「人格を磨く」というのは、

もしかすると東洋的な思想なのかもしれない。

わたしたち日本人は、精神的なものを教える人に人格を求める傾向がある。

でも、西洋の文化って割とお構いなしなところがあって。

それと、ありのままの自分をさらけ出すことを良しとする傾向もあったと思う。

 

何をもって人格者と呼ぶか、という議論もあるけれど、

これはもう美徳というしかない。と最近は思うようになった。

スピリチュアルなティーチャーたち、サイキックリーディングをする人たちに「人格者」を求めるのは違う気がする。

世界的なピアニストは人格者か?

そんな事はない。

 

スピリチュアルを教えている講師たちは、「愛」を教えているけれど、「人格を磨く」ことを教えているのは「道」という名のつくものだ。武道の道は精神と身体を鍛える。武道を志す人たちに人格者が多い気がする。

 

「人格」というのはどんどん変わっていく。出会いが人を変えるし、成りたい自分がある人、目標となる人がいる場合にはそれに近づいていく。

 

わたしも「人格者」に憧れていたけれど、ある時、無理だと思った。無理してなるのは違う。これは自然とそうなっていくようになるしかないのだと諦めた。

でも「愛の人」には成りたい。今でも。イエスは永遠にわたしの憧れだ。

わたしの知っている「愛の人」たちは自由人が多いので、わたしはその「自由さ」にも憧れている。