小説 夫と私と彼と~その先に見えたものは~ 連載第8回
美海が止めるまもなく、シュンは立ち上がった。流し台に向かい、何やらやっている。しばらく経った頃、湯気の立つ小鍋を持ち、シュンが戻ってきた。
「クーラーももう年季物のボロだから、ろくに効いてないだろう? まあ、ないよりはマシって程度で」
シュンは笑いながら言うと、器用に大きなスプーンで器に雑炊を盛りつけた。
卵と醤油出しの混じり合った何とも食欲のそそる匂いが部屋中に満ちてくる。不思議と先刻まで美海を苛んでいた吐き気は嘘のようにおさまった。
「可愛い、このお茶碗」
小振りな茶碗には白地にピンクの猫のイラストが入っている。
「いちおう、俺のとお揃い」
と、板場から別の茶碗を持ってくる。確かに大きさも同じで、猫の色がブルーなところだけが違っている。
「百均で買ったんだよ。貧乏学生だから、できるだけ抑えられるところは抑えてるんだ。何しろ彼女いない歴も長いし、ミュウと付き合うようになってから、すぐにペアの茶碗なんて買ったって言ったら、マジで引かれちゃうかな」
「嘘、シュンさんならモテるんじゃない?」
心からの科白だ。シュンを初めて見た時、誰かに似ていると思ったものだが、なかなか思い出せなかった。後に、大手のコンビニがよくテレビで流しているCMを見て、〝この俳優だ!〟とピンと来たのだ。
彼は韓流スターのチャン・グンソクに似ている。
シュンは美海の言葉を笑い飛ばした。
「まさか。そりゃあ、女の子と付き合ったことがないと言えば嘘になるけど、前の彼女と別れたのはもう四年前になるよ。それからは全然、哀しいくらいに女っ気なしだもんな」
「立ち入ったことを訊くようだけど、何で別れたの?」
シュンが嬉しげに相好を崩した。
「なに? ミュウは嫉妬してるんだ?」
美海は頬を膨らませた。
「気にならないはずはないでしょ」
自分でも判ってはいた。自分は本当は、彼にこんなことを言う資格は微塵もないのだと。美海はシュンの彼女ではないし、ましてや、将来的には何の約束もできない立場なのに、彼を束縛する権利なんてあるはずがない。
シュンはニヤニヤしながら言う。
「遠距離恋愛で駄目になったんだよ。その子とは高校二年から三年の終わりまで付き合ってさ、卒業のときは一応、遠距離になっても電話とかメールで続けていこうなって話してたんだけど、あっちが東京の大学に進学して、半年も経たない中に新しい彼氏ができたってことで、自然消滅」
「そうなの」
美海は消え入るような声で続けた。
「でも、シュンさんみたいにイケメンなら、大学でもモテたんじゃない?」
「告白されたことは何度かあるよ。良いなと思った子もいなかったわけじゃない。でも、不思議と彼氏と彼女の関係になろうとか、この子と付き合いたいとまで思った女の子はいなかったっていうのが本音かな」
自分を見つめるシュンのまなざしがかすかに熱を帯びているように見えるのは意識しすぎだろうか。
俄に意識すると、美海の頬もまたカッと熱くなった。
「それよりも、雑炊を食べてよ。折角ミュウのために作ったんだから」
促され、美海は雑炊をひと口含んだ。醤油の辛さがぴりりとして、食欲不振が信じられないほど美味しい。
「とっても美味しい、ありがとう」
あっという間に平らげ、二杯目をつけて貰って食べている中に、熱いものが胸に込み上げた。
「どうした? やっぱり、まずかった?」
大粒の涙を零す美海に、シュンは焦りまくった。
「ううん、こんな美味しいお雑炊、食べたことがないくらい」
「じゃあ、何で泣くの?」
シュンの顔にはハテナマークがついている。
「嬉しいから。これは哀しいから出る涙ではなくて、嬉し涙なの」
「ふうん、女心ってヤツは、どうも俺には判らないなぁ」
シュンはしきりに首をひねっていた。
「後片付けくらいさせて。何もかもして貰ったのでは申し訳ないわ」
美海が申し出ると、シュンは真顔で首を振る。
「良いの、良いの。今日はお客さんでいて。今度来たときには、何か手料理を期待しちゃうかもしれないよ?」
元々、こまめな質なのだろう。シュンは手早く片付けを済ませると、また戻ってきた。
「ねえ、シュンさんってチャン・グンソクに似ているって言われたことない?」
先刻から気になっていることを口にする。
「チャン・グンソク? なに、それ」
美海自身、特に韓流スターにハマッているというわけではないが、韓流ドラマはたまに借りてきて見ることがある。
しかし、アラフォーと違って、若い男性が韓流ドラマなど興味もないのだろう。
シュンはポカンとした顔で美海を見ている。
「韓国の俳優。歌手もしてるわよね、あの人は。日本でもCDが売れてるし、結構な人気よ」
「ふうん、俺はそういうのって、全く興味ないし、知らないな。ミュウはそのチャン何とかっていう俳優が好きなのか?」
「ファンというわけではないけれど、彼の出ているドラマとかは好きよ」
朝鮮王朝時代、実在した名妓ファン・ジニの波乱の生涯を描いたドラマや〝美男(イケメン)ですよ〟など、ドラマでの活躍にはめざましいものがある若手俳優である。
そこで、シュンが〝あっ〟と声を上げた。
「そういえば、確か聞いたっていうか見たことがある」
立ち上がり、片隅のカラーボックスを覗き込んで何やら探しているようだ。ほどなく一枚のクリアファイルを手にして戻ってきた。
「これじゃない?」
差し出されたA四判の紙には
―第○○回M大イケメンコンテスト
とデカデカとプリントされている。
続いて
―栄えある今回の優勝者
と記され、その下には囲み記事があった。
「なになに、今回の優勝者里村瞬君は審査員二十人が全員一致で優勝に推し、なおかつ当大学で実施された全学生を対象としたアンケートでも過去最高のポイントをゲットして見事優勝に輝いた。その甘く端正な顔立ちは、かのチャン・グンソクに酷似しており、地区大会での健闘が期待される」
美海はここまで声を上げて読んだ。
「凄い! イケメンコンテストで優勝したの? 地区大会にも出たのね」
シュンが決まり悪そうに言った。
「いちおう出るには出たよ」
「結果は? どうだったの!」
美海は勢い込んだ。元々ミーハーな美海はこのテの話題になると、俄然張り切ってしまう。
「地区でも優勝した」
「じゃあ、全国大会にも出たの?」
「俺はイヤだって、さんざんゴネたんだ。全国大会ってのは、各大学で実施されたコンテストの優勝者がまず地区に出て、更に地区で選抜されたヤツが全国区に出るから。別にそういうのに出たいわけじゃなかったし、むしろ、出たくなかった。鬱陶しいだけだからね」
「でも、出たんでしょ」
「あれは強制だったな。大学のコンテスト事務局に泣きつかれたから、仕方なくって感じ」
「また、優勝したの?」
これにはシュンが笑った。
「まさか、俺程度で優秀するわけないよ。うーんと、確か五位か六位だったんじゃないかな。まあ、入賞はしたから、コンテスト事務局の連中には面目は保てたのが救いだったけどね」
「凄いわ。全国大会で入賞だなんて」
うっとりとしていると、シュンの視線に気づいた。まるで本物の恋人を見つめるかのような優しい眼だ。
途端に心臓がどドキンと撥ねる。
「意外だね。ミュウがそんな話で盛り上がるなんて想像もしなかった」
「いやだわ。私ったら、若い子みたいにはしゃいだりして。みっともないわね」
美海が紅くなると、シュンの瞳がいっそう優しげに細められた。
「そんなことない。凄く可愛い。それに、ミュウはまだまだ十分若いよ。だって三十二だろ」
美海の胸がまたツキリと痛む。自分はこの優しい青年を騙している。本当は自分は三十二歳なんかじゃない。三十九歳にもなる、冴えないただのオバさんなのに。
それに。美海の胸許のアザに気づいていないはずはないのに、あれから彼は何も訊いてこない。つまり、シュンは気づいているのに、わざと気づかないフリをしているのだ。
美海がまた物想いに沈みそうになった時、シュンが唐突に言った。
「ミュウ、ちょっと」
え、と、美海が顔を上げたまさにその瞬間、シュンの手が伸びてきて、美海の顎を捉えた。
「じっとして、動かないで」
しっかりと顎を捉えられたまま、美海は戸惑っていた。その間に、シュンの顔が近づいてくる。
もしかして?
ふいに甘い予感に胸が疼いた。
シュンの顔はいっそう近づき、ふいに唇が美海のすべらかな頬に触れた。
軽い落胆が美海の中をよぎる。
私ったら、何を期待していたというの?
まさかシュンがこんなオバさんにキスを仕掛けてくるとでも思ったのか? だが、恥ずかしいことに、そのとおりだった。
美海の中でめまぐるしくせめぎ合う想いなど知らぬげに、シュンは唇を離す。かと思ったら、再び彼の唇が頬に触れ、そのままゆっくりと頬を降りていった。
ゆっくりとさまよっていた唇でふいに唇を塞がれる。
「―!」
それが何を意味するのかをはっきり自覚した刹那、美海の白い頬が染まった。
「キスのときは眼を閉じて、ミュウ」
美海の頬が更に上気する。
しっとりとした唇が軽く唇をなぞる。―かと思ったら、次の瞬間には荒々しく押しつけられてくる。軽く舌が差しいれられ、美海はおずおずとその舌に自分のを絡めた。それを待っていたかのように、シュンが積極的になる。
舌と舌を絡め合うという行為は何故か、密度の濃いセックスそのもののようだ。二人はいつまでも熱心に舌を絡め合い、情熱的な口づけを続けた。
どれだけの時間が流れたのか。美海にとっては永遠にも思える時間だったけれど、現実にはそう長いものではなかったはずだ。
漸くシュンが美海を解放した時、美海は呼吸も上がり、心臓は自分でも愕くほど動悸を打っていた。
身体が火照ったように熱いのは、何も室内の冷房が殆ど効いていないからだけではない。シュンが―眼の前のこの青年が美海の身体と心に火をつけたのだ。
「ミュウって、ホントに可愛い」
シュンが蕩けるような顔で美海を見つめている。何が可愛いのか良く判らず、美海は眼を見開いてシュンを見つめた。
「キスの仕方もあまり知らないんだ?」
三十九歳にもなって言われる場合、あまり褒め言葉にはならない科白だ。
美海の眼にじんわりと涙が滲んだ。
きっとシュンは今のキスでがっかりしたに違いない。自分より幾つも年上の癖に、ろくに経験も積んでいない女だと呆れたのかもしれない。
「―ごめんなさい。シュンさんをがっかりさせてしまったのよね」
シュンが思いがけないことを言われたというように、一瞬、ポカンとした。
「まさか、とんでもない。俺が言いたいのはその逆。あれー、もしかして、ミュウは泣いているのかな?」
シュンが微笑した。
「俺の方こそ、ごめん。もう少しちゃんと言えば良かったんだよな。ミュウが考えているような意味じゃないよ」
シュンは優しく微笑み、美海の頬を流れる涙を親指でぬぐった。
「ミュウって何か可愛いし、そういうところ、俺は好きだな」
シュンは急に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ミュウ、ほっぺたにご飯粒がついてたのは気づいてた?」
「えっ」
美海は思わず頬に手を当てた。
「本当?」
「うん」
シュンが笑いを堪えて頷く。
「そんな―、どうして、もっと早くに教えてくれなかったの?」
「だって、ほっぺにご飯をくっつけているミュウも可愛かったから」
「酷いわ」
一旦は引っ込んでいた涙がまた湧いてくる。
シュンは更に意地の悪いことを言う。
「俺が何でキスしたか判るだろ?」
「あ―」
美海は今度は両頬を手のひらで包み込んだ。眼が合うと、シュンはしたり顔で頷いた。
「最初はご飯粒を取ってあげるつもりだったんだ。それがついふざけてやっている中に、俺の方がその気になっちゃって」
美海はまたしても熟した林檎のように紅くなった。
「ミュウって不思議だよね。俺より年上だっていうけど、全然そんな風に見えない。むしろ、年下の女の子のようで、可愛いんだ」
美海は小さく肩を竦めて見せた。
「それは褒め言葉にはならないのよ、シュンさん。歳の割には大人げないって言われてるのと同じだわ」
美海が言い終わらない中に、シュンがふと表情を引き締めた。
「ねえ、ミュウ。お願いがあるんだ」
「なあに?」
「俺、ミュウが欲しい」
予期せぬ話の展開に、美海は息を呑んだ。
