先日、父が亡くなりました。


病気が発覚して14年目。


どんどん痩せていってたけど

下の子が生まれた時(3年前)はまだ元気で、

高速に乗って1時間半ほどかけて子どもたちを見に来てくれたり

畑で作った野菜を届けてくれたりしていました。


「癌、治らない」と聞いていたけど

まだまだ元気やん

と思って、離れて暮らしていてあまり事情を知らなかったこともあるけど、そんなに真剣に考えることなく月日が過ぎていっていました。


私もずっと仕事で忙しく(昔は勤務時間関係なく仕事していた)

不妊治療、育児…と自分のことで他のことを考える余裕がありませんでした。




去年の正月は無事に迎えることができて

あと1年なんて、その時には思いもせず。


2024年は夏野菜を一緒に収穫したり

秋には一緒に芋掘りをしたりして

子どもたちもとても喜んでいましたニコニコ



でもそれからの1年は、痛みに苦しみ、痛くて寝られない日が続いて、入院して薬の量を調節したりする日々。

GWに帰った時はどうだったかもうハッキリ覚えてなくてそれが悔しい悲しい

7月に実家に帰った時は、父が外に出て来ることもなく、あとどれくらい生きられるのかなーと思ったりもしました。

そして8月も実家に帰って、痛みで苦しむ様子を見てました。


その後すぐに入院、

もうできる治療はなく、痛み止めの薬の量を調節するのみ。


医療用の麻薬でした。


そして、次に痛みが出た時にはもう覚悟しておいてくださいと言われていました。


母からそのことがLINEで連絡があり

動揺したのを覚えています。



9月に退院したので、子どもたちを連れて日帰りで会いに行きました。

買って行ったぶどうを「うまいわ」と言って食べてくれていたけど、食事量は減ってお粥を食べていました。


それから結局、退院の日からまた痛みがあって

10月にまた入院、2週間ほどで退院。



11月に帰る予定にしてたけど、私たち家族全員がインフルエンザに罹って帰ることができず、

父は11月末にまた入院。



なんとか持ち堪えてくれていましたが

10月11月と顔を見せに帰ることができなかったことを悔やんでいます悲しい

覚悟してくださいと言われていたのに、なんで帰らなかったんだろうと思います。

いろいろ予定があって帰れなかったのは帰れなかったんですが。



12月1日に私だけで入院先の病院へお見舞いに行ってきました。

車で高速を使って1時間20分の距離です。


父はだいぶ弱々しく、できることがどんどんできなくなっていって、移動もかなりゆっくりに。

ベッドの横にポータブルトイレが置いてありました。


そしてコミュニケーションがあまりできなくなっていたためか、私のことをどこまで分かってるのか疑問に思いました。

子どものこともどうしてるか聞いて来ることもない。

せん妄なのか、自分が置いていたものを触られることをめっちゃ嫌がったり。

ティッシュが無くなったと言うため新しいティッシュを出したけど、もう一度古いティッシュの中がないか確認したりして(勝手に捨てるとまたそれが刺激となり癇癪のようになるため)、そのペースに合わせながらうんうんと聞きながら付き合い、ティッシュ出すのに5分くらいかかりました💧


面会は15分、帰ろうとしたら「ちょっと待って」と言っていました。

待ったからといって、何か話すわけでもない。

「電話、2人の」と言うため、

もう電話できるような状態(テレビのリモコンとスマホを間違えたりしていたけど、この時にはもうテレビを見たいとかそんな意欲もなかった)でもなかったけど、

紙に母と私の電話番号を書いて、「ここに置いておくから」と伝えて納得してもらいました。




それから17日に退院となったので、

たまたま休みだったので子どもを連れて帰りました。

子どもを見て嬉しそうに笑ったり、帰る時にはタッチしたり、

そしてこの時にはまだ一人で歩ける時もあった。

私も手を引いてベッドからキッチンへ移動したりした。


病院で会った時よりちょっと歩行がマシになってるような気がして、笑う姿もあって、

思ったよりマシだったキラキラ

というのがこの時の感想でした。


でも紙パンツを履いていて、母は紙パンツにしてしまってることに怒ったりしていて…悲しい

私の娘(4歳)にも愚痴る始末。

どんな母やねんと思いますがガーン


できないことが増えていってる父、

できないことを怒る母。

母はもともと怒りっぽいんですが、すごく自尊心を傷つけるような関わりをするのが嫌でした。


でも私も父の介護をできるわけでもなく

母に任せきりになってしまっていました。



お昼ご飯はラーメンを一緒に食べて、

父はもう子どもたちと一緒に遊んだりはできないので

子どもたちと私で外で遊んで帰りました。


帰りには玄関まで見送りは来れないけど、

部屋の窓から立って見送ってくれていた。

自分でベッドから起きて立ち上がることができていました。

頑張って立って見送ってくれていたんだと思います。



それから、12月は22日と28日と休みがあったけど、次は正月に泊まりで帰るからまぁいいやと思って、実家には帰らずに過ごしていました。

22日はクリスマスの準備したり

28日には保育園の友だち家族と遊んだり。


今後悔しても仕方がないけど、

せめてこの2日だけでも実家に帰って父に顔を見せなかったこと、母を手伝わなかったことを後悔していますショボーン


この間にトイレも風呂も介助となっていて、

母は更に大変になっていました。

風呂は本当に大変なので3日に1回ほどのペースに。


同時に介護認定の変更も進めていましたが、

年末になりどうにもならず…




そして無事に2026年を迎えることができ門松


元旦の日の朝に実家に帰りました。

父とは昼ごはんは一緒にお節料理を食べることができて、

すき焼きとカニ鍋を食べて過ごしました。


でもこの頃には寝ている時間も長くなって、寝ていたら私たちが先に食事をしていることもありました。

カニ鍋のカニの足を1つ剥いて残しておいてあげました。

まだ自分でベッドから起き上がることはできていて、起きていたら部屋から台所へ移動を手伝い、

私はビールを飲みながら父の食事を待っていました。


楽しい2日間は終わり、私たち家族は帰阪。

3日には兄家族が来たそうで、お寿司を5つ食べられたとのこと。



でももうあと1ヶ月もつだろうか、2月の誕生日を迎えられるだろうか…とそんな気持ちになっていました。


そして怒鳴り散らす母に「怒ったらあかん」と話。

怒っていたら「また怒ってんの?」と間に入ったり。

父は会話が減っていたのに「怒られて怒られて怒られて怒られて」と言っていたのが印象的です。


その他、何を話したのかもう覚えていませんが、ほぼ会話はしてなかったと思います。


お年玉をもらう時に父も「欲しい人」と聞かれた時に冗談で手を挙げていたりして、父らしいなと思いました。


「また来るわ」と声をかけて、子どもたちとハイタッチ、何も喋らなかったけど嬉しそうにしてくれていました。


実家を後にし、

母の介護負担をなんとかしないと思いました。



そして7日に介護用品のレンタルなど、役場へ話を聞きに行くというので

私も休みだったので同行することにしました。


結局要介護認定の調査の方が自宅へ来てくれることになったので、私も実家へ帰りました。(子どもは保育園)



家に着いたら父は寝ていました。

何度か見に行って、目が開いてる時もあったけど、どこを見ているのか何を考えているのかもわからない感じ。


もう睡眠薬を飲まさないように母に伝えましたが、夜中に起きるから病院でも起きていたし飲ませているとのこと。


認定調査の方と父の面接もありましたが、何か言われると「んー」と返事をするので精一杯な様子。


昼ごはんはお粥、2口くらいしか食べられず。

みかんも退院した日には自分でむいて食べていたけど、もうむけないし、食べるにも1つを半分に割ってやっと飲み込める状態。

食事に1時間かかって嫌だと嘆く母。

母が食べさせようとすると手で拒否、「無理」と、やっと口にした父。

なかなか飲み込めない。

まだ口を動かしているのに食べさせようとする母。


薬も錠剤が飲み込めなくなっていました。

「飲まないと痛いの治らへんで!」と母。

無理に飲ませたら誤嚥性肺炎になる、飲み込む力が弱くなってるし正月より食事の量が減っている、様子がおかしいと伝えました。


母としては、5日に皮膚科に行った時にまだ段差をなんとか歩いて行けたのでもうちょっとできると思っていたような感じでした。


父は自室に戻りたがらず

母に「食べへんのか?」と聞かれても「食べる」「みんなと食べる」と答えていました。

なんとかして食べないと、頑張らないとと思っていたように思います。


でも食べられず。お粥を2口程度、時間をかけて食べていました。


自室に戻ることを「嫌」と言っていましたが、

椅子に座っているだけで精一杯バランスをとっていたので、体を起こして自室へ連れて行きました。

この時が、意識のある父と最後の関わりになりました。



次1月20日に病院(緩和ケア)に行くことになっているけど、そこまでもたないなと思いました。


錠剤が飲まなければ散剤に変えてもらうか、こんなに食べられないなら点滴をするしかない。

今(昼過ぎ)から病院行くかと聞きましたが、午前しか診察はやっていないとのことで、

翌日の8日に病院行くという話になり、8日に受診することになりました。


私が帰る頃にはまた寝ている父。


なんだか様子がおかしい。

もうあと数日だと思いました。

とにかく明日病院へ行くように、段差が大変なので近所の人に手伝ってもらうようにと母へ伝えました。


帰り際「もうあと数日やと思って。怒らないように。怒っても飲み込めないし早く食べられるようにもならない」と、母へ伝えました。


「明日病院行ったら入院になると思う、そしたらもう家には帰ってこないかもしれない」と話しました。


「そうやな。こらえるわ」と母。

母も71歳と高齢なので、年明けてから父を風呂には1度も入れていませんでしたが、ベッドから起こして台所へ連れてきて、トイレの介助をして…とかなり大変だったと思います。



私は私で8日は仕事、9日がまた休みだったので、また行けばいいかと思っていました。

そして自分の生活もあるのでなかなかゆっくり考えることができないまま。

少しでも食べやすいようにと、7日の夕方に介護用の食具を買ってすぐに送りました。でもこれを使えるかどうかはわからないと思っていたし、使いやすい食具でちょっとでも食べて欲しいという願望と諦めたくないような気持ちもありました。



兄には正月から悪化してる、もう長くないと思うとLINE。



それから…


8日の仕事中に母から電話

「お父さんもう長くないみたいや」と。

やっぱりなと思いました。

覚悟はしていたものの、職場の方に伝える時に涙が溢れてきました。


すぐに保育園に子どもを迎えに行き、父の病院へ。


朝は何も食べられず、牛乳をストローで少し飲んだとのこと。


8日の14時半頃に病院に着いたと思います。

父はもう寝たきりで、会話もできない状態になっていました。


酸素と点滴でなんとか生き延びているという状態。


目は開いたまま、時々瞬きをしたり、しっかり目が開いている時もあったり。

腕を少し動かしたり。



でもコミュニケーションは取れません。


前日はまだ介助して歩けていたのに…と、

私の頭も追いつきませんでした。



それからは本当にあっという間。

母は病院に泊まり、私は実家に泊まりすぐに病院に行ける体制に。

子どももいるので8日の夜には旦那もかけつけてくれました。

といっても実家は山奥にあるので、病院まで車で40分とまぁまぁ遠い。


母の妹も付き添ってくれました。


次の日も面会に行ったけど、

コミュニケーションが取れることはなく。

呼吸をするたびに喘鳴が聞こえてました。



血圧が下がり始め、本当にどうなるかという時に母の妹から電話をもらい、すぐに駆けつけました。

前日とは顔つきが変わっていました。

子どもたちと旦那もちょっとずつ面会して、一旦実家に帰ってもらいました。


従兄弟夫婦✖️2とその子どももやってきて

看護師の夫婦に髭剃りをして整えてもらったりビールを味わせてもらったり。


兄も自分の子を家に迎えに行って面会させるとのことで、13時半頃に戻ってくると言っていましたが、

脈拍が40を切るように。


早く来てと電話したらもう着いたとのこと。

1番よく遊んでもらった兄の子どもたちが到着して間もなく、頑張って動かしていた心臓が止まりました。


本当に最期の最期にはみんなに見送ってもらう形となりました。


(色々あって従兄弟家族と同居していたので本当に大家族のようでした)




お父さん、いつも味方でいてくれてありがとう。



小さい頃は一緒に暮らしてなかったので

反抗期の頃は大変だったと思います💧

私にも子どもができて家族の関係も少しずつ変わっていって。

もっと実家に帰れば良かったと後悔は消えませんが、良い形で見送ることができたように思っています。


去年は何回会えたかなとそんなことを考えて振り返ったり

一緒に何かしてる写真も動画も少なくて

もっと子どもたちと遊んでもらっているところを撮っておけば良かったと後悔したり。



思い出しては涙が出てきます悲しい



頑張って生きようとしていた父。

しんどいのに最後まで自分でできることは自分でやろうとしていたと思います。


母から助けてあげられなくてごめんなさいという気持ちと、母がいなかったらここまで生きられなかったという気持ち。


こんなに喋れなくなるならもっと喋っておけば良かったという気持ち。

父はどうしたかったのだろうか。


やりたかったこと、できたのかな。



離れて暮らしていたから

日常は変わらないけど

生きていることとそうでないことでは全然違う。



なにひとつ当たり前のものはない。