どうもこんにちは、さとりです。

 

チキン南蛮屋で料理が出てくるのをぼーっと待っていたときのこと。

店内の有線から、ふいに西野カナの『IF』が流れてきた。

 

 

君と同じ未来を

ずっと一緒に見ていたい

同じ星を 同じ場所で見つめていようよ

君の描く未来に私はいるのかな

同じ空を 同じ想いで見上げていたいよ

 

 

この歌詞が耳に入った瞬間、Shared-TCZ のリアルな「手触り」が、波のように急に押し寄せてきた。

 

 

臨場感がぶゎっと脳内に広がって、恥ずかしながらちょっと泣きそうになってしまった。

 

 

なるほどね…これはヤバい。

 

 

普通、この歌詞を聞けば「男女の1対1の恋愛ソング」として受け取るのが一般的だと思う。

 

 

でも、情報空間の臨場感を扱っている私たちの視点から、この構造を置き換えてみてほしい。

 

 

全ては「縁起」だ。

 

 

 

これまで出会い、そして別れていった人々の思い。 

 

 

志半ばで潰えていった人々の、果せなかった願いや無念。

 

 

私たちが今、場に立っているということは、それら過去の膨大な縁起と無念を「すべて背負って」その場に臨んでいるということでもある。

 

 

私自身、これまでにたくさんの「無念」を目の当たりにしてきた。

 

 

だからこそ、このシンプルな歌詞に宿る爆発的なエネルギーが痛いほどわかる。

 

 

「君と同じ未来を、ずっと一緒に見ていたい」

 

 

この「君」を、自分が背負っている過去の縁起や無念たち、そしてこれから導く人々へと抽象度を上げて重ね合わせたとき、言葉の重みがガラリと変わる。

 

 

もし、私たちが最高の未来(理想の世界線)を掴み取り、みんなで一緒にその無念を晴らすことができたなら。

 

 

きっと彼らは晴れやかな顔で「ありがとう」と言って、成仏していくんだろうな、と。

 

 

だからこそ、この意識をしっかり上に引き揚げた状態で行うアウトプットには、必然的にハンパない「覚悟」が乗る。


 

西野カナじゃないけれど、

 

「自分が描く未来に、彼らはいるのか」 

 

「同じ空を、同じ想いで見上げていられるか」

 

 

その問いを胸に抱きながら、俺は今日も情報空間を書き換え、場に立ち続けます。

 

 

あなたは何を背負って、どの未来を選択しますか?