小説 夫と彼と私~その先に見えるものは~ 連載第7回 


朝方までに何度、抱かれて絶頂に上り詰めたか知れない。漸く疲れて眠り込んだ琢郎の傍らで、美海は涙も涸れ果てた瞳で天井をぼんやりと見上げていた。
 あれほど烈しく美海を抱いたことなど嘘のように、琢郎は安らいで眠っている。
 不思議なことに、琢郎を見ても憎悪や怒りは湧いてこなかった。ただ空しさだけが美海の空虚な心を支配していた。
 これほどまでに酷い抱き方をされても、自分はまだ琢郎を嫌いになれない。自分の中に夫への気持ちがまだ欠片でも残っていることに、こんな形で気づくとは皮肉なものだった。
 美海の記憶が巻き戻されてゆく。
 琢郎が社会人になって二年目、美海が大学四年の冬、二人だけで初めてスキー旅行に出かけたときのこと。
 琢郎は当然ながら宿泊先のホテルで美海を欲しがった。だが、美海が泣いて嫌がると、無理強いはせずに朝までずっと膝に乗せて子どもをあやすように抱きしめてくれていた。
 付き合って数年目で初めて結ばれた日、まさにその日、琢郎の方からプロポーズしてきたときのこともよく憶えている。
 そう、いつだって琢郎は優しかった。美海がいやだと言えば、けして何でも強制はしなかったのだ。しかし、その優しさも今から思えば、彼の忍耐と辛抱強さのなせるものだったのだろう。
 世間知らずな美海のせいで、琢郎はずっと本当の自分というものを出せないでいたのではないか。だから、昨夜もああいう形で、長年わだかまっていたものが爆発したのかもしれない。
 本当の自分を抑えていたという点では、美海も琢郎と同じだが、それは当然のことだ。夫婦とはいえ、全く別人格を持つ二人が一つ屋根の下で暮らしている以上、ある程度の気遣いは必要不可欠だ。夫婦間においても、共同生活上のマナーは守るべきだと、美海は常日頃から考えている。
 夫が妻である自分との性生活が物足りず、風俗に行っていた―、そのことにショックはある。しかし、ショックよりも、琢郎に我慢を強いていたこと、更には、彼がひたすら我慢していたことに自分が全く気づけなかった方がかえって辛かった。
 でも、琢郎の求めに応じて、夜毎、足を開いて狂態を晒すのには大きな抵抗があった。
 一体どうすれば良いの?
 美海は小さく首を振り、立ち上がった。夜通しの荒淫のためか、身体の節々や何より、下腹部が烈しく痛んだ。
 ベッドの下に、携帯電話が落ちていた。昨夜、琢郎に寝室に連れてこられてベッドに降ろされた瞬間、無意識の中に握りしめていたものをどこかに落としてしまったのだ。慌てて拾おうとしたのに、琢郎に突き飛ばされ、再びベッドに倒れ込んでしまい、拾うどころではなかった。
 美海は携帯を拾い上げ、開く。メールの着信が十五通あった。どれもシュンからのものばかりだ。

七月○日午後十一時五分
 ミュウの知りたがっていた重大ニュースを発表します。ジャンジャーン。ついに就職が決まったよ。今、働いている牧場でそのまま正式雇用して貰うことになったんだ。 
                シュン

七月○日午後十一時十五分
 ミュウ、どうしたんだ? 何かあったの?
               シュン

七月○日午後十一時二十分
 もう寝ちゃったのかな。せめて、おやすみくらいは言ってよ。        シュン

 その後は断続的にシュンからメールが入っている。

 美海の眼に新たな涙が滲んだ。シュンが心配してメールを寄越し続けている間中、自分は琢郎に抱かれていた。
 一体、自分はどうすれば良いのだろう。どこに行けば良いのだろう。行き場のない想いが美海の中で渦巻く。
 気がつくと、美海はシュンにメールしていた。

七月○日午前四時五十分
 シュンさん、昨夜はごめんなさい。色々と立て込んでて、メールができなかったの。これから逢えますか?      ミュウ

 五分も経たない間に返信があった。

 良かった、やっと繋がった! 昨夜はホント、心配したんだよ。でも、ミュウの無事が判ったんで、安心した。もちろん、俺は逢うのは全然構わないけど、ミュウはこんな時間に良いの?         シュン

 美海はシュンにこれから始発の電車に乗るとだけ返信して、携帯を閉じた。
 とにかく今は一刻も早くここから逃げ出したかった。琢郎との烈しい夜の名残をそここに残した、この濃密な空気の立ちこめた部屋から出られさえすれば良かった。
 美海は寝乱れたダブルベッドから厭わしいものでも見るかのように眼を背け、急いで寝室を出た。
 
 美海が駅に降り立った時、シュンは既にプラットフォームに立って待っていた。
 夏の朝が明けるのは早い。太陽が今日もまた、梅雨明けまもない上天気を約束している。
 今日もプラットフォームからは雄大な海が見渡せる。朝陽が真っすぐに海面に降り注ぎ、今日はサファイアブルーに見える海は宝石のようにきらめいていた。
「ごめんなさい」
 電車から降りるなり、美海は謝った。
 三両編成の小豆色の列車は玩具のようにガタゴトと走り去ってゆく。次第に遠ざかってゆく列車を見送りながら、シュンが首を振った。 
「俺は良いんだ」
 この駅で降りたのは、美海の他には背中に小さな風呂敷包みを背負った老婆一人だけだった。小柄な老婆は腰を折り曲げるようにして、ゆっくりと二人の側を通り過ぎてゆく。
 シュンの顔を見るなり、美海の中で張りつめていたものが一挙に崩れた。
「シュンさん―」
 透明な涙が溢れ出し、つうっと頬をつたい落ちる。
「どうしたんだ、何があったの?」
 シュンが気遣わしげに美海の顔を覗き込んでくる。と、シュンの視線が胸許に注がれているのに気づいた。マンションを出るときに着ていたのは丈の長いマキシワンピースだ。夏らしい鮮やかな大輪の花が白地に幾つも散った柄である。一面の蒼い花はまさに輝く海の色をそのま映し出したようだ。
 肩が剥き出しになるのは避けたかったので、白いレースの袖付きボレロを羽織ったのだけれど、胸許はやはりブラウスやTシャツを着たときよりは露出度は高い。
 シュンの視線に気づき、美海はハッとした。白い膚に紅い小さな花びらが数枚、散っている。鎖骨から胸が見えそうで見えないギリギリの場所にまで、うっすらと紅いアザが浮いているのだ。昨夜、何度も抱かれた際、琢郎が美海の膚にしっかりと刻み込んだものだ。
 美海は狼狽え、慌ててボレロの前をかき合わせたが、小さなボレロで隠れるはずもない。
 シュンは黙って自分が羽織っていた薄手のパーカーを脱ぎ、美海の肩にかけてくれた。
「とにかく行こうか」
 シュンが低い声で言い、美海は彼の後に続いた。駅前には黒い軽自動車が停まっている。
「乗って」
 シュンに促され、美海は助手席に乗り込んだ。車は直に発進し、シュンは手慣れた様子でハンドルを握っている。
 今日のシュンはいつになく寡黙である。それも最初は変わらなかったのに、突然、態度が不自然になった。例の美海の胸許に散ったアザを見てからのことになる。
 迂闊だったと思う。まさか琢郎がこんな場所に吸い跡をつけているなんて、考えてもしなかったのだ。よりによって、夫との濃密な情事の名残をシュンに見せてしまうなんて、自分は何と愚かなのか。
 シュンだって、子どもではないのだ。あれが何を意味するかは十分すぎるくらい判っているだろう。シュンは美海が結婚していることを知らない。だからこそ、美海にプロポーズまでしているのだ。そんな彼が美海の身体に刻み込まれた他の男の痕跡を歓ぶはずがないではないか。
 車内はずっと重い空気が漂っていた。十数分が経った頃、やっとシュンが口を開いた。
「この車、十日前に慌てて買ったんだ」
 しかし、その口調は何か喋らないといけないから喋ったという感じがぬぐえない。
「そうなのね」
 美海もまた何か応えなければという想いから無難な相槌を打った。
「彼女が遊びにきたときに、車も持ってないんじゃ、ちょっと格好つかないだろ」
「―」
 それには応えようがない。
「何だか申し訳ないような気がするわ」
 考えた末、やっと適当そうな応えが出てきた。
「中古だし、そんなに気にしなくて良いよ」
 後はまた、ひたすら沈黙が続く。
 更に五分ほど経過した頃、車はとある小さなコーポラスの前に止まった。部屋数はどう見ても十にも満たない、小さなアパートだ。
「ここが俺の下宿」
 シュンが下宿していることは、既に美海も知っていた。何しろ、二ヶ月近くもの間、毎日、メールのやりとりをしているのだ。しかも、一日に二時間では済まない日だってある。
 シュンは自分の身の上にひととおり美海に伝えていたから、彼が大学入学と同時にM市内の実家を離れ、ここで一人暮らしをしているのだということも知っている。
 もっとも、彼が美海に自分についてあらかた喋っているのに対し、美海は全く何も明らかにしていない。本名も年齢さえも。
 シュンは市内に自宅はあるが、大学に通うのには少し不便なので、大学の近くに下宿しているのだ。
 案内されたシュンの部屋は、六畳ほどのすり切れた和室と小さな流し場、お風呂とトイレがあるきりのささやかな住まいだった。
「お邪魔します」
 控えめに声を掛けて中に入ると、シュンがいきなり訊いてきた。
「コーヒーでも飲む?」
 美海は首を振る。もう半月以上も続いている嘔吐感がまたぶり返してきていた。コーヒーなんて、とても飲めそうにない。
「ごめんなさい、折角だけど」
「じゃあ、お茶? それともオレンジジュースくらいならあると思うけど」
 シュンは狭い板の間に置いてある小さな冷蔵庫を覗いている。
「男の一人暮らしなんて、ホント、侘びしいもんだよ。バイトで遅くなったときなんて、作るのも面倒くさいから、ついコンビニ弁当で済ませちまって。だから、うちの冷蔵庫って、ろくなものが入ってないんだよね」
「あっ、ウーロン茶がある。どう?」
 美海はゆっくりと首を振った。
「何も。ちょっと気分が悪くって。本当に気を遣わないで」
「そっか」
 シュンは納得し、自分はインスタントのコーヒーを淹れたマグカップを持ってきた。
 和室の中央には、小さな折りたたみのテーブルが置いてある。シュンは美海と向かい合う形でテーブルを挟んで胡座をかいた。
「女の人って、やっぱブラックとかではあまり飲まないもんだよね」
 美海が何も言わないでいると、また独り言のように呟いた。
「俺は甘いのは苦手でさ、市販の甘ったるいコーヒーは絶対、駄目」
 シュンはしばらく黙ってコーヒーを啜っていた。ふとカップをテーブルに置いた。視線は半分ほどになったカップに落としている。
「君は一体、どこの誰なの?」
 刹那、美海は鋭く息を呑んだ。シュンから放たれた問いかけだけが、真っすぐ矢のように心を射貫く。
「いつか訊かなくてはならないと思っていたんんだけどね」
「あの、私―」
 美海は言いかけて、言葉を飲み込む。
 シュンにしてみれば、当然の疑問だ。むしろ、遅すぎた感がある。普通なら、もっと早い段階でなされているべきはずの質問なのだから。  
 これは一つのチャンスであった。今なら、すべてを洗いざらい話し、これきりにできる。
 美海が元いた世界へ―若い男との束の間の夢の世界から抜けだし、穏やかだけれど、退屈極まりない日常へと戻る絶好の機会ではないか。
「ごめんなさい、シュンさん。私は」
 覚悟を決めて口をひらいたまさにその時、何を思ったのか、シュンが遮るように言った。
「言いたくないんだね。ごめん。もう謝らなくて良いよ。俺は別に無理に訊きだそうとは思ってないから」
 少し意表をつかれ、美海は眼を瞠った。
「何か食べる?」
 美海は力ない笑みを浮かべた。
「本当に食欲がないの。何も食べられそうにない」
 シュンが形の良い眉をかすかに顰めた・
「ちょっとよく顔見せて」
 まじまじと見つめていたかと思うと、小首を傾げた。
「この間逢ったときよりも痩せてない?」
 美海は少し笑った。
「鋭いのね。確かに、ちょっとだけ痩せたの」
 七月最初の日曜、シュンと逢ってから二週間が経っている。その間に、美海は三キロ痩せた。
「駄目だよ。それでなくてもこの殺人的な暑さだもの、食べたくなくても食べなくちゃ。待ってて、今、雑炊でも作るから」