子どもにとって一番いいのは

どういう状態だろう。

 

 

ミヒャエル・エンデの世界観では

 

自由な時間がたっぷりあって

 

そのなかで、仲間と空想の翼を広げて

思い切り遊ぶこと。

 

 

わたしはそんなふうに解釈した。

ひとつの真理だと思う。

 

 

ただ、今の世の中でそれをやり抜くのは

相当な勇気と覚悟がいる。

 

 

 

それはこの5年間のわたしの葛藤と

大きく関係がある。

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

 

(13章 むこうでは一日、ここでは一年)

モモが時間の国に行っている一年の間に
世の中は様変わりした。


モモの一番の仲良しも巻き込まれた。



時間と引き換えに得た富と名声に

追いつめられていくジジ。



仕事への誇りを失い

壊れていくベッポ。



子どもたちの自由な時間も奪われた。


親が仕事に行っている間
面倒を見る人のいない子どもは

〈子どもの家〉に集められた。


そこでは

自分で遊びを工夫することは許されず
将来のために役立つことをさせられる。


子どもたちは
楽しいと思うこと、
夢中になること、
夢見ることを忘れていく。


やれと言われたことを渋々やる。

かといって
自由にしていいと言われると、
何をしたらいいか全然分からない。


唯一できるのは、さわぐこと。
腹立ちまぎれに、とげとげしく騒ぐ。



ーーーーーーーーーーー


この、〈子どもの家〉は
学校を彷彿とさせる。


「教育」という大義名分のもと
それがもっと過熱して

現在あるもので一番近いのは

「塾」や「習い事」だと感じた。



このシーンを読んで

ミヒャエル・エンデに
自分のことを指さされているような気がした。



ーーーーーーーーーーー

わたしは英語教室の仕事をする中で

子どもたちの「習い事」に
加担することになった。


そこには学校とは別の葛藤があった。




① 子どもの時間を奪っている罪悪感


親と本人が望んで習っているとはいえ

子どもたちは、習い事がある時間に

他にしたいことを我慢してくる日もある。


子ども自身に何の悪気がなくても

イヤイヤ来たことがばればれのふてくされ顔で

「帰りたい」
「めんどくさい」

という言葉を聞くと

「なんだかごめんね」という気持ちになる。




② お金と約束と意味


学校教育とは別に
親が払うお金を受け取っている以上

「将来役に立つとされるもの」
「ちゃんと意味のあること」を

確実に身につけさせる必要があるのではないか、
という気負いがあった。



多くの場合、大人の言う
「意味のある勉強」は

子どもの世界における
「楽しいこと」と矛盾する。


子どもがどんなに教室での時間を楽しんでいても
その背後に

灰色の男たちに毒された時間節約家の
「待てない大人」がいれば


その子は教室を去ることになり
わたしたちは別れを余儀なくされる。


目に見える形で成績が上がらないと

意味のないこと、として
断罪される。


わたしなりに頑張った仕事が
そういう扱いを受けると
なんだか傷つく。


「子どもの願いはさておき
やっぱり目に見える成果を
追いかけたほうがいいのかな」


「勉強メインの時間のほうが
価値があるのかな」


「みんながそれを求めてるなら
自分のしたいことと違っても
そうした方がいいのかな」


と、魔が差すときもある。


今の自分なら
「灰色に毒された大人の考えなんて
耳を傾けるに値しない」


強い心でそう思えるけど

渦中にいると揺れてしまう。




③ お膳立ての弊害

わたしがレッスンを用意することで
子どもたちから何かが生まれるチャンスを
摘み取っているのではないか、

という懸念はいつもあった。


楽しくて夢中になれる時間にしたい、
と願うあまり


新しいこと
心惹かれること
刺激的なことを

いつも用意したくなる。



そんなわたしの過剰なサービス精神が

「なにか楽しいことをさせてもらえる」
「口開けて待っていればいい」って

受け身の消費者、
お客様のような状態に

子どもたちを居つかせることになってはいないか。


もっと余白をとって
子どもたちから何かが生まれるのを
待った方がいいのではないか。



ーーーーーーーーーーー

もしも

塾も習い事もなかったら

 

子どもたちは

手にした時間をどう過ごすだろう。

 

 

「どうせYoutubeや

しょーもないゲームに消えていく」


 

子どもの放課後を習い事で埋め尽くす

臆病な大人は

そう考えるかもしれない。

 

 

子どもが家で一人ぼっちだったら

そうなる可能性もある。

 

 

だけどそこに

一緒に過ごす誰かがいれば。

 

友達でもきょうだいでも

早めに仕事を切り上げた大人でもいい。

 

 

そう、それこそ

モモみたいに

 

 

時間がたっぷりあって

話をちゃんと聴くことができて

 

今を大切に過ごせる誰かがいれば

 

「将来役立つ何か」なんて

してる暇もないほど

 

豊かな時間が生まれるかもしれない。

 

 

わたしたちは

みんなそろって忙しくするのを

辞めたらいいのかもしれない。