私が世界(人)に言っていることは、私が私に言っていること
もうすっかり自分の空気となってしまったものを(自分にとっての常識を)自覚することは難しい。でも時々、それを自覚できる瞬間が現れて大抵は「嫌な出来事」だったりします。今日はそんなことについて書いてみたいと思います。先日、久しぶりに「腸が煮えくり返る」という言葉を使いたくなるくらい激しい怒りを感じる出来事がありました。それで、その時の自分が思ったことをノートに書き出してみました。すると「誠意を見せろ!」とか「自力でやれ!」「反省しろ!」とか(厳しい...こわい...)突き詰めると…「甘えるな!」みたいなことを永遠その対象に向けてものすごい圧で言い続けている自分を発見しました。(ひ〜〜〜)世界(今回の場合は他人)に向かって言っていることは自分に向かって言っていることだ、と聞いたことがあります。私がノートに書き出したたくさんの言葉。一言で言うと「甘えるな!」という言葉はたぶん私が私にまるで息をするように、自然に、当たり前に、言い聞かせていた言葉だったのでしょう。(自分で自分を攻撃していた、とも言えますね)それがはっきりと「見えた」瞬間でした。とにかくすごい圧力。でも、それを絶えず言い続けてそれが当たり前になった空気の中にいるとかなりのプレッシャーがかかっていてもそれにまったく気づかないものなんだなぁ、、空気ってすごい。そう思いました。で、こういう時、私たちは自分が楽になるために(苦しさから逃れるために)その他人を許そうと頑張ったりしますが(他人に謝ってもらおうと努力したり)たぶんそれも違って許すべきは自分自身だけ、なんだと感じています。だからその他人は別に許さなくていい。その他人のことはもうどうでもいいからそれよりも自分には「甘えていいよ」と自分のことを許してあげよう。そうすると、すごい楽になります。本当は、ただ私は甘えたかっただけ。なのに、いつしか勝手に「甘えてはいけない」という(守りたくもない)ルールを嫌々守らされて(守ることを自分に課して)苦しんでいただけ、ひとりずもうだったんだなぁ、そう気づきました。だからその出来事はその常識となってしまった私の空気となってしまったものをただ教えてくれた、(その他人を通して見せてくれた)だけなんだぁ、そう思えました。そして、これは不思議なのですがその「他人を許せない自分」を許すと(そのままにしておいても)結果的には、(いつの間にか)その他人も許せている、から(許そうとしなくても、勝手に...)だから自分が頑張らなくてもすべては繋がっていてうまくできていて「嫌な出来事」すらもちょっと面白かったです。(あんなに怒っていた自分もなんか面白い...)私には(人間には)他人を許す機能なんて元々備わっていない。そう諦めてからのほうが、私の場合、人づきあいが楽になりました。私は私を許せるから、(それだけで大丈夫だったから)他人を許す必要なんてなかったんだ、と(すごい無理なことをしようとしていたんだなぁ...、と)今ではぼんやりそう思っています...あと、「誠意」とか「いい人」とかこれはこれでとても素晴らしい言葉だけど、(長年そう教えられてそう信じてきたけど)これも罠で、これらは煩悩だなぁ、とこれもぼんやりそう思っています...これらは、自分の幸せとまったく関係ない。私たちの本質とまったく関係がない。そのように感じている今日この頃です。つまり、「空気=エゴ」を見抜く、ということなのですがそれがだんだん見えてくると(実際には見えなくても、ですが)本当に自由だな(自由だったんだな)、と実感する瞬間が増えました。日々はミステリアス...普通であればあるほどまったく疑いもしないものほど実はすごく変で、変わってて、、でも自分ではまったくそれに気づかない「当たり前」という力?感覚?私が「日々」とか「日常」「生活」と呼ぶものは(それを成り立たせている何かは)すごくミステリアスだなぁ...そう思っています。だから私は、とにかくなんでもノートに書いています。ノートに書くと、自分を客観視できて、だんだん「これがエゴか」と見抜けるようになってくるので、おすすめです。(そのうち、特にノートに書かなくてもエゴをスルーできるようになってきます。)ぜひお試しくださいね。長いブログになりましたが最後まで読んでくださり、ありがとうございます