小説 夫と彼と私~その先に見えたものは~ 連載第10回
その四日後の朝。
美海は朝食を食べながら、琢郎に言った。
「今日、午後から出かけてこようと思うの」
「どこに行くんだ?」
さんざん酔っぱらった挙げ句、爆睡した琢郎は翌日は丸一日、二日酔いで悩むことになった。むろん、会社は二日続けて休んだ。
あれから琢郎も美海もあの日については一切、触れない。琢郎は元々、面子に拘る男なのだ。多分、あのとき―帰宅したばかりの美海に涙をみせたことも、〝棄てないでくれ〟と訴えたことも憶えているに違いない。
知っていて、知らんふりをしているのだ。だが、あの日のことをここで持ち出して、琢郎の男としての自尊心を傷つけても、何の意味もない。
琢郎は毎朝のメニューは決まっている。ほどよく焼いたトーストに目玉焼きとグリーンレタス、最後は新聞を読みながらコーヒーメーカーで淹れたコーヒーを時間をかけてゆっくりと味わう。
コーヒーには砂糖とミルクをたっぷりと入れる。こんなところも、シュンとは全然違う。
琢郎の問いは当然といえた。美海は琢郎を真っすぐに見つめた。流石に少し緊張する。
「I町に行こうと思うの」
「I町? そんな遠方に何か用があるのか?」
I町はN町から車か電車で三時間くらい。町といってもN町や琢郎の住むM町と異なり、ちょっとした都会(まち)である。
「高校時代の同窓会があるの」
「高校の同窓会といえば、皐月さんも行くんだろう?」
皐月は女子高時代からの親友でもある。
「ええ。もちろんよ」
「何時頃、帰ってくる? 駅まで迎えにいくよ。ついでにどこかで外食して帰ろう」
琢郎が駅まで自分から迎えにきたことなど、かつて一度たりともなかった。何故、今回に限り、今までしようともしなかったことをするのか?
もしや、シュンとのことを気づかれている―?
美海は背中に氷塊を入れられたような気分になった。
「あ、迎えは良いの。ああいう会って、盛り上がったら何時にお開きになるか判らないでしょう。だから、ちゃんとした時間は言えないわ。それに泊まりだし」
「泊まりだって?」
琢郎の眉が少しだけ、つり上がった。
「それは聞いてないぞ」
「だから、今、言ってるじゃない」
「どこに泊まるんだ?」
「Iホテル」
「皐月さんはまだ小さい子どもが三人もいるってのに、泊まりなのか?」
これでは、まるで警察の尋問を受けているようだ。美海は少し声を尖らせた。
「一日くらいだったら、浩介さんは何も言わないんでしょう。ねえ、琢郎さん。私は確かにあなたの妻だけれど、別に子どもじゃないと、あなたが私の保護者というわけでもないのよ。だから、そんな風にあれこれと詮索するのは止めて。何だか警察の取り調べを受けているようで、嫌なの」
「―判った。お前がいやだというのなら、もう、これ以上の詮索は止めるよ」
いつになくあっさりと引き下がるところも、不気味といえばほ不気味だ。やはり、琢郎は何か感づいているのだろうか。
だが、それきり琢郎は口を閉ざしてしまった。どこか気まずい雰囲気を引きずったまま、その日の朝食は終わった。
昼過ぎ、美海は琢郎の運転するセダンでN駅まで送って貰った。
美海が車から降りるまで、琢郎はくどいほど同じ科白を繰り返した。
「気をつけろよ、女の一人旅は危ないぞ」
「大丈夫よ。あなたも戸締まりと火の用心には気をつけて。明日の夕方には帰りますから」
美海は手を振ると、琢郎に背を向けて小さな駅の改札口を抜けた。
I町へ行くには途中で乗り換えがある。しかし、今回はN町からはシュンと合流し、車で行くことになっている。M町まで一時間、列車が切別駅に到着したのは午後二時を少し回った頃であった。
美海はシュンを車内から探した。上りのプラットフォームにシュンが立っている。美海を認めると、満面の笑顔で手を振ってきた。
「よく来たね。ミュウから返事を貰ったときは、嘘かと思って何度も頬をつねったよ」
「シュンさんったら、オーバーね」
美海が笑うと、シュンが照れたように頭をかいた。
「だって、四日前の君の様子では、到底OKが出るとは思わなかったからさ」
美海はそれには曖昧な笑みで返すにとどめた。
「荷物は俺が持つよ」
美海の下げたボストンを素早く引き取り、自分のボストンと両手に持って歩き出す。
シュンの車はいつもの駐車場に停めてあった。黒い見憶えのある軽自動車に二人して乗り込み、一泊二日期間限定の旅が始まった。
―これが最後。美海が今回、心にしっかりと刻み込んでいるのは、これをシュンとの最後の想い出にしようという想いであった。
だが、琢郎という夫のある身で、美海がしようとしていることは一般的には非常識としかいえないものである。たとえ今回を最後にしようと美海が思い定めたとしていても、家庭のある主婦が若い男と一泊二日の旅行に出かけたという事実だけで、世の中の倫理基準に反するからだ。
でも、そんな常識なんて今は糞食らえだ。今まで生まれてこのかた三十九年間、常識の枠の中でしか生きてこなかったアラフォー女が一生に一度、本気の恋に身を焦がす。一度こうと決めたからには、後悔もしないし後戻りもしたくない。
今、この瞬間から、美海は何もかも柵(しがらみ)から解き放たれて、ただの一人の女になるのだ。
ドライブは楽しかった。シュンはエスコート上手で、いつもさりげなく気を遣ってくれる。いつも気ままな琢郎の後を必死で追いかけているばかりだった美海には、これも新鮮な体験であり愕きであった。
M町を抜けて二時間が経った頃、やっとI町に到着する。I町は近代的な都会の顔と古くからの門前町という全くあい反する面を有している。歴史のある名刹、古刹が多く落ち着いた佇まい見せる一角がある一方、近代的な遊園地やテーマパークが建設され、多くの観光客を集めていた。
シュンの提案で、今日はまず遊園地を訪ねることになった。既に夕方になっており、小さな子ども連れなどは早々に帰り支度を始めている。この遊園地はナイトタイムも営業しているので、シュンはゆっくり愉しもうと言った。
最初にこの遊園地呼び物のジェットコースター、その名もスーパージェットに乗った。人口の洞窟幾つもを通り抜け、更に高みから降りてきて、最後は巨大プールに突っ込むという趣向である。
五両あるジェットコースターの殆どが埋まっていて、美海とシュンは一号車の最前列だ。
「ねえ、ちょっと。私たち、いちばん前よ。ちょっとヤバくない?」
担当の係員に安全ベルトを装着して貰ってから、美海が隣のシュンに小声で囁いた。
「大丈夫だって。こんなの、たいしたことないさ」
シュンは事もなげに言っていたのだが―。
次の瞬間、ブザーと共にジェットコースターが動き出した途端、急に無口になった。更に一つ目の洞窟を抜け、二つ目の洞窟に入った頃には顔面蒼白になっている。
「大丈夫? 顔色が悪いわよ?」
「大丈夫だよ」
口ではそう言いながらも、シュンはどんどん蒼褪めてゆく。流石に美海が本気で心配し始めた時、ついにジェットコースターは地上をはるかに見下ろす最上段まで上り詰めた。
「これからが本番よ」
実は美海はジェットコースターが大好きなのだ。高いところから一挙に落ちていくあの独特のスリルというか感覚が堪らない。
美海がわくわくしながら言っても、隣からは返事がない。怪訝に思って振り返ると、シュンはもう真っ青で震えていた。
「白状するわ。俺、高いところがてんで駄目なんだ」
「もしかして、高所恐怖症ってヤツ?」
「そのとおり。だから―」
言いかけたところで、いきなりジェットコースターが滑り出し、シュンが悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっと、これは凄ぇ、やべえよ」
結局、下に降りてしまうまで、シュンはまるで女のような金切り声を上げ続けていた。すぐ後ろの若い女の子数人のグループがクスクスと忍び笑いをしているのも聞こえた。
ジェットコースターが水上めがけて着水した瞬間、シュンは何も言わなくなった。美海は彼が眼を回しているのではないかと心配したのだが、流石に失神まではしていなかった。
スタート地点までやっと戻ってきて、二人は係員の誘導でジェットコースターから降りた。
「俺、もう二度とこのジェットコースターには乗らない」
シュンがまだ蒼白い顔で恨めしげに言った。美海はもう、笑いが止まらない。
「何で、そんなに嬉しそうに笑うんだ?」
シュンが恨みがましい眼で掬い上げるように見つめてくる。
「だって、シュンさんったら、もう凄いんだもの。皆、ジェットコースターよりもシュンさんの絶叫の方に愕いてたみたいよ」
「ああ、どうせ俺は臆病者ですよ。後ろの女の子たち、めっちゃ笑ってやがった。畜生、最近の中学生ときたら、失礼なやっちゃ。今時の若いもんは礼儀も知らんのやな」
自分だってまだ二十二歳の癖に、大人ぶって言うシュンが微笑ましい。
「久しぶりに出たわね。シュンさんの大阪弁」
美海が笑いながら言うのに、シュンは顔をしかめた。
「せやけど何が失礼いうて、ミュウがいちばん失礼やで。俺のこと、そんなに笑わんでもええやないか」
「高所恐怖症なら、初めからそう言えば良かったのに」
「ミュウが乗りたいっていうから、我慢したんだよ。それにジェットコースターにいちばん最後に乗ったのは中二のときだから、流石にもう克服してると思ったんだ!」
自棄のように言うシュンに、美海は〝はいはい〟というように頷いた。
「判りました、判りました」
「あー、その顔。全然、反省してないだろ」
シュンがむくれたように言い、美海は笑いながら首を振った。
それからメリーゴーランドに乗って、次はミニレール。これは園内をカタコト走る小さなSL列車で、小さな子どもが多く乗っていた。
二人乗りの狭い車両に仲良く並ぶと、シュンと身体がぴったりと密着する。それには少し胸の鼓動が速くなったが、シュンの方は実に楽しげに眼を輝かせているので、美海のそんな戸惑いもすぐに消えた。
「シュンさん、楽しそうだったわね」
ミニレールから降りて並んで歩き出しながら言うと、シュンは憮然として言った。
「どうせ俺はお子さまだよ」
最後は観覧車に乗る。これもジェットコースターと同様、この遊園地の呼び物の一つである。日本でも五本の指に入る規模を誇り、真上からの眺めは最高だと評判であった。
「これも高いところまで行くけど、大丈夫なの?」
先刻のことがあるので念のために訊ねたら、シュンは少しむくれた顔で言った。
「ゆっくりなのは大丈夫。それに、観覧車は箱の中にいれば良いから、守られてるっていう安心感があるんだ」
そろそろ長い夏の陽も傾き始めている。二人が乗り込んだ観覧車が丁度、真上に来た時、既に背景の空は薄紫に染まっていた。
町の灯りが闇夜を照らすキャンドルのようにちらちらと瞬いている。
「キレイね」
美海は広い窓ガラスに顔を押し当て、外の景色を楽しんだ。
「なかなかだろ?」
シュンが余裕の笑顔で言う。もう、例の高所恐怖症の名残はすっかり消えたようである。
「ミュウ、ここに来て」
シュンが手招きするので、向かいに座っていた美海は何の疑いもなく立ち上がり、隣にいった。と、ふいに身体がふわりと持ち上がり、膝の上に乗せられた。
「シュンさん?」
しかし、抗議する暇もなく、シュンの唇が降りてきて唇を塞がれた。
「シュ―」
一旦離れた唇はまた角度を変えて降りてくる。シュンは何度も離れては美海にキスしてきた。口づけは次第に深くなってゆく。
シュンの舌が侵入してきたので、美海もまた戸惑いがちに彼の舌に自分の舌を絡めた。
唇を深く触れ合わせながら、ゆっくりとシュンの手が下に降り、美海のブラウスの上をすべり降りる。やがて、胸の先端まで辿り着くと、キュッと力を込めて押された。
「!」
あまりのなりゆきに、美海は烈しく抗った。小さな手でシュンの広い胸を押し返そうとするが、美海の力ではビクともしない。
