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  「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
      平成22年(2010年)3月30日(火曜日)
        通巻2924号 
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 奇々怪々、謎だらけの毒餃子事件「解決」?
  中国は何が目的で、つぎに何を狙って手打ちを急いだか?
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 毒餃子事件は2008年初頭のはなし、中国は「犯行は日本で行われた」ととてつもない強弁をもって幕引きを図ろうとした。なぜか直後に日本のスーパーで注射器が発見されたり。
 ところが中国国内でも被害者が続出し、中国の公安当局は顔色を変える。
 
 捜査は二年に及んだ。犯人の検討は最初から付いていた形跡がある。
 第一に天洋食品という国有企業の「格」の問題がある。当該企業には「社長」という表の顔の裏に「書記」が共産党から派遣されている。末端の行政単為でもそうであるように、たとえば市長より市書記のほうが格段に政治力が上である。

 第二に地元の公安責任者が捜査途中で他に飛ばされた。捜査の責任者は中央からやってきて仕切り直しをしている。つまり地元公安と企業幹部とが組んでの過去の捜査を振り出しにもどした。地元公安は中央の顔色をみていた。

 第三は、この事件を「どういうストーリーで解決させるか」という問題が浮上する。
 真相はどうでもいいことで、いかなる物語をでっち上げて、日本に呑み込ませるか、が最大の政治課題なのである。

 犯人は待遇に不満、ボーナスが貰えない、実家が貧乏という、日本の同情を誘うような人物が良い(おそらく単独犯ではないだろう)。かくて物語は作られた。

 犯人は16日に自白した、という。スケープゴートにされたのだが、裏取引があったとも考えられる。

 27日深夜には鳩山首相に伝えられ、28日に公安の記者会見(新華社も来たが、殆どは日本のメディア)、そして29日早々には鳩山首相と岡田外相の談話が手際よく発表される。「解決にいたった捜査努力を評価し、中国政府の努力に感謝したい」。

29日の中国メディアはトップ扱い(たとえば人民網電子版)。
 「これで解決した」という公式発表となる。 (誰だ、こんなシナリオを演出したのは?)

 

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川本敏郎『医師・村上智彦の闘いー夕張、希望のまちつくりへ』(時事通信社)
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 著者の川本さんは風流な人である。
その世界文化社にお勤めだった編集者時代には、なぜか小生の著作を貳冊ほど担当してくださった(拙著『ウォール街・凄腕の男たち』など)。だから世界経済に興味があるに違いないと思いきや、或る晩、中村彰彦氏と一緒に酒を飲んでいたら、今度は中村さんにいきなり『龍馬伝説を追う』を書かせたり。いったい専門は何だろう?
 出版社をおやめになり、フリーを宣言。さて、どういう分野?と期待していたら、最初はジャガイモの料理法だった。そして『中高年からはじめる男の料理』なんて本を書かれ、すっかり台所評論家が板に付いた風流な書き手と勝手に想像していたら、その次がワイン。これで路線が決まったと、これまた勝手に川本像を固定しかけた。
 番狂わせはワインの本からだった。
 ワインではなく、そのワインをつくった学園の奉仕の精神、集団の生活の豊かさ、その内面に迫るドキュメンタリーを仕上げられ、医療問題、高齢化問題に首を突っ込まれた。
 そして地域医療という大きなテーマに向かった。
 夕張は財政が破綻し、破産の烙印を押されてしまった。嘗ての炭坑町もいまでは「夕張メロン」のイメージしかないが、医療はどうなっているのか。
 医者がいない。赤字が嵩む。町立の診療所はとうとう廃止になる。
 この悲劇の実態はNHKスペシャルなど多くのテレビ番組でも特集が組まれた。明日は我が町、明後日は我が身、健康保険はどうなるのか、誰もが案じている。


 川本さんは北海道出身で夕張は育った場所にも近く、親近感があった。そのうえ、自身が闘病生活をおくり、ながらく入院を体験されたので医療の現場、保険、その保険で支えられた病院の費用という実体験が重たくのしかかり、この作品に挑まれる経緯となったのだ。
 夕張医療センターの廃止に象徴されるのは「政治家の無能さ、官僚の無責任さ、ずるがしこさに翻弄され続け、総務省と厚生労働省の縦割り行政の間で振り回された」わけだ。
 「高齢化率43%、600億円の債務を抱えて倒産した夕張」の姿は「十数年後の日本の縮図」、危機は時間の問題となったという指摘は身にガツンとこたえる。
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 ヘーゲルのいう「エレメント」を活用するのが小沢政治の肯綮
  エリートの支配構造を揺らした民主党へ特捜警察は青年将校団として挑んだ

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佐藤優(聞き手=斎藤勉) 『国家の自爆』(扶桑社)
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 佐藤優氏独特の切れ味、もやもやとした日本政界の霧を払いのけ、闇をばっさりと斬った。
 本書は単に前著が文庫版となったのではない。著者の「あとがき」がなんと160枚、書き下ろしなのである。
 いったい文庫へのあとがきで、160枚も書き込むという異常な事態はなぜ生まれたのか、そのうえ、解説が突拍子もなく意外な人(中村うさぎ)。おなじ同志社大学OBという縁から神学的に論じる。
 さて、本書前半の概要は単行本のときに読んでいるので、ここでは繰り返さない。
 面白いのは新稿の「あとがき」である。
『作家佐藤優の原点がすべて、この書物にある』とする帯の謳い文句はその通りにしても、原点からそろりと、しかし大幅に逸脱し、本書のあとがきは現代政治、いま進行中の小澤政治の要諦に決然と迫っている箇所があって、それが滅法面白いのである。
 小沢一郎という「政治家」を政治姿勢、イデオロギー、正義の視点からみれば、とんでもない人物だから、小生を含めての保守論壇は不愉快なエモーションを帯同し、その怪しげな政治姿勢(とりわけ外国人参政権、党内ファッショ、北京への土下座、韓国での演説など)を論詰する。
しかし佐藤氏の小沢論は、まったく異色なのである。
 
すなわち氏は、小沢の重視するのは『場』であり、それをつくりだす天才である、という視点から、左は日教組であれ、宗教は公明党であれ、右は高野山に歩み寄ってキリスト教を攻撃し、神道政治連盟に近づく。すべては多数派を形成しファシズム的勢力を作りだし、自民党を木っ端みじんに追い込む。それが小沢の政治であると特徴付ける。
 そこには小沢の欠落させている倫理、品格、思想を脇において、『正しい目的のない、マキャベリスト』(遠藤浩一)としても小沢を論じない。
 これは冤罪で拘置所に二年近くも入れられながらも不撓不屈の精神で検察の遣り方を跳ね返し、第二の人生を歩み出した佐藤さんの怨念がこもっているかと言えば、そうではない。淡々として冷徹に、しかし冷酷に、そして熱い情念で日本の政治をみている。この客観性には保守陣営か反発しかねない箇所だが、なるほど唸らされる。

 つまりこうである。
 小沢一郎を中軸にまわる日本政治を解くにはヘーゲル哲学の「エレメント」が鍵で、これは要素、元素だが、境地、境域、境位、場面、場などと訳され、本書の場合は「場」と訳して用いる。
 佐藤氏は次のようにまとめる。
 「小沢氏の場合、日本国家が成り立つためには、民主的な選挙によって絶対多数派となる政党がエレメントなのである。選挙工学によって、エレメントを成立させることが、小沢氏が追求する目標だ。これまでの日本の政治は、実質的に官僚に支配されており、エレメントを欠いていた」(344p)。
だからファシズムが近づいている、として続ける。
 「小沢氏が作りだした民主党連立政権というエレメント(場、境位)に、自己保存というイデオロギーが入り込み、無意識のうちにファシズムが形成される」
懼れが高いのだが、「政治家の洞察力と意思力の低下、官僚の知的、技術的能力の低下、それに国民の政治に対する幻滅感が、ファシズムに対するエリート、国民双方の耐性をかつてなく弱くしている」(341p)。
 民主党が国民の支持を得たのは、「国家を支配するのは国家公務員試験、司法試験などの難しい資格試験に合格したエリートであることが当然であることはもとより、結果としてもそのほうが、一般国民にとって幸せ」だろうと高級公務員や検察は概括しており、それゆえにエリート支配に反対し、既存構造を破壊しかねない民主党を検察が敵視する、という構造で佐藤氏は捉える。
 これは「天皇の官吏という発想の延長線上の権力観」であり、小沢vs検察という「ゲーム」が展開されることになった。
 佐藤氏は検察をかつての青年将校とみる。「特捜検察は二十一世紀の青年将校」であり、第二の突破口を考えている、と予測する。
 このあたりが本書新稿の圧巻部分である。