小説 夫と彼と私~その先に見えたものは~ 連載第5回
静かな時間が流れてゆく。
白いカモメが翼をひろげて天空を舞い、やがて入道雲に吸い込まれて見えなくなった。
「じゃあ、俺からも質問。さっき、子牛を構っていたミュウを見ていた時、俺が何を考えていたか判る?」
美海は首を傾げた。あの時、シュンはとても嬉しそうに子牛と美海を代わる代わる見つめていた。
「何だかとても嬉しそうだったけど」
「何で、嬉しかったかは想像がつくかな」
美海は怪訝な顔で首を振った。
「俺、ちょっと妄想してたんだ」
「妄想?」
「うん。ミュウがもし、もしもだよ、俺の奥さんになってくれて、子どもが生まれたら、あんな風に生まれた赤ん坊を可愛がるのかなと思った。あらぬ妄想してたら、自然に頬が緩んじゃって」
「どうして、私とシュンさんが結婚するということになるの?」
「ごめん、気を悪くした?」
「私はシュンさんより、うんと年上だもの。結婚なんて、あり得ない」
「そんなことないよ」
シュンの声が少し高くなった。
「今時、歳の差がある夫婦なんて珍しくないじゃないか。奥さんの方が十くらい年上でも、俺、全然気にしない」
「私たち、今日初めて逢ったばかりなのに」
美海がシュンと結婚できない本当の理由からはどうも話の論点がずれているような気がするけれど、こちらも美海には確かに理解できないことだ。
何故、初めて逢った日―いや、まだ逢いもしない中から、シュンが〝結婚〟という言葉を持ち出し、美海を彼女扱いしようとしたのか。これは美海の実年齢とかは関係ない話だ。
「ミュウじゃなくても、こんな強引な男は嫌われるよね」
シュンの言葉がどこか淋しげに聞こえる。美海は首を振った。
「そんなことはないわ。でもね、シュンさん。私はどうしても理解できないの。あなたのように若くてイケメンなら、付き合いたいって女の子はたくさんいるでしょ。なのに、どうしてわざわざ出会い系サイトの掲示板まで使って、しかもそこで出逢った年上の女を相手にするのか。今日、初めて逢ったばかりの私に結婚の話なんて持ち出すのか」
シュンは少しうつむき、考え込むそぶりを見せた。潮の香りを含んだ海風がシュンの少し長めの前髪を揺らして通り過ぎていった。
「何て言ったら良いんだろう。ミュウと俺が初めてチャットで出逢ったのは一ヶ月前だよね。あの時、俺、マジで落ち込んでたんだ。誤解のないように言っておくけど、白状すると、出会い系サイトなんて初めてだったんだ。あのときは無性に人恋しくて出会い系でも何でも良いから、とにかく誰かと話したかった。それで、思い切ってコメントアップしたら、君から返事が来たんだよ」
何という偶然だろう。あの夜は美海もまた一度も覗いたことのない出会い系サイトに辿り着いたのだ。そして、たまたま眼に付いたシュンのメッセージがあまりに淋しそうだったので、何か言ってあげたくて返信を返したのだった。
「あの時、運命を感じたなんて言ったら、また、君にドン引きされてしまいそうだけど。でも、俺は本気で思った。初めて利用したチャットで大勢の人のコメントから俺を見つけ出してくれたのも何かの縁じゃないかなと思って。それで、メールのやりとりしようって俺の方から誘って、色々と話している中に、俺はどんどん君に惹かれていった」
シュンは小さな息を吐き、切なげなまなざしで美海を見た。
「毎夜、君にメールして、返事が返ってくるのが愉しみになって、昼間に何があっても、多少イヤなことがあったとしても、またミュウと話ができると考えたら、心が強くなるような気がした。気がついたら、俺は夜が待ち遠しくて堪らなくなっていたんだ。君とこうして実際に逢う前から、俺は君を好きになってしまったんだよ、ミュウ」
君には傍迷惑な話だろうけどね。
シュンの呟きが潮風に乗り、海へと運ばれてゆく。
「私もあのとき―シュンさんとチャットで出逢ったときは、物凄く落ち込んでたの。色々とあって、自分がとことんまで落ち込んでたから、短いメッセージから伝わってくるあなたの気持ちがまるで自分のことのように思えたわ。ああいうサイトは名前のとおり、出会い目的で妙なことを書き込む人が多いのに、あなただけは違っていた。そこに惹かれたんだと思う」
「それなら!」
シュンの口調に俄に活気が戻った。
「俺と付き合ってくれる? これからはメールだけでなく、こうしてもっと頻繁に逢って、デートしようよ」
美海は、ゆるゆるとかぶりを振った。
「今し方も言ったはずよ。私とあなたでは―」
「歳なんか関係ないだろ!」
人が変わったような剣幕に、美海は息を呑む。
「十歳程度の違いなんて、今時、珍しくないって言ったじゃないか。それに、俺が良いって言ってるんだから」
シュンが近づいてきて、美海の腕を掴んだ。
「もう、これっきりだなんて言わせないからな」
美海が返事をしないことに、かなり苛立っているらしい。シュンの手に更に力がこもった。
「シュンさん、手を放して。痛いわ」
こんな時、年下だとかは関係ない。二十二歳の男の力は、美海の細腕一本くらいは容易くへし折ってしまいそうなほどである。
「―痛い」
あまりの痛みに、涙が滲んだ。
シュンがハッとしたように眼をまたたかせた。
「悪かった。ミュウ、ごめん。俺、何てことを―」
美海はシュンに掴まれていた手首をさすった。少し紅く跡が残っている。それほどの力だったのだ。
「本当にごめん。こんなに紅くなって。痛かっただろ」
シュンは狼狽え、しきりに謝った。
「気にしてないから」
美海が弱々しく微笑むと、シュンは少しだけ安堵の表情を滲ませる。
「お願いだ、もう逢わないだなんて言わないで」
縋るような表情と頼りなげな物言いは、あたかも幼児が母親に置いていかないでと必死に頼んでいるようでもある。
「判ったわ」
美海の返事を聞いて、漸く心から安心したらしい。シュンは満面の笑顔を浮かべた。
歳の割には老成しているように見えるけれど、喜怒哀楽をはっきりと表すところは、やはり、年相応だ。
「ねえ、結婚を前提に付き合ってくれないかな」
突然の科白に、美海は再び言葉を失う。この若者の言動には愕かされることばかりだ。
「本気なの?」
「もちろん。こんなことで嘘は言わないし、良い加減な気持ちでプロポーズなんて口にはできないよ」
美海は溜息をついた。
「今は熱くなってるから、そんな風に考えているだけよ。シュンさんはまだ若いんだもの。大学を卒業して、どこかに就職すれば、また世界が今までよりぐっとひろがるわ。社会に出れば、もっともっと色んな人との出逢いがあるし、素敵な女性とめぐり逢うこともあるでしょう。何もそんなに焦る必要はないのよ」
「焦ってなんかないよ。それは確かに、俺の言ってることは、おかしいのかもしれない。初対面の君に結婚しろだなんて迫ってるんだから」
「おかしいことか、そういう問題ではないの。あなたはまだ学生だから、ちゃんと大学を終えて社会に出てから結婚のことを考えても遅くはないって言いたいの。むしろ、一時の気の迷いで、私なんかにプロポーズしたら、後で後悔することになっちゃう」
「ミュウはどうして俺の気持ちを判ってくれないんだ? 俺は君のことをこんなに好きなのに。君に逢ったのは今日が初めてだったけど、俺はこの一ヶ月間、君とメールを通して話をする度に、どんどん君のことが好きになっていったし、実際に君に逢ってからは、もっともっと好きになった。今更、ここで諦めろと言われても、諦めきれない」
「―」
美海は困惑して、シュンから視線を逸らした。何という熱烈な告白だろう! 琢郎からプロポーズされたときも、こんなに一途に告白された記憶はなかった。
そして今、それを迷惑だと思う気持ちよりは、むしろ女らしい歓びの方が大きい。どうかしているのはシュンだけではない、自分もだ。
美海の沈黙をシュンは誤解したようだ。
「駄目なんだね」
彼は沈んだ声音で呟いた。
「ミュウの応えは何となく想像はついていたよ。メール交換してた時、君に子牛が生まれたときのことを話しただろう? 俺が嫁さんを貰って娘が生まれたら、嫁さんの名前をつけたいって話は憶えてる?」
美海が頷くのを見、シュンは淋しげに笑った。
「あのときもミュウは俺の話なんて聞かなかったようにさりげなく無視したし、今日だって子牛のミュウに君を彼女だって紹介したときも何も言わなかった。あれで十分、ミュウの気持ちは判った。俺だって、そこまで馬鹿じゃないし」
「無視したわけじゃないわ。あのときは、どう応えて良いのか判らなかったから、黙っていたの」
それは正直な気持ちだった。シュンより十七歳も年上で、おまけに家庭持ちの自分。そんな自分が若い男に口説かれたところで、何と反応すれば良いのだろう。
「ねえ、これだけは応えてくれない?」
シュンが切なげな口調で言った。
「俺のこと、ミュウは嫌い? これから先、俺には見込みは全然ないのかな」
美海は息を呑んだ。正直に応えれば、一つめの質問にはNO。むしろ、彼と同様、メールのやりとりをしている頃から、少しずつシュンに惹かれていた。こうして実際に対面してみてからは、彼の強引さと一途さに戸惑いながらも、強く求められていることに女としての歓びを感じている。好きか、嫌いかと問われれば、間違いなく好きと応えるだろう。
二つめの質問についてはYesとしか応えようがない。琢郎と離婚すれば、美海は自由になる。シュンと付き合うことも結婚すらも夢ではない。しかし、そんなことが現実にあり得るだろうか?
世の中には確かに歳の差カップルはたくさんいる。中には結婚して、順調な結婚生活を営む夫婦だって現実には大勢いるのだ。
だが、それは上手くいった場合の話である。今はまだ良いかもしれないけれど、シュンが三十の男盛りになった時、美海は既に四十七。けして若いとはいえず、女としての色香や魅力もそろそろ下り坂に差しかかっている頃だろう。
その時、果たしてシュンが後悔しないといえるだろうか? 先のことは誰にも判らないし、彼がそうなっても美海を女として必要とし、求めてくれているかもしれない。しかし、そこに確たる保証はないのである。
もしシュンが女としての美海に魅力を感じず気持ちも冷めてしまっていたら、今の琢郎との結婚生活以上に惨憺たるものになる。
そうなった末に、美海はまた一人ぼっちになる。その惨めさと孤独は想像を絶するものに違いない。
更に、美海側からだけでなく、シュンの立場になって考えてみたら、こんなオバさんを相手にして良いはずがない。彼にはまだまだ果てしない未来と前途がひろがっている。先刻も彼に告げたように、広い社会に出れば、職場で或いは様々な場所での出逢いがあるだろう。その中にはもっと若くて彼にふさわしい女性との出逢いも当然ながら含まれている。
若さゆえに、彼は性急になりすぎている。深くは考えず、今の情熱を本気の恋と勘違いして美海にプロポーズなんてしているのだ。
ここで、自分の立場をはっきりとさせ、彼とは二度と逢わないつもりだと告げるべきなのは判っていた。
美海が口を開こうとしたまさにそのときである。シュンが微笑みながら言った。
「本当の意味で君と初めて出逢った夜―、俺がチャットの掲示板に書き込みをした日の夕方、牛が一匹、死んだんだ。その牛はハナっていうんだけど、数日前からずっと具合が悪くってね。獣医の先生にも度々来て貰って、ここ二、三日が山だって言われた。俺があそこでバイトするようになって初めて任された牛だったし、ミュウとアイの親子と同じくらい大切にして可愛がっていたのに、俺はハナの最期を看取ってやれなかった」
その日の昼には、ハナはまだ元気だった。一時は落ちていた食欲も回復していたし、この分では持ち直したのだろうとシュンは判断したのだ。
しかし、それは彼の見込み違いだった。最後にハナの健康状態をチェックして大丈夫だと判断した彼は、牛舎を離れた。それから三時間後、様子を見にきた際、ハナは既に冷たくなっていた―。
「後で獣医師から聞いたら、ハナは軽い肺炎を起こしていたそうだよ。俺は全然、気づきもしなかった。俺が気づいてやっていれば、ハナは死ぬこともなかったかもしれないのに」
涙声に、美海はハッと顔を上げた。
「それで、あの夜はとことんまで落ち込んでたんだ。そんな時、ミュウが俺の叫びに気づいてくれた。だからかな、ミュウのことがどうしても忘れられないのは」
シュンが首を振った。
「ああ、こんな情けないところを見せたら、余計に嫌われちまいそうだ。そうじゃなくても、ミュウには頼りないと思われているだろうに」
「そんなことないよ。誰だって、そういうときってあるじゃない? 辛くて堪らないときって。でも、皆、歯を食いしばって生きてゆくのよね。だから、シュンさんも今は泣きたいだけ泣けば良い。思いきり泣いて、すべての涙を流し尽くしてしまったら、立ち上がって歩き出せば良いのよ」
美海はごく自然に手を伸ばし、シュンの頭を引き寄せた。シュンが美海の胸に顔を埋(うず) める。母親が泣いてむずかる子をあやすように、背中をそっと撫でた。
「ミュウの胸って、あったかいな。それに柔らかくて良い匂いがする」
シュンは美海の胸に頬を押しつけて、甘えるように匂いを嗅いだ。
そろそろ傾き始めた夏の太陽が地平線の向こうに沈んでゆこうとしている。昼間はセルリアンブルーに輝いていた海は今、空と同じオレンジ色に染まっていた。
まだ昼の暑熱を十分に残した砂は温かい。海から吹いてくる潮気の強い風が砂浜の向日葵畑をかすかに揺らしていた。
寄り添い合う二人の姿が長いシルエットとなって影絵のように砂に伸びている。美海には、どうしてもこのひたむきな若者を突き放すことはできなかった。