルグク級だということになる。
 夫の気持ちが理解できないまま、紗英子も無理に笑顔を作った。
「メリー・クリスマス」
 用意しておいた細長い箱を直輝に差し出す。
「これは?」
 直輝が片眉だけを器用にはね上げて見せる。これは演技ではない。長年の付き合いで、直輝が愕いたときは、この表情を見せるのは知っている。
 まあ、十三年の結婚生活で紗英子が直輝に記念日の贈り物をしたのはこれが初めてなのだから、彼が愕くのも無理はない。
「私からのプレゼント。いつも直輝さんから貰ってばかりだったでしょ。だから、今年からは私も何か用意しようと思って。急に思いついて買ったから、たいしたものは用意できなかったけど」
 グリーンの包装紙に〝For You〟とプリントされたゴールドのシールが貼ってある。
「紗英子がプレゼントくれるなんて、思ってもみなかったな」
 直輝は満更でもないらしく、包装紙を解きながら表情を緩ませている。そんな屈託ない彼の笑顔を見るのは久しぶりのような気がして、紗英子も嬉しくなった。 
 縦長の箱がまず現れ、蓋を開くと、更に紺のベルベットの箱が入っている。直輝は待ちかねたように、ベルベッドの箱を開けた。
「おー、これは凄い」
 こんな風に歓ぶ彼を見ていると、付き合い始めた十四歳の頃を思い出す。学生服姿の直輝とセーラー服の紗英子はいつも二人一緒だった。あまりに始終くっついているので、何度か当時の担任や生徒指導の先生から呼ばれて、二人の関係について訊ねられたことさえあるほどだ。
 訊ねにくいことだけれどと前置きして訊かれたのは、当然ながら、二人がプラトニックな関係にとどまっているのかどうかという点においてであった。
 普通ならば、そこまで学校側が関与することはないのだが、ある生徒が二人のあまりの親密ぶりを親に話したところ、父兄の方から匿名で二人の関係について問い合わせがあり、全体の風紀を乱す元になりはしないのかと苦言を呈されたという。それで、やむなく二人を呼んで訊ねたという説明がなされた。
―俺たち、絶対に疚しいことなんてしてません。
 直輝は男らしく堂々と応え、そんな彼を紗英子は頼もしく見ていた。
 確かに、当時はまだキスさえしたことがなかった。同じ高校に通い出した高校一年の夏休みに海へ行った帰りにファーストキスを交わし、初めてホテルで身体を重ねたのは大学三年のときだ。初めて結ばれたその日に、直輝は紗英子にプロポーズした。
 既にその時、付き合い始めてから、八年の年月が流れていた。直輝は一度も結婚なんて口にしたことはなかったけれど、紗英子は自分たちがいずれそうなることを予感していた。