昔住んでいた家の近くに、今では珍しい木造のアパートがありました。
名前は「つばき荘」。
これをアパートと言って良いのか、どちらかというと「下宿屋さん」の方がふさわしいのかもしれない、そこを通る度にそう思ったものでした。
「つばき荘」の看板はもう煤けたように文字がぼんやりとしていて、ふと覗くと見える入り口の向こう側はいつも真っ暗でした。
「ここって人、住んでんのかな。」
といつも不思議に思っていたのですが、ある日街の不動産屋さんをふと覗いて見た時に、
「つばき荘、トイレ共同、風呂なし、月3万円」
というチラシを見つけたので、「あ、まだやってるんだ」とわかりました。
もうずっと前のことですが、東京の割と便の良い土地の月3万円でしたから、住みたいという人もいたでしょう。
そんなある日、サークルの飲み会で帰るのが遅くなり、急いで帰宅していた時のこと。
(姉からポケベルで「ハハゲキド」「ハヤクキタクセヨ」とメッセージを受信したため。門限を過ぎていたのでした)
つばき荘の前を通ると、ガタン!と音がしました。
「え!?」
と思って音の方向を見ていると、私と同じくらいか、少し年上の男の子が、2階の角部屋の雨戸を一生懸命締めようとしているのが見えました。
私は急いでいたはずなのに足を止めてしまって、なぜかじぃっと、その様子に気を取られてしまったのでした。口も半開きだった気がします。
その日は忘れもしない満月でした。大きな月がつばき荘を照らし、夜なのにスポットライトを浴びているように明るかった。
なかなかしまらない雨戸はとてもわがままで、少し動いては動かなくなり、ギィ、ガタン、ゴトンと変なビートを刻んでは途中で完全に止まって、動かなくなってしまいました。
「あの、そういう時は蝋を塗ると、いいですよ。」
ちょっと(本当はかなり)お酒を飲んでいて気が大きくなっていたのもあるのでしょう。私は思わず声をかけてしまいました。
だって、雨戸が途中で止まって、あまりにも途方に暮れているから。だから。
男の子は驚いて下を見て、私がじぃっと見ていることに「わ。」と驚きました。
「蝋を塗るといいんですか。」
「はい。うちの祖母が戸の立て付けが悪い時は、よくロウソクの蝋を塗ってました。そうすると、滑りがよくなります。」
「僕浪人してるんですけど、そんなに滑らせて大丈夫ですかね。」
「・・・。雨戸が代わりに滑ってくれるので、大丈夫、な気がします。」
男の子は少し首を傾げて、少し笑って、「ありがとうございます」と言ってくれました。その笑顔を見て私も笑ったちょうどその時、母親が家から出てきて、
「あんた!こんな夜遅くに何やってんの!」
と滅法怒られながら家に帰ることになりました。なんでしょうね。サザエさんでよく、カツオ君が耳を引っ張られて家に連れ戻されたりしてるじゃないですか。そんな感じでした。
男の子は動かない雨戸の影から、そんな私のドナドナな様子を見ていました。
それからもう、その男の子を見かけることはなかったのですが、数ヶ月後のこと。
大学から帰ると母が突然、紙袋に入ったリンゴをテーブルの上に置きました。
「どうしたの、そのリンゴ。」
「『その節はありがとうございました』って。ほら、あのつばき荘の。大学、合格したんやって。
『蝋を塗ったおかげで雨戸がよく滑るようになりました。よく滑ってもらったおかげで、僕は滑らずに済みました』
って言うてはったけど、あんた何言うたん?」
ふっ。
そうか、大学受かったんだ。よかった。
私は心の中でそう呟くと、何も言わずにリンゴをひとつ掴んで、2階の自分の部屋へと戻っていきました。そして西陽の差し込む部屋の中で、一口リンゴをかじりました。
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