料亭『水野』の調理場は今日も相変わらず。


板長のオレへの怒声と、それ以下の奴らのあからさまな嘲笑と聞こえよがしの陰口に満ちていた。


よく男に対する悪口に女の腐ったようなって言うのがあるけど、それは女性に失礼だと思う。


こんな仕事のせいか自己顕示欲の半端ない人間の集まり。男社会の嫉妬と羨望、指導と称するパワハラやいじめは結構えぐいものがある。


そんな諸々を一身に浴びても、オレは反論もせず黙々と働いていた。


オレの中に灯る光。
『ガンバろうね』
あの微笑みとあの声と包まれた温もりが今のオレを支えていた。


ただ、オレの反抗しないという態度はどうやら逆の効果をもたらしているようで
オレに対する仕打ちは日に日に激しさを増していた。






だから、それは、いつもの光景。


調理場に立つオレを通りすがりに突き飛ばす奴がいて、よろけたオレの足を引っかける奴がいた。


足を取られて転ぶオレの姿もここ最近では珍しくなかった。


ただ、その日オレはその手に洗いあがった磁器の器を持っていた。



ガチャーーン!!


オレが転ぶと同時に床に叩き付けられた器が派手な音を立てた。


「………痛ってぇ」


転んで床に手を着いた拍子に右手の平に痛みが走った。


着いていた手を反して手の平を見ると


『水野』自慢の極薄く焼き上げられた繊細な器の、その欠片がオレの手の平にぐっさりと刺さっていた。


咄嗟に左でで押さえるけれど、その手を伝って真っ赤な血がポタリッポタリッと調理場の床に血溜りを作っていく。





誰も想定していなかった出来事。


それはオレを転ばした奴らもそうで


誰もが身動き出来ず、凍りついたその場所で、真っ先にオレに駆け寄ったのは、板長だった。





板長からの知らせで、駆けつけた社長に連れられて病院で診察を受ける。


オレの右手は薬指の腱が切れていた。


緊急手術、そしてリハビリ。


結果オレは、日常生活に支障ないほどには回復した。


だけど、オレの手はもう日本料理の繊細な包丁さばきは出来なかった。






包丁が握れなければ、料理が作れなければ『水野』にはいられない。


必然的にオレはこの店を辞めることになった。


誰も何も言わなかったけど、調理場の有り様を知っていて放置した、社長も女将にも後ろめたいものがあったんだろう。
オレには相場よりも遥かに高額の退職金が支払われた。
オレに怪我を負わせた奴らにもちゃんと罰を与えるから、と言っていたけど、オレはそんなことに興味はなかった。






元々物欲はなかったから、店を出たときのオレの持ち物はリュックサックと紙袋がひとつだけだった。


もう仕込みの始まっている時間。


見送りは社長と女将の二人だけだった。


オレを追い出すという目的は果たされた。
だけど、この世界でのオレの未来を潰した後味の悪さからなのか、複雑な顔をした二人に頭を下げて、オレは3年過ごしたその場所を後にした。











つづく