ミヒャエル・エンデの「モモ」を読んだ。



これが50年前の作品であることに驚く。



人間が忙しくなって

人間らしさを失っていく仕組みが

克明に描かれている。



身に覚えがありすぎる。





今の世の中は、

この話に出てくる地獄みたいな文明社会が

さらに悪化したバージョンだと感じた。





「時間とは、
生きるということ、
そのものなのです。



そして人のいのちは
心をすみかとしているのです。」




今の社会に生きていると
そのことを忘れてしまう。



この本はファンタジーのようで
残酷なほどリアルな現実を描いている。

なぜならわたしには
心当たりがありすぎた。


仕事とお金と時間、
自分の大切な「今」のこと


毎日に押し流されて
忘れてしまう人間らしさのこと



「モモ」に感じた
自分の心当たりの記録と


引っ越し前に
ここで暮らした5年間の壮大な振り返りを
しておこうと思う。



以下ネタバレあり





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(6章 インチキで人をまるめこむ計算、の話)


この物語の中で
「お金」という言葉はあまり出てこない。


わたしたちの考える「お金」のようなものとして
かわりに多く登場するのが

「時間」だ。




床屋のフージー氏は
自分の仕事をまあまあ楽しんでいたし好きだった。


しかし
「自分にはもっと別のいい人生があったかもしれない」

という考えがよぎったある日


突然現れた灰色の男に言いくるめられて

時間を節約するようになってしまった。


彼は効率の良い暮らし
今でいう「タイパのいい」生活を始めた。


好きな人に会いに行くのもやめ
飼っていたインコを売り払い

介護が必要な母親を安い養老院に入れ
一日の終わりに窓辺でぼんやりするのをやめ

仕事中もお客さんとのおしゃべりをやめ
ぶすっとして爆速で終わらせる。


その結果、フージー氏は
おこりっぽくて不愉快な人に変わってしまう。


節約したはずの時間は
跡形もなく消えてしまう。


その時間は、持ち主から切り離されて
死んでしまった。


灰色の男たちが盗んでいったのは
そういう時間のことだ。


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ここからはわたしの話。



5年前

新しい町に引っ越してきた。


それまでは、地元の公務員として
毎月たくさんの仕事をして
たくさんのお金をもらっていた。


それを辞めて、次のことがしたくて
一年間カナダで暮らしたあと


日本に帰国して、
新しい仕事を始めるために


わたしのことを誰も知らない町で
暮らし始めた。



その頃のわたしには



新しい何かが始まる予感と
ありあまるほどの時間



それ以外はなんにもなかった。



役所で転入届を出して
初めて行く安いスーパー

聞きなれない名前のショッピングモール
近所の図書館

ひととおりの生活圏を
自転車で散策して


ほとんどの時間をひとりで過ごし


ほんの少しだけ
新しい仕事に行く日々。




人生のうちにこんなに余白がある毎日なんて

そうそうあるもんじゃないんだから


平日の真昼に映画を見に行ったり


一週間も台湾に行って
安い一人旅を楽しんだりもした。




それがひと月ほどして

ある日の夜に気づいてしまった。



「仕事がない日は
お金が一円も入ってこない」


という
フリーランスにとっては当たり前の現実に。



その日からなんだか怖くなった。



今日は一つも仕事がない。

遊びに行く友達もいない。

意味のあることを何もしてない。


なのに生活に必要なお金だけは出ていく。


もっと働いた方がいいんじゃないか。




いま思えばその日
わたしのところにも

灰色の男が来たんだと思う。


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それから間もなく

今日に値段をつける感じの生活が始まった。



今日は3000円。


明日は6000円。


週末は12000円。


そんなふうに
毎日に値段をつけて

0円じゃない日があると安心した。



どうせ一人ですることもそんなにないから

余白を埋めるように
仕事のリクエストを受けた。


当時は家事代行とシッターをしていて
知らない人の家に毎日行った。



初めて行くマンションの
インターホンを押すのは緊張した。



家事代行とシッターの仕事は特に

自分の時間を
切り売りするようだった。


だけど仕事の中には気づきや発見があって
楽しいことや学びになる経験もあって。

「あなたに来てほしい」と
言ってくれる人もいて


夢中になった。



定期のリクエストもふえてきて
週に1回必ず行く場所がふえた。

引っ越してきた当初みたいに

時間がありすぎるゆえの孤独も薄まっていった。



その時のわたしは

「ゆっくりする時間なんて
べつになくてもいい」

と思っていた。


家に帰って寝る時間
ごはんを食べる時間
好きなドラマを見る時間は

ちゃんとあったし


忙しく仕事をしていれば
他のことと向き合わなくて済んだ。


わたしは忙しくなった毎日に
それなりに満足していた。



でも、家事やシッターの仕事が
本当に人のためになっているか、


と自問すると

そこには自信がなかった。



家の人は、
わたしが家事や子供の世話をしている間

「時間の節約」をしていたのだと思う。


留守にしていることもあったし
家で別のことをしていることもあった。

スマホを見ていることも多かった。



言われてみればその人たちは
わたしが家のことをする間
「自分の時間」を手に入れてるはずなのに

ちっとも幸せそうじゃなかった。


「自分の時間」が増えたはずなのに

「もっとたくさん来てくれないか」
と頼まれることもあった。



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「あの人たち、いったいどうして
あんなに灰色の顔をしているの?」

モモはめがねのむこうをながめながらききました。


「死んだもので、いのちをつないでいるからだよ。

おまえも知っているだろう、
彼らは人間の時間をぬすんで生きている。

しかしこの時間は、
ほんとうの持ち主からきりはなされると
文字どおり死んでしまう。


人間はひとりひとりがそれぞれ
じぶんの時間をもっている。

そしてこの時間は、
ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、
生きた時間でいられるのだよ。





わたしに時間の節約を依頼した人たちは
このことを知らなかったのだと思う。


わたしも知らなかった。


ほんとうの持ち主から離れた時間は死んでしまう。


あの頃のわたしは
灰色の顔をしていたかもしれない。



死んだものでいのちをつないでいた。

灰色の男は、
わたしだったかもしれない。