アダマは瞑想する時に、わたしたちに「愛するもの」に想いを馳せることをすすめてくる。

それは人や、ペット。場所や、美しいもの、なんでも良くて、ただ単純に「あなたが愛するもの」であればいい。

雨が顔に当たる感覚。冬の冷たい空気。お雑煮の匂い、花の香り。楽器やメロディー。

 

愛するものに想いを馳せて、こんどはそれをしっかりと感じる。それを思い浮かべた時に心が動いているか。それも心地よく、動いているか。

 

この「愛する感覚」というのが光の呼吸において重要な位置をしめてくる。愛を覚えながらカラダが緊張する。というのはない。あるとしたらそれは愛しているものというより、愛したいものなのかもしれない。

 

わたしはこの「愛するもの」を増やしたい。どんどん増やしたい。

愛するものが増えれば、瞑想だけでなく、人生が豊かになるイメージだ。

 

しかし、愛する「自分」も忘れないようにしよう。とアダマが言う。本当にそうだ。わたしを一番愛してあげるべき人は他でもない「わたし」。「わたし」ほど「わたし」を愛せる人はいないのだ。こんなに一緒にいる人も他にいないのだ。

 

自分を愛するのが難しい場合は、何が難しくさせているか丁寧にみていくと、それは大抵、「完璧な自分じゃないといけない」という刷り込みや思い込みからきていることに気づく。完璧な自分になったら愛される。という錯覚をもっている。「わたし」は愛されたくてしょうがないのだが、それは「わたし」から愛されない限りいつまでも満たされることがない。

 

日々瞑想をしながら、「愛する」レッスンもある。でも、自分のために瞑想する時間をもつのは、なによりも愛の実践かもしれない。