*顔を上げる ➁
だから、どこかいつも仕事は他人事で、いつも『いつか』を眺めて上の空だった。
けれど少しずつ、今と未来の両立ができるようになってきた。
やりたいことはやりたいことでやる。
だけれど、今の仕事でも、できることはやる。
完璧にしなければ、という強迫観念やプレッシャーはない。
でも、サボるのとは違う。
その時、自分へ降ってきている役目を、自分の出来る範囲で全うする。
そういうことが、ごく自然にできるようになってきた。
ミスをしても、その時はそういう役まわりだったのだと感じるようになった。
反省や、お詫びや感謝や、次にミスしないように対策はするが、引きずって落ち込むことは殆どなくなった。
最初はミスや注意が怖くて1から10まで聞いていたことも、段々と、些細なことなら自分で考えて、注意されたら謝ろう、と思えるようになった。
基本的なルールに則ってはいるが、自分で考えて実行することは、やりがいと自信を与えてくれる。
完全ではないにしろ、自分で自分をがんじがらめにしていたところから、少しずつ自由になっていく。
手足が自由に動くようになり、流れに乗るのも上手くなった。
もちろん、悩んだり、ズドンと落ち込んで周りを巻き込むこともあったけれど、その強い感情が原動力になって、しばらく描いていなかった絵を描き始めたり、以前はよくやっていた趣味の編み物を再開したりした。
絵や編み物を道にすることも考えたけれど、やはり自然と、私は筆を執るところに帰ってきた。
「いつか、なにかしよう」の「なにか」は、明確に『書くこと』になっていく。
「では、何を書こうか?」
ここ数年は、いつもそこで迷っていた。
何かの折に、猛烈に書き始めては、すぐに書くことが枯渇して熱が冷める。
その繰り返しだった。
書きたい気持ちはあるのに、何を書けばいいのかが分からない。
表面的に「これを書こう」と決めても、それに対するアイデアや言葉がすぐに浮かばなくなってしまう。
だがこの時は、自然と、過去のことを書こうと思った。
過去とはもちろん、ひきこもり時代のことだ。
それまでも、当時の心境やちょっとした出来事は書いてきたのだが、具体的に詳細に語ったことはなかった。
そういう細部までもを、人に晒し出す覚悟ができていなかったのだと思う。
だから、過去の荒れ狂った自分の事よりも、今、人並みに生きている、幸せを感じている自分の話ばかりを語っていたように思う。
不幸から抜け出す方法を書いてもいた。
だけれど『指導者』のような立場で書くのは、むいていないとずっと感じていた。
教えるようなスタンスで書いていると、自分はこんな立派なことを言える人間なのだろうかと、胸がムズムズしてくる。
別に嘘を書いているわけではないのに、後ろめたいような気持になる。
それでも、誰かの助けになるかもと思って書いていたけれど、やはり続かない。
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