「我慢しない関係」を築くための心の整え方を発信している現実を整理するカウンセラーのえみです。
自己紹介はこちらに書いております。
本日の朝読んだ美和さんのこの記事を読んで、
何か心が揺さぶられたので、リブログをさせていただきます。
上記の記事を読んで、何か胸がうずいたの。
この感覚は何なんだろう?
って思ったんだ。
おそらく、この部分に何か反応したんだろうな。
これは、まだ少し言語化できる状態には
なっていないことなのだけど、、、
少し前に気づいたの。
「愛する(Do)」と「愛でいる(Be)」
というのは、別のことなんだな、って。
特に、私は息子に対して、
一生懸命「愛する」をやろうとしてきたけど
本当は「愛でいる」だけでよかったのかもって。
(略)
だから、私は、その罪滅ぼしの気持ちもあって、
なんとかして息子を幸せにしなきゃ、と
勝手に肩に力が入っていて、
「愛そう、愛そう」としてたんだな、
っていうことに気づいたの。
私も、息子が大学に行けなくなり、
引きこもり状態になったとき
息子に対して罪悪感のようなものを持った。
私の育て方が・・・
元夫との関係が・・・
元夫と離婚したことが・・・
元夫が急逝してしまったことが・・・
息子を追い詰めてしまったんだ。
ってね。
でも今はちょっと違う。
「罪悪感」というよりは、「責任感」を強く持っている気がする。
私は今、私がいなくなってからも、
息子が生活できる基盤をつくりたいと思い、
そのための行動をしている。
ただ、
「今は引きこもりだけど、私が死ぬ頃には自立してるだろう」
という根拠のない自信は持っているの。
根拠はないけど、
息子はきっとちゃんと自分の足で歩ける人間になるだろうって心の底から思えているんだよね。
外から見た状況は変わってないのだけど、
息子と一緒に暮らしている私は、息子の変化を感じられてるんだ。
だから、そういう自信を持てるようになったのかもしれない。
でね、
美和さんの記事の中にあった
”「愛する(Do)」と「愛でいる(Be)」は違う。
特に息子に対して、私は一生懸命「愛そう」としてきたけれど、
本当はただ「愛でいる」だけでよかったのかもしれない。”
という部分に、私の胸がうずいたのだけど、
なぜなんだろう?って思ったんだ。
共感じゃないような気がするし
でも、反発でもない気がするの。
なので、その違和感の正体を考えてみた。
私は息子を「愛そう」と思ったことがない
考えてみると、私は息子に対して
「愛さなきゃ」
と思ったことがないんだ。
だって、当たり前に「愛している」から。
もちろん、イラっとすることもある。
心配もする。
将来が不安になることも、もちろんある。
でも、それと「愛している」ことは別の話だ。
息子は、生まれたときから愛おしい存在だった。
だから私は、「息子を愛する努力」をした記憶がない。
それは、にゃんこや、みるくに対しても同じ。
勝手に「愛おしい」と感じさせてくれる存在なんだ。
何をしても、どんなに理不尽な対応を強いられても、
ただただ愛おしい。
むしろ、
「愛そう」と頑張ったのはパートナーの方だった気がする。
今の彼に対しても、そこは頑張ってるよ。
だって、他人だから。
価値観も違うし、育った環境も違う。
理解できないこともたくさんある。
だからこそ、
理解しようとしたり、
歩み寄ろうとしたり、
尊重したいと思っている。
そういう意味で「愛そう」としている。
最初は「大好き」だった。
無条件に「大好き」だった。
今は、「愛してる」って心から言える関係に育てている途中、
なのかなって思っている。
子どもは最初から存在自体が「愛でる」対象なのかもしれない
だから私は思う。
子どもという存在は、
最初から「愛でる存在」なのではないだろうか。
だって、自分のお腹の中で9カ月も無事に育ってくれて、
そこから頑張って出てきてくれて、
この世で”生きよう”と頑張ってくれているんだもの。
そりゃ、愛おしいよ。
それは、息子が大人になった今も同じだ。
相変わらず、愛おしい。
だから私の場合、
「愛する」と「愛でる」の違いよりも、
「愛しているからこそ、どこまで手を出すのか」
の方が今のテーマなのかもしれない。
私を動かしているのは、罪悪感ではなく、責任感
私には、親としての責任がある。
息子は今、引きこもり状態だ。
けれど私は、彼が一生このままだとは思っていない。
私が死ぬ頃には、自立しているだろうとも思っている。
さっきも書いたけどね。
ただ、それでも思うんだ。
基盤はあった方がいい。
だから私は、行政とのつながりも作っておきたいと思っている。
そのために、引きこもり支援センターにも通っている。
制度の申請も考えている。
それは、
息子が一人では何もできない弱者だと思っているからではない。
「親としてできる準備はしておきたい」
という責任感からだ。
私の頭がしっかりしていて、
私が行動できるうちは、私ができることは何でもするつもりでいる。
私は息子を信じている。
でも、だからといって何も準備しないわけではない。
むしろ信じているからこそ、
必要な制度や支援にはつなげておきたいと思っている。
「愛でる」ことと、「準備をする」ことは両立する。
「信じる」ことと、「備える」ことも両立する。
私はそう思っている。
ただ、
息子が引きこもりになった直後の私は、
「このままだったらどうしよう」
という不安に支配されていた。
そのために、
「息子を幸せにすること」が親の責任だと思っていた。
でも今は少し違う。
私ができるのは、
息子が自分の人生を歩くための土台を整えること。
幸せになるかどうかは、
息子自身の人生だから、
私がコントロールできる領域ではない。
でも最近の私は、
「この子はこの子なりに育っていく」
と思えるようになってた。
だから今の私は、
息子のことは、もう「愛でている」と思うんだ。
そのうえで、
これからの私のテーマは、
どこまで親としての責任を持ち、
どこから先を本人に委ねるのか。
その境界線を探すことなんだろうな。
親として準備はする。
でも、人生を代わりに生きることはできない。
愛しているから支える。
愛しているから備える。
そして、
愛しているから手放していく。
そんなことを、
今の私は少しずつ学んでいるのかもしれない。
親としてできることと、
本人に委ねること。
その境界線を、私もまだ探している途中なんだ。
去年の8月にこんな記事を書いてた。
あの頃に比べたら、私の不安が少し薄まり、
見てる方向が変わってきたのかもしれない。
最近、匿名相談室へのご相談を通して感じるのは、
悩みの原因そのものよりも、
自分の気持ちが整理できていないことで苦しくなっている方がとても多いということです。
一人では見えない本音がある時は、
よかったら匿名相談室を活用してくださいね。
自分の気持ちを言葉にしてみると、
思いもよらない本音に気づくことがあります。




