そんな経緯があって、オレは本来の利き手である左手で包丁を持つようになった。
どこにでもある両刃の万能包丁は左手でも簡単に使いこなすことが出来たし、怪我のせいでひきつれ、動きの悪い右手の薬指も、飾り切りや桂剥きをするわけではないキッチンでは足手まといにはならなかった。
高級マンションとはいえ、家庭用のキッチンにはプロ仕様のコンロも鍋もなくて、一般家庭用のそれらが並ぶ場所が今のオレには居やすくてありがたかった。
こういう場所で大野さんのリクエストのクリームシチューなんかを作っていると、ふと子供の頃を思い出したりする。
実の親の記憶のほとんどないオレが思い出すのは、育ててくれた叔父さんと叔母さんのことで
ここよりずっと狭くて古い台所でよく叔母さんの手伝いをした。
叔母さんが料理をする隣で食器を洗うオレに、ありがとうと言った叔母さんの笑顔。
叔母さんに教わって作ったご飯のおかずを食べて、美味いと笑った叔父さんの顔。
オレが叔父と叔母の家で生活する理由を知るずっと前から繰り返されたこれらが、オレが料理の道を志したきっかけなのかもしれない。
自分で断ち切ってきた過去は、叔父と叔母の苦労と忍耐の上に成り立っていたというのに……
思い出す風景は優しさと暖かさに満ちていた。
もう、二度と戻れないあの場所………
「……ニノ……ニノ!…焦げる!!」
気が付くと、お玉をもったまま鍋の前でぼんやりとしていた。
お玉の先でホワイトソースがグツグツと大きな気泡を弾けさせている。
オレは慌てて鍋底を剥がすようにかき混ぜた。
幸いブラウンシチューにはなっていないようでほっとする。
「お前、コンロの側でボーッとしてると火傷するぞ」
対面式キッチンから見えるいつものソファーのいつもの場所にゴロリと寝転んだままの大野さんから窘められる。
「そうだよね。キッチンに立つときは気を付けないと。
あなた、この間自分で釣った魚捌いてるとき、手を切ってたもんね」
大野さんの向かいに、やっぱりゆったりと座った潤くんに茶化されて、大野さんか絆創膏を巻いた自分の指を眺める。
「けっこう血が出たからなぁ。
思い出させるなよ。また、痛くなってくるから。
それに、俺はボーッとしてたわけじゃあねぇぞ」
大野さんに睨まれても知らぬ素振りの潤くんが立ち上がってキッチンに入ってくる。
「……いい匂い。ニノ、ルーから作ってんの?」
立ち込める匂いに目を細める。
潤くんはそんな素振りさえカッコいい。
「何だよ、シチューはなぁ、このルーとこっちのチーズ入りのルーを合わせると美味いんだぞ」
潤くんにくっついて大野さんまでキッチンに入って来る。いくら広いキッチンでもさすがに大人が三人もいたら動きにくいと思っているところに、大野さんがクリームシチューの箱を両手に力説するもんだから、余計に邪魔くさい。
「台所はオレに任せてくれるんでしょ!?
ちゃんと予算内でやってるんだから、横から口出さないで向こうで待っててよ」
「元料理人のプライド?
ほらっ、大野さん、怒られたから向こう行くよ」
冗談めかして言いながら大野さんの背中を押してキッチンを出ていく潤くん。
「そんな、頑張んなくたっていいんだからな」
潤くんに押されながらもまだ箱を離さない大野さん。
プライドとか、そんなんじゃ…
ないつもりなんだけど…………ね。
つづく