小説 夫と彼と私~その先に見えたものは~ 連載第9回
「それは―」
最初は冗談の続きかと思ったけれど、シュンの表情は怖いほど真剣そのものだ。
美海はシュンの熱を帯びた視線に耐えられず、うつむいた。
「今、ここで抱かせてくれないか?」
美海は所在なげに視線をさまよわせた。
昨夜、夜通し琢郎に奪われ、身体は疲弊しきっている。まだ荒淫のせいで下腹部の痛みは続いているのだ。第一、琢郎に抱かれ、続けざまにシュンにまで身を任せるなんて、精神的にも保ちそうにない。
「ごめん―なさい。体調が思わしくないの」
消え入るような声で言った。
「女の子って、嫌な相手に求められると、大抵そう言うよね」
シュンのいつになく強ばった声。
美海は慌てて否定した。
「それは違うわ。シュンさんがイヤだとかいうのではないの。朝からずっと気分が悪かったし」
何をどう言えば、シュンに判って貰えるのだろう。混乱した気持ちが目尻に涙を押し上げる。
美海には沈黙が何時間にも感じられた。
やがて、シュンがホウと息を吐く。
「俺の方こそ、ごめん、大人げないよな。ミュウに断られたからって、辛く当たったりして」
「本当にごめんなさい」
堪えていた涙がポトリとテーブルに落ちた。シュンがまた溜息をつく。
「ミュウが悪いんじゃないよ。気分が悪いって言ってるのに、セックスしようなんて言い出した俺の考えが足りなかったんだ。駄目だよな、男って、好きな女を前にすると、こらえ性のない獣みたいになっちゃうから」
また沈黙。
今度の沈黙はすぐに破られた。
「ねえ、ミュウ。一つだけ訊いても良いかな」
美海が頷くのを確認してから、シュンは言った。
「あの紅い小さなアザ。ミュウの胸に散った花びらのような斑点は―」
美海はハッとしてシュンを見た。
だが、シュンはうつむき加減で話しているため、その表情までは見えない。いつもちゃんと視線を合わせて話をする彼には極めて珍しいことだ。よほど話しにくい内容なのだろう。
とはいえ、この問いに美海が応えられるはずもない。美海は唇を噛みしめた。
もしここでシュンの納得できる応えを出さなければ、もう彼と逢うこともないだろう。でも、それは致し方のないことでもある。
家庭を持ちながら、若い男と〝不倫〟―美海自身はあまりこの言葉を使いたくないが、世間から見れば、そう言われても当然だ―するだなんて、長続きするはずがないのだ。
美海が静かな覚悟を決めていた時、シュンが突然、言った。
「いや、良いんだ。何を馬鹿なことを言ってるんだろうな、俺」
事実を明らかにして、これで終わりにするよりは、不透明な部分を残しておいた方がよほど良い。
その刹那、美海はシュンの声なき声を聞いたような気がした。その気持ちは美海も全く同じであったからだ。
美海がシュンのアパートを出たのは午後二時を回っていた。
シュンの車で再び駅まで送って貰う。下りのプラットフォームに立つと、夏の午後の海が蒼く輝いていた。今日も前に逢ったときのように、大きな入道雲が水平線の彼方にひろがっている。まるで巨大な綿菓子が並んでいるようだ。
ふと振り返った拍子に、背後に立つ駅名を記した看板が眼に入り、美海は眼を見開いた。
どの駅でも見かける駅名が二人の真後ろに掲げられている。人がやっと数人座れるほどの簡素な木製のベンチがあり、その周囲を囲うように屋根がついている。駅名はベンチの背もたれの真上についていた。
―切別(きりわけ)
当然ながら、上りと下り方向の次駅の名前も左右に記されていた。
「珍しい名前なのね」
最初、シュンは美海の言葉をうまく解せなかったようだった。小首を傾げ、それから、彼女の視線を辿って初めて、なるほどというように頷いて見せた。
「ああ、これね。結構珍しいだろ、よく雑誌やテレビ番組の〝全国の珍しい駅名〟特集なんかに取り上げられるんだ」
やはり自分の暮らす町のせいか、少し誇らしげに言う。
美海は肩から下げたショルダーバッグを開け、携帯を出した。一枚、写真に撮っておく。
それからふと思いついた。
「シュンさん、一枚だけ撮りましょう」
〝切別〟と大きく記された駅名を背景に、二人並んだ。
「良いかい? ワン、ツー、スリー」
シュンが携帯のレンズを自分たちの方に向け、シャッターを押す。シャッター音がして、小さな画面に撮ったばかりの画像が映った。
「こんな感じで良い?」
〝切別〟の字もちゃんと判るように入っている。写真の中のシュンと美海は確かに十七歳も歳の差があるようには見えない。自分で言うのも何だけれど、それなりに似合っているカップルのように思えた。
「この地名には何か由来があるとか?」
興味を引かれて訊ねると、シュンは少しの躊躇いを見せてから、こんな話をしてくれた。
「ここから少し行った先に岬がある。その真下に三つの岩が並んでいて、大きな岩二つが小さな岩をはさむような格好で並んでいる。この辺りでは誰でも知っている伝説だよ」
話はまだ日本が〝古事記〟に登場するような神話時代にまで遡る。二人の男神(おがみ)が美しい女神を相争った。女神はどちらの雄々しい男神をも愛していて、どちらか一人に決められなかった。
そんな時、二人の男神が女神に妻問いした。求婚された女神は絶望の果てに、海に身を投げて死んだ。愛する女が自分たちのせいで死んだことを嘆き哀しんだ男神たちもまた恋人の後を追うように身を投げて死んだ。
「その海に消えた三人の神たちが岩となったのだと伝えられているんだ」
シュンはそう話を締めくくった。
切別という地名は、そこから来ているらしい。
「哀しい話ね」
美海は遠い神世の昔、繰り広げられた壮絶な愛の闘いに想いを馳せた。二人の男神のどちらをも選べなかった女神の哀しみ、自分たちの烈しすぎる愛が愛する女神を死なせてしまったのだという男神たちの嘆き。
胸が切なくなるような話だ。
美海が黙り込んだのを見、シュンは心配そうに言った。
「この駅名をミュウが気に入っているみたいだったから、俺も話そうかどうか迷ったんだ。やっぱり、言わない方が良かったかも」
シュンは午後の陽射しを反射する海を眩しげに眺めている。
「実際、切別っていう地名が縁起悪いっていうんで、恋人たちには敬遠されている駅なんだ。M町も遊泳禁止になるほどキレイな海があるんだし、何とか観光地としてもっと集客できないかなと躍起になってるんだけどね。この切別岬の伝説が有名なだけに、かえって邪魔になってるというのが皮肉な現状さ」
その話は何故か、美海の心に礫(つぶて)のように投げ入れられ、深く深く沈んでいった。
何故か不吉な予感がしてならなかった。
シュンと自分もいずれは切別岬の男神と女神たちのように、儚く別れるしかないのだろうか?
想いに浸っている美海の耳をシュンの声が打つ。
「今度の土曜日、I町に行かないか?」
美海はふいに飛び込んできた言葉に、現実に引き戻される。
コンドノドヨウビ、アイマチニイカナイカ?
まるで、その言葉だけが見知らぬ異国の言葉のように非現実的な響きを伴って聞こえた。
美海が何か言おうとしたのと、下り線から小豆色の電車がすべり込んできたのはほぼ時を同じくしていた。
急がなければ、列車はすぐに発車してしまう。これに乗り遅れたら、また一時間待ちぼうけだ。
「突然、押しかけてきたのに、今日は本当にありがとう」
美海は早口で言い、電車に乗り込んだ。
「またメールするよ」
シュンは美海が返事しなかったことには触れず、笑顔で手を振った。
電車が動き出す。シュンはまだ、その場に立ったままだ。列車はあっというまに速度を上げて遠ざかり、プラットフォームに立つシュンの姿は見えなくなった。
それでも、美海はまだ窓際の席に座ったまま、顔を車窓に押しつけるようにして外を見ていた。
今度、逢えるのは何時?
それとも、もう彼とは二度と逢えない?
様々な想いが交錯していった。
大好きな男の住む町が遠くなってゆく。
三両編成の鈍行列車は平日の昼下がりとあってか、殆ど乗客の姿は見られない。美海は窓ガラスに額を押し当て、瞼から消えないシュンの面影だけを見つめていた。
♭切ない別れ♭
マンションに辿り着いたのは、午後五時近かった。おかしなもので、習性というか習慣は怖ろしいものである。琢郎とあんなことがあっても、美海はN駅の近くのデパ地下で惣菜を幾つか買い求めた。
時間的にはさほど遅いとはいえないけれど、心身ともに色々ありすぎて、身体がついてゆけなくなりつつある。が、琢郎のことを思えば、夕食を拵えなければならない。
琢郎は結婚前から、一人では何もできない男だった。その点はシュンと対照的である。琢郎も親許を久しく離れていたから、その点はシュンと同じはずなのに、自炊というものを全くしなかった。なので、美海と付き合うようになってからは、美海がしょっちゅう下宿を訪ねて洗濯や掃除、料理などをしたものだ。
そのせいで、琢郎は同じ下宿の住人たちからは学生結婚をしていると勘違いされていたという笑えない話まである。もっとも、琢郎とシュンでは十九歳の歳の差があるのだ。
殆ど父と息子のように年齢差がある二人を比べてみても、意味はないのかもしれない。今時の若い子たちが肉食系女子、草食系男子と呼ばれるように、今の時代は男女が逆転しているのだろう。シュンはまさに今時の若者だ。炊事は苦手と言いながら、あり合わせの材料で器用に雑炊を作ったところを見ると、家事はお手のものに違いない。
家の中も男の一人暮らしにしては実に整頓され、掃除も行き届いていた。几帳面な彼の性格をよく表している。琢郎の下宿はいつも足の踏み場がないくらい散らかっていた。美海が行く度にそれなりに片付けて帰るのに、三日後訪ねてみたら、また、以前の惨状に戻っている。
それは今でも変わらず、美海がいなければ、本当に下着やワイシャツのありかすら判らないような男なのだ。
いつしか自分でも知らない中に、琢郎とシュンを比べている。そう気づき、美海は愕然とした。
気分を取り直し、マンションのエントランスを抜けエレベーターに乗る。九階を押すと、エレベーターがゆるやかに上昇を始めた。
九階で降りて、敷き詰められた絨毯の上を歩く。このマンションは超がつくほどではないが、ここいらでは高級マンションと呼ばれているのだ。
暗証番号を押しロック解除して、ドアを開けた。
短い廊下を進んでリビングに脚を踏み入れるやいなや、美海は絶句した。ビール缶や焼酎、ウイスキーの小瓶が至るところに散乱している。申し訳程度につまみの小袋が転がっているが、開けた形跡はあるものの、中身は殆ど減っていない。
琢郎はそのゴミの山の中に転がっていた。
大の字になって、ぼんやりと天井を仰いでいる。
「琢郎さん?」
美海が恐る恐る声をかけてみると、琢郎は睫をかすかに震わせた。
「―美海が帰ってきたのか? それとも、飲み過ぎて気が変になって、いよいよ見もしない幻を見るようになっちまったのか?」
呂律(ろれつ)が怪しいし、眼は座っている。どうせ、ろくに食べもせずにアルコールを浴びるように飲んでいたに違いない。
「私、美海よ。帰ってきたわ」
琢郎が緩慢な仕草で顔を動かした。
「美海」
いきなりガバと身を起こし、美海に抱きついてきたので、流石に愕いた。また前夜と同じことなのかと警戒してみたが、琢郎は美海を抱きしめたまま、その髪に顔を埋めているだけだ。
「俺は美海が好きだ。お前なしじゃ、生きていけない。美海、俺を棄てないでくれ」
愛してるんだ、棄てないでくれ。
琢郎はうわ言のように幾度も繰り返した。亭主関白をもって任じる普段の琢郎なら絶対に口にしないような科白である。
「会社は休んだの?」
美海が子どもにするように優しく問うと、琢郎はうんうんとまた子どものように頷く。
「うん、お前がいなくなっちまったっていうのに、会社なんて行ってられるか。ずっと、ここで待ってたんだ。どうして、もっと早くに帰ってこなかったんだ? 俺は待ちくたびれて、お前がもう帰ってこないのかと」
琢郎の声が戦慄いた。かすかな嗚咽が洩れ、夫が泣いているのだと判った。
「美海、お願いだ。どこにも行くな」
「判った。私はどこにも行かない、だから、安心して、あなた」
美海が言い聞かせるように囁く。
琢郎の蒼白い顔にわずかに赤みが差し、あからさまな安堵の表情が浮かんだ。
「良かった、俺は美海がいないと駄目なんだ。お前がいなきゃ、駄目になる」
琢郎はまた同じ科白を繰り返した。
しばらく身体を震わせていたかと思うと、やがて、彼はコテンと床に転がり鼾をかいて眠ってしまった。
美海はしばらくの間、床に座り込んで琢郎の寝顔を見つめていた。無防備な子どものような表情。
この瞬間、美海の心は決まった。
琢郎への想いも残っている。
だが、シュンのことは夫以上に好きだし、愛していた。何より、心が求めてやまなかった。
でも、今ここで琢郎に別離を切り出したりすれば、彼は間違いなく自暴自棄になるだろう。
美海の脳裏にシュンから聞いた切別伝説の話が甦る。美しい男神たちに求愛され、どちらも選べず非業の死を遂げた美しき女神。
この(琢)男(郎)の側から離れてはいけないのだと思った。思い上がりかもしれないが、もし自分が去れば、琢郎は駄目になるのではないか、そんな予感がした。
今では昔のようにひたむきに琢郎を愛した頃のような情熱はない。しかし、代わりに彼と営んできた十一年という歳月は、琢郎に対して身内に近い感情を抱かせるようになっていた。川の急な流れが気の遠くなるような歳月を経て凪いだ大海へと注ぎ込むように、美海の夫への愛もまたいつしか穏やかな想いに変わったのだろう。
夫の安らいだ寝顔をひとしきり眺め、美海は散らかり放題に散らかったリビングを片付けた。一時間後には、とりあえず見られる状態にまではなった。本当は掃除機をかけたかったのだけれど、熟睡している琢郎を起こすのも忍びなく諦めた。
シュンほどではないが、大柄ではある琢郎を苦労してリビングのソファに寝かせ、冷房を緩くかけてタオルケットをかけた。これで風邪を引くことはないだろう。
自室に戻れたのは、夜も七時を回っていた。
何か口にしなければ身体が弱ってしまうのは判っていても、食欲は一向に出ない。無理に食べる必要もないと自分に言い聞かせ、琢郎が目覚めたときに一緒に買ってきた惣菜を食べようと思い直す。
自分の部屋へ入ると、デスクに向かい携帯を開いた。やはり、新着メールが二通来ている。
七月○日午後四時五分
幾ら何でも家に着いてる頃だよね。ミュウの様子が普通じゃなかったから、心配してるんだ。着いたら、メールして。 シュン
午後五時二十一分
最初にミュウから電話があったときは愕いたけど、今日は思いがけず君に逢えて嬉しかった。 シュン
↓
午後七時十七分
いきなり押しかけてしまって、本当に申し訳なく思ってます。心配もかけてしまったようで、ごめんなさい。無事に家に帰り着いたよ。今夜はこれでおやすみなさい。 ミュウ
そこまで打ち込んで、美海は携帯の画面をじいっと見つめた。少し考えてから、続きを入力し始める。
追伸
I町には行くつもり。よろしくね。
一行だけ付け足して、それから僅かに躊躇い、思い切って送信を押した。