庚申信仰 | 獨と玖人の舌先三寸

庚申信仰

●庚申塔――
こうしんとうは、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて造られた石塔のことです。
庚申信仰の熱心な信者や講の人々によって、五穀豊穣、無病息災、悪疫退散を願って造立されました。また庚申講を3年18回続けた記念に造立していたようです。
塚の上に石塔を造ることから庚申塚、塔の造立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれました。
庚申塔は全国的な分布が確認されていますが、地域によって造立数に差が見られます。特に旧相模国を中心とした地域では数多くの庚申塔が造立されていて、日本で初めて三猿が彫られた庚申塔(茅ヶ崎市輪光寺)や青面金剛が彫られた日本最古の庚申塔が保存されています。
庚申塔の多くは街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものが多くあります。これは道祖神など他の路傍の石仏にはあまりみられない機能で、庚申塔の特色とされています。
庚申塔の造立が広く行われるようになるのは寛永年間頃で、近世を通して多数の庚申塔が造られました。
庚申塔の石形や彫られる神像、文字などは様々で、申にちなみ“見ざる、言わざる、聞かざる”の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多いようです。また庚申の祭神は神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもあるようです。また、猿田彦神は道祖神とも信仰されており、庚申信仰が道祖神信仰と結びつきました。仏教では庚申の本尊は青面金剛とされ、青面金剛が彫られることもあります。時代が下ると、“庚申塔”あるいは“庚申尊天”と文字のみ彫り付ける形式が増加していきました。
明治時代、政府は庚申信仰を迷信とし、街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めました。
昭和時代、高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって、残存した庚申塔のほとんどが撤去、移転されました。
現存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたもの、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものだけです。
今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、“庚申――”と書かれた石柱を全国で見ることができます。

獨と玖人の舌先三寸-110214神楽坂・筑土八幡
新宿区筑土八幡町、筑土八幡宮境内。寛文4(1664)年造立。太陽と月、桃の木、二匹の猿をあしらった舟型の石造庚申塔。三猿でなく二猿であり、牡猿・牝猿がどちらも桃の枝を持った姿で表現されている点が、きわめて珍しいものです。 (最寄駅、神楽坂または飯田橋。)

獨と玖人の舌先三寸-110502目白台・水神社
文京区目白台、水神社鳥居前。三猿。(最寄駅、都電早稲田。または早稲田、江戸川橋。)

獨と玖人の舌先三寸-120108広尾・廣尾稲荷
港区南麻布、廣尾神社(お稲荷様)境外。三基とも方形角柱の笠塔婆型。中央は元禄3(1690)年、左は元禄9年、右は摩耗して不明なれど、隣の2基よりも古いと想定されています。足元手前の献花台に三猿。(最寄駅、広尾)

獨と玖人の舌先三寸-120208練馬区貫井、庚申塔。青面金剛。
練馬区貫井の道路端。中村橋交差点から中村橋駅ガード潜って、すぐ。青面金剛の庚申塔。右手の燈籠には文化14(1817)年9月と刻まれています。(最寄駅、中村橋。)

うかがう寺社先々で庚申塔は見かけるのですが、あまりにも普遍過ぎて、珍しいものしか撮らなくなっていました。字体のものを探したのですが(1時間近くPC内探索)、見つかりませんでした。おかしいです(笑)