小説 夫と彼と私~その先に見えたものは~ 連載第2回 


さあ、これからがいよいよ勝負だ。自室から一旦廊下へ出て夫婦の寝室へと続くドアを開けると、琢郎は既にダブルベッドに入り、こちらに背を向けていた。
 何もかもを―美海までをも拒絶しているあの背中を見ただけで、折角かき集めた勇気も萎みそうになる。
「―あなた、起きてる?」
 声をかけるのには更に勇気を要した。
「ねえ、琢郎さん―」
 言いかけた時、琢郎のくぐもった声が聞こえてきた。
「何だ」
 いかにも興味のなさそうな声に、心がはや折れそうになる。美海は琢郎の側に近づき、その肩に軽く手をのせた。
「今夜はどう?」
「今夜? 一体、何を言ってるんだ」
 琢郎の声がいっそう不機嫌になった。


小説の部屋 愛美夏(Emika)のブログ~官能小説? 始めます!~



「だから―」
 夫婦二人きりの寝室である。この科白だけで美海の言わんとしているところは十分すぎるほど伝わると思うのだが、琢郎は本当に気づいていないのか、フリをしているだけなのか、一向に乗ってこない。
 美海の中で惨めさだけがいや増していく。
「久しぶりに、どうかなあと思って」
 それが美海の口にできる限界であった。
 ストレートに〝しない?〟と口にできるほどの勇気も大胆さもおよそ持ち合わせてはいない。良くも悪くも、それが自分という人間なのだ。
「ねえ、琢ちゃん」
 交際期間、美海は夫を〝琢ちゃん〟とふざけて呼ぶことがあった。それは大抵、二人が良い雰囲気のときに限っており、琢郎は美海からそう呼ばれると、すごぶる機嫌が良くなったものだ。
 しかし―。今夜はどうやら、美海のとんだ見当違いだったようである。というより、既に琢郎という男そのものが変わってしまったのかもしれない。美海がこの十一年の結婚生活で変わってしまったように。
 琢郎の肩に手を乗せたまま、夫の背中に頬を預けようとしたまさにその寸前だった。
「止さないか!」
 氷の欠片を含んだような冷え切った声音が美海の心を切り裂いた。
 琢郎がガバと身を起こし、美海を見据えた。
「一体、今夜に限って、どうしたっていうんだ? 安っぽい下品な匂いをプンプンさせて、水商売の女のような格好をして」
 美海を見つめるその瞳もまた、真冬の海のように冷たかった。心なしか、その奥底にはかすかな蔑みすら込められているようで。
 ああ、私たちはもうこれでおしまいなのだ。
 美海の心に絶望がひたひたと押し寄せてくる。
 どうして、もっと早くに夫との関係を修復しようとしなかったのだろう。今日、明日とじりじりと先延ばしにしている間に、自分たち夫婦の関係はとうとう修復不可能なところまで来てしまっていたのだ。
「何だ、俺に抱いて貰いたいのなら、はっきり言えよ。第一、お前にはそんな格好は似合わないぞ」
 その科白は美海をどん底に突き落とした。
「酷いわ。そんな言い方はないでしょう」
「つべこべ言ってないで、来るなら来いよ。ほら」
 ふいに強く腕を引かれ、美海は危うく、よろめき転びそうになった。
「急に危ないじゃない」
「いちいち文句を言わなきゃき気が済まないのか? 全く、口うるさいのはいつまで経っても変わらないな。さっさとしてくれないか、俺は疲れてるんだ。お前がしたいなら付き合ってやるから、さっさと事を済ませて眠らせてくれ」
 ここまで言われては、美海のなけなしの自尊心も流石に保ちそうになかった。
 美海は涙を堪えて言った。
「私は別に、あなたに抱いて貰わなくても結構よ。別に子どもが今更、欲しくなったわけでもないし」
「子ども? 俺はもうその話は聞きたくないと言ったはずだぞ? また持ち出すのか」
 琢郎の眉がつり上がる。大学時代はそこそこのイケメンであったのに、三十代に入ってからは額が後退して、今ではかなり禿げ上がってしまっている。そのせいで、折角の整った容貌よりも額の広さだけが目立ち、実年齢よりもかなり老けて見えた。
「あら、そう? 私が言いたいのは子どもそのもののことじゃなくて、子どもでも望まなければ、あなたとはセックスする気にもなれないってことなんだけど?」
「それは、どういう意味だ?」
 琢郎の眉間の皺が深くなる。
 言ってはならない。これ以上、言うべきではないともう一人の自分がしきりに囁きかけていた。恐らく、これから美海が口にしようとしている科白は、男が最も嫌う科白―言われたくないものに違いないだろうから。
 しかし、この期に及んでは、美海も止まれるはずはなかった。そう、もうずっと自分は我慢していた。いつも琢郎の顔色ばかり見て、怒らせてはいけないと思って。
「私がしたいから、付き合ってやるですって? よくもそんな思い上がった科白が言えるものね。あなたとやることが、そんなにありがたがるほど良いものだと、あなた、本気で思っているの? ただ突っ込んで出して、それで終わり。感じるも何もあったものじゃない。自分だけ終われば、はい、今夜はおしまい。そんなので女が満足できると思う?」
「お前―」
 琢郎の握りしめた拳が戦慄(わなな)いている。
「俺が下手くそだ、女をろくに感じさせられもしない男だと、お前はそう言うのか?」
「私だって、ここまで言うつもりはなかったわ。でも、あんまりでしょ。不妊治療していたときだって、あなたはいつもこうだった。お医者さまから教えて貰った排卵日だから、私が誘ったのは判っているのに、お前は好き者だ、やりたがりの淫乱女だとか、色々と酷いことを言ったじゃない? でもね、琢郎さん。今だから言うけど、あなたとのセックスは、そんなにふるいつきくなるほど良いものじゃなかったのよ」
「くそう、言わせておけば言いたい放題、言いやがって」
 琢郎がふいに美海に飛びかかった。
 悲鳴を上げるまもなく、美海は広い寝台に押し倒されていた。
「何をするの!」
 美海が叫ぶと、琢郎が真上から彼女を押さえつけたままの体勢で喚いた。
「そんなに感じられないというのなら、今夜は徹底的に感じさせてやる」
「―止めて。こんな気持ちのまま、気持ちよくなんてなれるはずもないし、あなただって、同じでしょう」
「お前は俺を男として能なしだと言ったんだぞ?」
「誰もそんなことを言ったわけでは―」
 皆まで言えなかった。いきなり噛みつくようなキスをされたからだ。荒々しく唇を塞がれ、美海はもがいた。
 高価なネグリジェが乱暴に引き裂かれた。
「これでも感じないというのか? え?」
 琢郎の指が露わになった美海の乳房を巧みに揉みしだく。まだ出産も授乳の経験もない美海の胸は形もさほど崩れてはいなかった。固く尖った先端も薄いピンク色だ。
 円を描くように乳輪をなぞられ、美海のしなやかな身体が一瞬、ビクンと撥ねた。ネグリジェの裾が捲られ、両脚を目一杯に開かされる。琢郎は美海のほどよい大きさの乳房を揉みしだきながら、両脚の狭間に指を差し入れた。乳房と下を同時に攻められては堪ったものではない。
 しかも、その夜に限って、琢郎はこれまで見せたこともないほど熱心で巧みだった。乳房を揉まれている間も、彼の指は数本に増やされ、果てのない抽送を繰り返す。
 美海の中で何か言葉にはできないものがうごめき始め、爆発しようとしていた。
「あぁっ」
 ひときわ感じやすい場所を指でこすられ、美海の身体がびくびくと震えた。
「琢郎さん、お願い」
 美海は潤んだ瞳で夫を見上げた。
「どうした、もう早々と根を上げて、おねだりか?」
 琢郎がしてやっりと言いたげな笑みを浮かべた。
「違う―の。これ以上は止めて欲しいの。さもなければ、私―」
 気が狂ってしまいそう。そう言いかけた美海はひときわ高い嬌声を放った。
「うっ、ああ―」
 琢郎が美海の乳首を吸いながら、骨太の指で美海の感じやすい内壁に狙いを定めてこすり上げ、更に最奥を突いたからだ。
 それは、美海がこれまで感じたことのないほどのめくるめく快感であった。まるで焔に身体全体を炙られ、灼き尽くされているような感じだ。苦しさは限界に達しているというのに、同時に同じだけの快さも感じていて、これ以上の快感を与えられ続けたら、死んでしまうとさえ思えるほどだった。
「ああ、あ」
 限界まで高みに押し上げられたかと思うと、いきなり急降下する―そんな感覚に近かった。美海は突如として訪れた絶頂に四肢を痙攣させながら耐えた。
 ぐったりとなった美海は、あまりに感じすぎてしまい、しばらくは動けなかった。そんな美海の腰を琢郎は下から抱え上げた。
「さあ、これが欲しかったんだろ、たっぷりと味わえよ」
「―!!」
 美海は悲鳴すら上げることができず、眼を大きく見開いた。琢郎との結婚生活は十一年に及んだが、大体、夫とのセックスはそれほど回数は多くはなく、ましてや、こんなに感じたのも初めてだったのだ。
 あまりにも烈しい行為にも快感にも、美海の身体は慣れてはいなかった。それが烈しい絶頂を迎えたばかりの身体をいきなり、いきり立ったもので刺し貫かれたのだから、堪ったものではなかった。まだ快感の余韻に震え痙攣を続けるいじらしい内壁を剛直で貫かれ、美海は悲鳴を上げて、のけぞった。
 こうなると、気持ち良いのを通り越して、悦がり狂うしかない。快楽地獄がこれ以上続けば、それこそ本当に冗談ではなく、おかしくなりそうだ。
 眼の前が真っ白になって気が遠くなりかけた瞬間、美海の奥深くに侵入した琢郎もぶるっと身体を震わせる。熱い飛沫が最奥で滴るのにすら、美海は気持ち良くて喘いだ。
 琢郎は精を出し切ると、漸く気が済んだというように美海の中から出ていった。
 漸く辛い責め苦から解放されるとホッとした矢先、琢郎が再び美海の身体に手を伸ばしてくる。
 美海は悲鳴のような声を上げた。
「これ以上はもういや」
 が、琢郎は頓着せず、美海を寝台に押し倒し、すんなりした両脚を力任せにひろげる。
「琢郎さん、痛い―」
 これ以上は開かないところまで押し広げられ、股が裂けるのではないかと思った。
 痛みにじんわりと涙が滲んでも、琢郎は容赦なかった。今の夫の頭には美海の身体を奪うことしかないようだ。
 それから二時間に渡って、琢郎は美海を幾度も抱いた。美海がどれだけ訴えても―最後には泣きながら止めてと頼んでも、琢郎は何ものかに憑かれたように美海を犯し続けた。
「どうだ? これでもまだ、俺を能なしだと言うのか?」
 琢郎の満足しきったような表情が酷く醜く歪んで見える。
 美海は何も言わなかった。言えるような状態ではなかったからだ。しばらく火照る身体をベッドに横たえながら、ほんやりと天井を見上げていた。
 私は何をこの男(ひと)に期待していたというのだろう?
 一時間ほどもそうしていただろうか。
 美海はのろのろと身を起こし、ベッドから降りた。まるで自分が身体ごと灰になって燃え尽きてしまったかのような無力感と脱力感があった。
 確かに琢郎の言うとおり、これまでになく感じた。絶頂というものも生まれて初めて味わった。よく女性雑誌の特集などで、〝女が感じる〟という表現を眼にするけれど、それが一体、どういうものか、実際に女体がどんな状態になるのか。
 美海はこの歳まで知り得なかったのだ。
 けれど、身体は死ぬほどまでの快感を味わったというのに、心は少しも満たされてはいなかった。むしろ、いつもの味気ないセックスの後よりも、更に酷かった。
 背後では既に琢郎が気持ちよさそうな寝息を立てている。一人で満足して、女を思いきり悦がらせたと思い込んでいる男。男の思い上がりとエゴがその態度にも如実に表れていた。
 美海は緩慢な足取りで寝室を横切り、廊下に出た。向かいのバスルームに入ると、シャワーの湯温を高めにして熱い湯を頭から浴びた。今夜の営みは確かに今までになく情熱的であったかもしれない。だが、互いにいたわり合う気持ちも優しさの欠片もなく、ただ獣のように荒々しく交わっただけにすぎなかった。
 琢郎は、あんな行為で満足できたのだろうか。美海はただ自分がレイプされたように、身体だけを烈しく奪われたような気がしてならない。
 涙がじんわりと滲んできて、美海は慌ててシャワーのノズルを顔に近づけた。熱い湯が今は涙を流してくれるのがありがたかった。
 もう、私たちは本当におしまいなのだろうか。
 今夜、何度も脳裏をよぎった哀しい予感が美海の心を凍らせた。