先日ご紹介した、スペイン巡礼の勉強会でいただいた資料に「死」についての一説があって、とても頷けたのでシェアします!
「人間は、自らが死ぬということに気づいている唯一の存在だ。そのために、そして、そのためだけに僕は人類に対して深い尊敬の念を持っている。
そして、人類の未来は現在より良くなると信じている。
自分の人生には限りがあり、予想もしない時にすべてが終わるということをしっていても、なお、人々は、自分の人生で永遠の命を持つものにこそふさわしい戦いをしている。
つまり、すばらしい仕事を残したり、子供を持ったり、自分の名前が忘れられないように一生懸命になったりするのは、人間の尊厳の最高の表現であると僕は見ている。
それでもなお、か弱い生き物である人間は、常に自分たちが確実に死ぬということを自分に隠そうとしている。
人生で最も素晴らしいことをしようと彼らに思わせるものは、死そのものであることを人は誰も見ようとしない。
彼らは暗闇に足を踏み入れるのを恐れ、未知を恐れている。
そしてその恐怖を克服する唯一の方法は、自分の人生が限られているという事実を無視することなのだ。
死を意識してこそ、もっと勇気を持つことができ、日々さらに多くのものを得ることができるということを、彼らはわかっていないのだ。
なぜなら、死を意識した時、何も失うものはなくなるからだ。
死は避けられないのだから。」
(パウロ・コエーリョ『星の巡礼』より)
仏教が好きなので、死についてはよく考えます。
死について考えることは、生について考えることと同じだと感じています。
むしろ生についてよりよく考えるために死についても考えるというか。
なので、上の一説はとても心に残りました。
「いつか死ぬ」という事実を前にして、
「じゃあ好きなことしよう」になるのか
「何か残そう」になるのか。
まぁ、残そうなんていうのも、死んだ後は誰にもわかりませんし、意味ないんですが。
ただ、人の記憶に残るかどうかじゃなく、「良きものを未来に残そう」とか、「悪いものを増やさないでおこう」という考え方はいいなあと思います。
みんなが利己的に生きると、住みにくい世の中になっちゃいますしね。
人間が生まれてから今まで、何百億の人が生まれては死んでいったんでしょうね。
自分の名が後世に残ること、自分の子孫がいつまでも繁栄するように祈った人も多いでしょう。
それって、自分が生きた足跡を残したかったんだろうなぁと思います。
つまり、自分の人生を少しでも意味あるものにしたいという思いなんだろうなぁと。
私も以前は、何か残したいと思っていました。
本を書くなり、有名(?)になるなりして、自分が生きた足跡を残したいと。
でも、最近、ようやくいい意味で諦めがついたというか、何となく人生の手触りがわかってきたというか。
以前はそういった足跡を残すような人間になったら、人生がパリッと変わると思ってたんですが、最近はそうじゃないなぁと思います。
有名になるなりなんなりしたら、今の人生がよけいややこしくなるだけというか、それに見合う器がないと、しんどくなるだけだと。
逆に、器がある人はそれにふさわしいステージに進んでいるなぁと。
なにが言いたいかというとね、
「これで良いんだ」と思えるようになったんですよ。
ここにはいない誰かになろうとするんじゃなく、今の自分を磨いていこうと。
ささやかでちっぽけな人生でいいんじゃないかと。
(努力をやめるとか人生をあきらめるとかじゃなく)
そうすると、やたらと「転職したい」とか思わなくなったし、
そういう文脈で資格が欲しくなくなったし。
今は違う文脈(もっと自分ができること、役に立てる分野をのばしたい)で、
勉強したいなーと思えるようになりましたが。
こういうのを「I’m OK」の心境と言えるのでしょうか。
ま、いいことなのでしょう。
「今の自分じゃダメ」と思って努力するのと、
「より良くなるために」と努力するのは、過程の楽しさや充実度が違うと思うんですよね~。
たいがいね、そのまんまで良いんです。
他人との人間関係がそうであるように、自分との関係も、否定じゃなく肯定からの方が、豊かな何かが生まれるんだと思います。
何でかわかんないんですが、死について考えることが、自分を認めることにつながりました。
何でだろ。
みなさんもやってみてください(笑)
「人間は、自らが死ぬということに気づいている唯一の存在だ。そのために、そして、そのためだけに僕は人類に対して深い尊敬の念を持っている。
そして、人類の未来は現在より良くなると信じている。
自分の人生には限りがあり、予想もしない時にすべてが終わるということをしっていても、なお、人々は、自分の人生で永遠の命を持つものにこそふさわしい戦いをしている。
つまり、すばらしい仕事を残したり、子供を持ったり、自分の名前が忘れられないように一生懸命になったりするのは、人間の尊厳の最高の表現であると僕は見ている。
それでもなお、か弱い生き物である人間は、常に自分たちが確実に死ぬということを自分に隠そうとしている。
人生で最も素晴らしいことをしようと彼らに思わせるものは、死そのものであることを人は誰も見ようとしない。
彼らは暗闇に足を踏み入れるのを恐れ、未知を恐れている。
そしてその恐怖を克服する唯一の方法は、自分の人生が限られているという事実を無視することなのだ。
死を意識してこそ、もっと勇気を持つことができ、日々さらに多くのものを得ることができるということを、彼らはわかっていないのだ。
なぜなら、死を意識した時、何も失うものはなくなるからだ。
死は避けられないのだから。」
(パウロ・コエーリョ『星の巡礼』より)
仏教が好きなので、死についてはよく考えます。
死について考えることは、生について考えることと同じだと感じています。
むしろ生についてよりよく考えるために死についても考えるというか。
なので、上の一説はとても心に残りました。
「いつか死ぬ」という事実を前にして、
「じゃあ好きなことしよう」になるのか
「何か残そう」になるのか。
まぁ、残そうなんていうのも、死んだ後は誰にもわかりませんし、意味ないんですが。
ただ、人の記憶に残るかどうかじゃなく、「良きものを未来に残そう」とか、「悪いものを増やさないでおこう」という考え方はいいなあと思います。
みんなが利己的に生きると、住みにくい世の中になっちゃいますしね。
人間が生まれてから今まで、何百億の人が生まれては死んでいったんでしょうね。
自分の名が後世に残ること、自分の子孫がいつまでも繁栄するように祈った人も多いでしょう。
それって、自分が生きた足跡を残したかったんだろうなぁと思います。
つまり、自分の人生を少しでも意味あるものにしたいという思いなんだろうなぁと。
私も以前は、何か残したいと思っていました。
本を書くなり、有名(?)になるなりして、自分が生きた足跡を残したいと。
でも、最近、ようやくいい意味で諦めがついたというか、何となく人生の手触りがわかってきたというか。
以前はそういった足跡を残すような人間になったら、人生がパリッと変わると思ってたんですが、最近はそうじゃないなぁと思います。
有名になるなりなんなりしたら、今の人生がよけいややこしくなるだけというか、それに見合う器がないと、しんどくなるだけだと。
逆に、器がある人はそれにふさわしいステージに進んでいるなぁと。
なにが言いたいかというとね、
「これで良いんだ」と思えるようになったんですよ。
ここにはいない誰かになろうとするんじゃなく、今の自分を磨いていこうと。
ささやかでちっぽけな人生でいいんじゃないかと。
(努力をやめるとか人生をあきらめるとかじゃなく)
そうすると、やたらと「転職したい」とか思わなくなったし、
そういう文脈で資格が欲しくなくなったし。
今は違う文脈(もっと自分ができること、役に立てる分野をのばしたい)で、
勉強したいなーと思えるようになりましたが。
こういうのを「I’m OK」の心境と言えるのでしょうか。
ま、いいことなのでしょう。
「今の自分じゃダメ」と思って努力するのと、
「より良くなるために」と努力するのは、過程の楽しさや充実度が違うと思うんですよね~。
たいがいね、そのまんまで良いんです。
他人との人間関係がそうであるように、自分との関係も、否定じゃなく肯定からの方が、豊かな何かが生まれるんだと思います。
何でかわかんないんですが、死について考えることが、自分を認めることにつながりました。
何でだろ。
みなさんもやってみてください(笑)