小説 夫と彼と私~その先に見えたものは~ 連載第一回



♭眠れぬ夜♭

 美海(みう)は小さく溜息を零し、鏡の中の自分を見つめた。三十九歳、子どもなし。家族は夫の琢郎だけ、現在は夫婦二人でN市内のマンションに住んでいる。夫は広告代理店に勤める営業マンで、美海とは大学時代のサークルで知り合った。
 友達の紹介があったとはいえ、一応、恋愛結婚だ。琢郎は美海より二つ年上の四十一歳である。それなりに楽しかった交際期間を経て結婚した二人は最初の方こそ周囲から羨ましがられるほどの熱々ぶりであったが、蜜月は長くは続かなかった。
 別に大きな喧嘩をしたわけではない。なのに、二人だけでいることにいつしか慣れすぎてしまった―というのが最大の原因かもしれない。情熱だけで結婚はできるが、それだけで結婚生活を維持するのは難しいとはよく言われる科白だ。
 自分たちも、まさにそのとおりだったと美海は思わずにはいられない。しかし、二人の溝を決定的に深めたのは、やはり〝あの出来事〟だろう。
 結婚後、美海はすぐに子どもを欲しがった。琢郎と結婚して家庭に入るまでは、美海も市内では名の知れたデパートに販売員として勤務していた。二人が結婚したのは琢郎が三十歳、美海が二十八歳のときである。二十八という年齢はけして若いとはいえない。三十を目前にして、美海にもある種の焦りがあったのかもしれない。
 裏腹に、琢郎は子どもを持つことに対してはあまり積極的とはいえなかった。
―まずは二人だけの生活を楽しんでから、考えれば良いさ。
 と、至って呑気に構えていた。
 しかし、美海にしてみれば納得のゆかない話である。大学時代の女友達も次々に結婚、出産をしてゆく中で、自分だけが取り残されていくのは耐えられなかった。
 渋る琢郎を何とか説得して子作りを始めたのが結婚後二年目の話だ。だが、美海はいつまで経っても、妊娠しなかった。三年目が過ぎ、やがて数年が過ぎた。それでも、二人は子どもに恵まれなかった。
 七年目の結婚記念日を迎える直前に、美海は琢郎を引っ張って病院へ行った。そこは総合病院で、不妊専門外来を設けている。体外受精に関しても多くの成功例を持っていた。
 夫婦でひととおりの検査は受けたものの、二人ともに、これといった原因らしいものは見当たらなかった。
―矢坂さんご夫婦のように、これといって特に原因がないのに、赤ちゃんに恵まれない方も現実としてかなりの数になるんですよ。
 中年の医師は少し気の毒げに告げた。
 特に原因もないしということで、二人はマンションからも近い小さなクリニックを紹介された。総合病院は通うにはかなり大変なので、結果的には助かった。
 不妊の原因がない夫婦が最初に行うのがタイミング法。これは女性のほうの排卵日を予め予測し、それに合わせて夫婦生活を営むように指導がなされる。卵胞の大きさが変化してゆくので、それを定期的に超音波で測定し、いよいよ排卵が近いと判断したら、何月何日にと医師から言い渡される。
 琢郎は元々、セックスに関してはあまり積極的ではなかったが、殊にこのタイミング法は嫌がった。確かに、美海だって気は進まなかった。まるで義務のように、ありきたりのセックスをするだけで、事が済めば終わりというのは、あまりに空しかった。
 まるで自分たちが繁殖用の動物になってしまったようで、夫婦間で共有する性の歓びだとかいったものは微塵もない。
 もっとも、美海が性的には奥手ということもあってか、琢郎は夫婦でのセックスに対しては熱心ではなく、さしたる関心を持っているようには見えなかった。不妊治療を始める前から、時折おざなりにするだけで、美海は性の歓びなどおよそ感じたことはない。
 また美海自身も夫婦とは穏やかな愛情で結ばれていれば良いのだから、無理に気の進まない夜の営みをする必要はないのだと思っていた。
 しかし、これをやり遂げられなかったら、赤ちゃんには恵まれないというのなら、幾ら味気ないとしてもやるしかなかった。
 恐らく、琢郎も同じ気持ちだったろう。
 そんなある日、琢郎がぽつりと言った。
―なあ、もう不妊治療は止めないか? 子どもがいなくたって、別に構わないじゃないか。二人だけでずっと暮らせば良い。
 あの時、美海ももう少し冷静になるべきだったのかもしれない。けれど、どうしても感情を抑えきれなかった。
―どうして、そんなことを言うの? 私は子どもが欲しいのよ? 皐月(さつき)だって、宏美だって、もうちゃんと子どもを産んで、お母さんしてるのに、私一人だけが置いてきぼり。そんなのもう、耐えられない!
 大学時代の女友達の名前をあげ、激情のままに夫に想いのたけをぶちまけた。
 それが、まずかったのだろうか。琢郎の浮気が発覚したのは、それからふた月も経たないときのことだった。
 しかも、琢郎の子どもを妊娠したという女の科白つきで、だ。
 結局、この女の言い分は全くのデタラメだと判った。相手は琢郎と同じ会社に勤務する二十六歳の女だった。
―参ったな。たった一度、ベッドを共にしたくらいで子どもまでできるか、普通?
 琢郎の留守中に女が直接、美海に電話をかけて宣戦布告してきたことが事件の発端となった。
 とはいえ、琢郎は美海に知られても、いっかな悪びれる風はなかったし、子どもができたと聞いて、むしろ嬉しげに見えたのは美海の僻みだったろうか。
―たったの一度ですって?
 どうして、たったの一度だなんて軽く言えるのか? 美海には到底理解できない話であった。一度であろうが、二度であろうが、浮気は浮気なのだ。
 琢郎は女の科白を信じて疑ってはいなかっようだが、意外な形で嘘が露見することになる。女には三年も付き合った恋人がいたのだ。その恋人が急に別の女性に乗り換えようとしたので、一計を案じ、琢郎を利用したのである。つまり、琢郎は都合良く当て馬にされただけだった。
 女の恋人が激怒して会社まで乗り込んできて、琢郎は公衆の面前で殴られた。女は会社を退職せざるを得なくなったが、恋人とはよりを戻したという。子どももできたということで、すぐに入籍も済ませたと聞いた。
 一方、琢郎は女に利用されただけだと解り、もちろんクビになることはなかった。しかし、若い女にまんまと都合良く利用され、棄てられた―と社内の笑いものになったことは言うまでもない。
 その出来事が琢郎と美海の間に、決定的な亀裂を作った。琢郎は琢郎で会社に行っても、これまでのようにはいかず、苛立つ。美海は美海で夫の不実さがどうしても許せない。
 そうこうしている中に、夫婦の溝はまたたくまに深くなっていく。気がつけば、二人の仲は冷え切り、どうしようもないところまできてしまっていた。
 女に子どもができたと知った時、琢郎は満更でもないようだった。もしかしたら、美海との間だから、子どもを望まないのか?
 そんな風に悪い方へとばかり思考がいってしまった。当然、夫婦の営みもご無沙汰になってくる。どちらからも歩み寄れないままに日はいたずらに過ぎてゆき、形だけの仮面夫婦となってはや二年になろうとしていた。
 美海は長い物想いから自分を解き放ち、もうこれで幾度めになるか判らない溜息をついた。小さくかぶりを振り、ドレッサーのいちばん上の引き出しを開ける。手のひらに乗るほどの小瓶の蓋を開けると、少しだけ掌(たなごころ)に垂らした。
 〝男ごころを甘くくすぐる魅惑の香り、禁断の蜜の味〟。この香水は通販で買ったもので、カタログの商品説明にはそう記されていた。よくあるセックスのためのグッズがずらりと並んでいるページだ。
 これまで美海はそんなページなど開いてみたこともなかったのだけれど、流石にこのままではまずいと思い始め、思い切って購入してみたのだった。
 小瓶は悩ましげな女の肢体を象っており、いかにもその類のものらしい卑猥さと安っぽさを漂わせている。こんなものにまで頼らなければ夫の気を引けないのかと思えば、女として情けなくもあり、やり切れなくもあった。
 子どもないままに、自分はこうして空しく時を重ね、やがては老いて死ぬのを待つばかりなのだ。そう思うと、居ても立ってもおられず、叫び出したいような衝動に駆られることがある。
 それなら、いっそのこと外に出て男友達を作るとかすれば良いのかもしれないが、会社を辞めてはや十一年、既に社会から隔絶された主婦となって久しい自分に今更、行く当てもそんなチャンスもあるとは思えない。
 美海は想いを振り切るように勢いよく首を振り、手のひらに垂らした香水をうなじと胸の辺りにつけた。いつもは通気性の良い木綿のパジャマしか着ないのに、今夜のためにシルクのネグリジェを奮発して買った。以前、勤務していたデパートの高級ランジェリーショップで買ったこれは、何と一万円弱もした。はっきり言って、美海の普段着の上下合わせたよりも高い。
 琢郎は下品なのと露骨なのは好まない。それは若いときから変わらない好みだ。このネグリジェはうっすらと透けている程度で、いわゆる男性を誘うためのスケスケのものではない。色もデザインも淡いピンクで全体的に清楚で上品な印象である。
 淡い明かりを点しただけの寝室では、ネグリジェの光沢ある生地を通して、美海の身体の線がくっきりと際立って見えるはずだ。琢郎にはあからさまな媚態を見せるよりは、そうやって控えめにアプローチする方がより効果的に違いない。
 ここまで考えて、更に美海は憂鬱になった。これでは、まるで商売女が客をいかにすれば虜にできるかと手練手管を弄しているようではないか。何もこの世で琢郎だけが男というわけでもないのだし、何で妻であるというだけで、自分が夫の気を引くために娼婦のような真似をしなければならない?
 それでも、何かをしなければ、自分たちはもう本当に駄目になってしまう。それは美海にも判っていた。この歳になって、離婚するだなんて、考えただけでもゾッとする。それは恐らく、琢郎を愛しているとかいう気持ち以上に、今の安定した日々を失いたくないという気持ちが強かったからだ。
 琢郎の妻となって十一年、美海はもうすっかり、一人の女としてよりは〝矢坂琢郎の妻〟という立場に慣れきっていた。何のときめも希望もない代わりに、不安も哀しみもない生活。今更、一人に戻ったところで、アラフォーのしかも特に美人でもなくスタイルも良いわけでもない自分に新しい出逢いが転がり込むとも思えなかった。
 つまり、今の安定した暮らしを失いたくない、その一心がこうした姑息な―何が何でも夫をその気にさせようという気持ちに美海を駆り立てているのだともいえる。
 もしかしたら、夫婦間の意思疎通を図る手段は他にもあるのかもしれなかったけれど、今となっては、美海にはこれくらいしか思いつく手段がなかった。
 美海はまた小さな息を吐き、ドレッサーの上についた付属の小さな明かりを消した。シルクのネグリジェの胸許を無意識の中に直し、立ち上がる。