「…よいしょっ」
大きめのカバンを肩に担いで、玄関から中を見渡す。
明日のかずさんの退院を前に、今日、俺はこの家を出ていく。
かずさんに俺を見送らせたくなかったから。
明日、退院するかずさんを病院で見送るために、ばあちゃん家に帰る日を今日に決めた。
暫くの間は、潤くんがこの家に泊まり込んでくれるというので、俺の使っていたベッドをゲストルームに戻し、シーツ類も全部取り替えた。
家中の掃除もして、何品かの作りおきのおかずも冷蔵庫に入っている。
俺が来たときと全く変わっていないこの家には、かずさんとの思い出がたくさん詰まっている。
二人でお茶を飲んだテーブル。
かずさんがそっと寄り添ってくれたソファー。
ダイニングにもキッチンにも、あの窓辺にも今もかずさんの姿が浮かんで見える。
永遠の別れって訳じゃない。
一緒に暮らせないだけ、病院にいれば通院するかずさんに会える。
かずさんの元気な姿を見られればそれで良い。
自分に言い聞かせる。
潤む目元をぐいっと拭って、俺はカズさんの家を出た。
その足でかずさんの病室にやって来た。
かずさんは顔色もすっかり良くなり、以前の体調に戻っていた。
病室に入ると、かずさんはベッド横の小さなソファーに座っていた。
「かずさん、俺、これからばぁちゃん家に帰るね」
病室の入り口でそう告げると
「まぁくん、お茶淹れてよ」
俺の言葉が聞こえていないように言う。
「あ、……うん」
サイドテーブルの電気ポットでお湯を沸かして、オーガニック茶のティーバッグでお茶を淹れる。
少なくとも、このお茶が人肌になるまでは一緒にいられる。
俺は心の中で喜んでいた。
かずさんの向かい側に座る。
「明日、退院だね」
「うん」
「明日は天気があんまり良くないみたいだから、気を付けて帰ってね
「うん」
「潤くんが迎えに来てくれるから」
「うん」
「俺はここで見送るね」
「……うん」
「ねぇ、かずさん………」
言いたくて、でも言い難くて、言いよどむ。
そんなときに、今日初めてかずさんが俺の目を見返した。
真っ直ぐに。
「……俺達、一緒には暮らせないけど………
かずさんが、病院に来たときには……
………会ってくれる?」
かずさんが生きていてくれればそれでいいと言ったくせに。
かずさんを見守る事だけはさせて欲しいなんて、我ながら虫の良いことを言っていると思うけれど、
それだけは……
俺の最後の願いだから………
自分勝手な心の内を明かすと
「……うん。
……じゃあ、今度は俺が診察に来たときにね」
少しの間の後、真っ直ぐに俺を見て、にっこりと笑ってくれたかずさんの瞳の中に、何か強い意思を見たような気がしたけれど……
それはほんの一瞬で、俺はかずさんがまた俺と会ってもいいと言ってくれた事に安堵していた。
人肌になったお茶を、かずさんがゆっくりと口に運ぶ。
その見慣れた仕草を目に焼き付けて、俺はポケットに手を入れた。
「…………じゃあ、……これ」
差し出したのは、モスグリーンのキーホルダーの付いたかずさんの家の鍵。
もう、あの家は俺の帰る場所じゃあないから。
それを、そっとかずさんの手のひらに乗せる。
俺の名前の入ったキーホルダーを付けたまま渡したのは、そのままをかずさんに持っていて欲しかったから。
どんな細い糸でもいいから、繋がっていたかったから。
「…………じゃあ、また、明日ね」
かずさんがそれを握りしめたのを確認して、俺は病室を後にした。
つづく