「この悲しみには意味がある」と思わなくてもいいのかもしれない。
Mrs. GREEN APPLEのアルバム「POPS」に収録されている
「瞞し」を聴いていた。
この曲にも、
いくつも心に引っかかる言葉があった。
特に私は、
人は知らないうちに誰かを傷つけること。
その人にしかない事情があること。
それでも結局、自分のことばかり考えてしまうこと。
そして、
悲しみに価値を見つけようとすること。
虚しさに意味を与えようとすること。
さらに、
無償の愛は美しい。
二人で手を取り合えば、きっと何かを乗り越えられる。
そんなものを、それでもまだ信じている。
このあたりが、ものすごく刺さった。
なぜだろう。
たぶん私はこれまで、
傷ついたときに、
何度もその傷に意味を探してきたからだと思う。
相手には、相手の事情がある
誰かに傷つけられたとき、
「どうしてそんなことをしたの?」
と思う。
でも少し時間が経つと、
「この人には、この人なりの事情があったのかもしれない」
とも考える。
怖かったのかもしれない。
余裕がなかったのかもしれない。
自分を守りたかったのかもしれない。
そして、
「私にも何かできることがあったのかな」
と、自分の側も振り返る。
私はたぶん、
そうやって人間関係を続けてきた。
相手を一方的な悪者にしてしまえば、
話は簡単なのかもしれない。
でも、人ってそんなに単純じゃない。
傷つけようと思っていなくても、
人を傷つけることはある。
その人にしか分からない事情だってある。
私だって、
自分のことしか見えなくなることがある。
だから私は、
相手の事情を知ろうとしてきた。
自分のことも振り返ってきた。
そうやって、
どうにかやってきた。
でも最近、思う。
相手の事情が分かることと、私の傷がなくなることは、同じではない。
怖かったんだね。
そうだったんだね。
そんな事情があったんだね。
そこまで理解できたとしても、
「でも、私は傷ついた」
は残っていていいんじゃないか。
理解したからといって、
傷ついた自分まで説得しなくてもいいんじゃないか。
そんなことを考えるようになった。
悲しみに意味を探したくなる
私はこれまで、
悲しいことがあると、そこから何かを考えてきた。
どうしてこんなに悲しいんだろう。
私は本当は何を望んでいたんだろう。
どうしてこの言葉にこんなに傷ついたんだろう。
私は何を大切にしているんだろう。
そして、考えて、考えて。
気づけば以前より、自分のことを知っていた。
だから、
「あの経験があったから、今の私がいる」
と思うこともある。
でも。
ここでまた、いつもの私が出てくる。
それ、本当にそう?
私は、悲しみから何かを得ようと思って、
悲しんできたんだろうか。
きっと違う。
成長するために傷ついたわけじゃない。
強くなるために、
悲しい出来事を受け止めてきたわけでもない。
ただ、
この悲しみを、ただの経験にしたくなかった。
悲しかった自分を、
無駄にしたくなかった。
たぶん、それだけだったんだと思う。
だから考えた。
だから向き合った。
だから、
自分の中に残ったものを拾ってきた。
そして結果的に、
私は何かを得ていった。
自立したお姫様が、
「もっと強くなってやる!」
と思って装備を増やしたわけではなかったのと
同じだ。
傷ついて。
もう傷つきたくなくて。
そのたびに考えて。
その結果として、できることが増えていった。
だから私は、
悲しみが私を成長させてくれた
とは、言いたくない。
悲しみは、ただ悲しかった。
できれば、傷つきたくなんてなかった。
悲しみに価値がなくてもいい
「あの経験には意味があった」
そう思えたら、少し救われることがある。
「あの悲しみがあったから成長できた」
そう考えれば、
あれだけ苦しかった時間も無駄ではなかったと思える。
だから人は、
悲しみに価値を見つけたくなるのかもしれない。
虚しさに意味を与えたくなるのかもしれない。
私もそうだった。
でも今は、
違うことを考えている。
もしかしたら、
悲しみそのものには、
価値なんてなかったのかもしれない。
ただ悲しかった。
ただ痛かった。
できれば、経験したくなかった。
それでもいいんじゃないか。
だって、
悲しみに価値があったから私が何かを得たのではなく、
悲しんだ私が、
そのあとも自分を置き去りにしなかったから、
何かが残った
のだと思ったから。
傷が私を強くしたのではなく、
傷ついたあとに、
「私はどうしたい?」
と考え続けた私がいた。
だったら、
今の自分を肯定するために、
過去の傷まで肯定しなくてもいい。
私が今日まで生きてきたことを肯定するために、
私を傷つけたものまで肯定する必要はない。
そんな気がしている。
無償の愛は、美しい
私は、
無償の愛というものを今でも美しいと思っている。
見返りを求めずに誰かを愛すること。
相手にも事情があると理解すること。
弱さも含めて、その人を受け止めること。
二人で手を取り合って生きていくこと。
できるなら、そんな関係でいたい。
でも。
無償の愛が美しいことと、
一人だけが傷つき続けてもいいことは、同じではない。
相手の事情を理解することと、
自分の傷をなかったことにすることも違う。
見返りを求めないことと、
一方通行でいいことも違う。
そして、
「二人なら乗り越えられる」
という言葉も、
二人が同じ方向を向こうとして初めて成り立つものなんだと思う。
一人で相手を理解して。
一人で自分を振り返って。
一人で伝え方を考えて。
一人で関係を修復して。
それでも、
「無償の愛だから」
と言い続けるのは、
なんか違う。
一人で誰かを愛することはできても、
一人で「私たち」を作ることはできない。
今の私は、そう思っている。
「もういいや」は、魔法じゃない
「もういいや」
と思えたら、楽になることがある。
執着を手放したら、
急に見える景色が変わることもある。
期待することをやめたら、
苦しさから解放されることもある。
でも、
「もういいや」と思えたからといって、
必ず報われるわけではない。
手放したあとにも、悲しいことはある。
理解しても、痛いことはある。
信じても、望んだ答えが返ってこないこともある。
愛しても、
関係が続くとは限らない。
だから私は、
「手放せば幸せになれる」
という物語にも、
少しだけ「それ、本当にそう?」と思う。
「もういいや」は、
幸せになるための呪文ではない。
もしかしたら、
報われることまで求めずに、それでも自分の人生を歩くための言葉
なのかもしれない。
どれだけ傷つけば、分かるんだろう
相手には相手の事情がある。
悲しみから何かを得ることもある。
無償の愛は美しい。
二人で手を取り合うこともできる。
私はたぶん、
これからもそんなものを信じていたい。
でも、
そう思えるようになるまで、
私はどれだけ傷つけばいいんだろう。
どれだけ覚悟を決めればいいんだろう。
どれだけ信じて進めば、
「あれにも意味があった」
と笑えるんだろう。
きっと、
そんな基準はない。
というより、
「意味があった」と思えるところまで、
傷つき続ける必要なんてないのかもしれない。
最後まで意味を見つけられない悲しみだって、
きっとある。
「あれがあってよかった」
なんて、
一生思えない出来事があってもいい。
それでも、
そのときの私自身まで否定する必要はない。
私は傷ついた。
悲しかった。
それでも考えた。
信じようとした。
何度も自分で選んだ。
そして、結果的に、
そこから何かを持って帰ってきた。
だったら、
それで十分なのかもしれない。
信じたものを、美化しなくてもいい
少し前までの私は、
傷ついた経験から何かを得られたら、
「あの経験も無駄ではなかった」と
思いたかったのかもしれない。
そうすることで、
悲しんだ自分まで救おうとしていた。
でも今は違う。
得たものは、得たもの。
傷ついたことは、傷ついたこと。
別々に置いておいていい。
信じた人を、美化しなくてもいい。
信じた関係を、美化しなくてもいい。
信じた自分の選択を正解にするために、
起きたことを美しい物語に書き換えなくてもいい。
それでも、
信じた自分を否定しなくていい。
悲しみに意味がなくても。
虚しさに価値がなくても。
私は、
その中で生きていた。
その中で考えてきた。
そして今も、
ここにいる。
「この経験には、きっと意味がある」
そう思わなければ歩けなかった日があったなら、
そのときは、それでよかった。
でも、
もう意味を探さなくても歩ける日が来たと思うから。
「あれは悲しかったね」
「あれは痛かったね」
そう言って、
悲しんだ自分の隣に少し座って。
そしていつか、
その悲しみに意味を与えることさえ手放して、
「もういいや」
と言えたらいい。
それは、
悲しみが報われた瞬間ではなく
悲しみを美化しなくても、
私は私の人生を肯定できるようになった瞬間なのかもしれない。


