旦那さんの知り合いが当たったけれど、行けないから。と、お芝居の招待ハガキを譲ってくれて、当の旦那さんは毎月恒例の呑みの会があるからと、お義母さんと二人で観劇に行って来た。
休憩を2回も挟んだ割には短いのかもしれないが2時間半。もっと長く感じた。
正直“退屈だ”と思ってしまった。
ふと、もしかしたら、日頃から「演劇LOVE」と呟いている演出家は芝居を観て退屈だと思う事が無いかもしれないと思った。
ぽろぽろと零していた話から、失敗していて面白い。とか、気持ち悪くて最高。とか、そういう風に芝居を捕える事をする人の悪さを持っている人だから。
質問をしてみたら、やっぱり“退屈”と思った事はない。と言い切っていて、本当に人が悪いな。と改めて天才だと思った。
見えているものが違う。
天才という生き物は、見えている世界が違うのだ。その事に気が付いたのは、中学2年の時。
朝、校門で遅刻予備軍の生徒も学年、クラス、出席番号を風紀委員にチェックされる。遅刻こそ、そうそう無かったが、遅刻予備軍の常連だった。
その日も、校門で足止めされていた時、ふと目に入った校庭の端に、糸杉が植えられている事に気が付いた。
何故、糸杉だ。と気が付いたかと言うと、散々、画集で眺めていたゴッホの糸杉の枝の流れを目に入った糸杉に見る事が出来たからだ。驚いた。
小5の頃から眺めて来た画集。ゴッホは粗いタッチが特徴のそういう画風の画家だと思っていたのだけれど、一度気が付くと、ゴッホの描いた糸杉のリアルさが見えてくる。
見えるんだ。と思った。
それからは展覧会で実際の絵を観る事の意味も変わった。
実物の絵を観るという事は、天才と言われた人達の目を通して観た世界を追体験する行為なんだと思うと興奮した。そして、改めて、見えているものが違うのだと思った。それが天才たる所以なのだろう。
「演劇」でも同じなんだな。
演劇の場合、追体験は難しいかもしれないけれど、観劇の際に、何か面白いと思える事を拾おうと、能動的に観れば、確かに退屈している暇は無いかもしれない。
プロ観客というか、批評家的な観方を自分がする必要は無いのだから、そんな観方をするのは勿体ない。これからは、もっと能動的に観てみよう。

休憩を2回も挟んだ割には短いのかもしれないが2時間半。もっと長く感じた。
正直“退屈だ”と思ってしまった。
ふと、もしかしたら、日頃から「演劇LOVE」と呟いている演出家は芝居を観て退屈だと思う事が無いかもしれないと思った。
ぽろぽろと零していた話から、失敗していて面白い。とか、気持ち悪くて最高。とか、そういう風に芝居を捕える事をする人の悪さを持っている人だから。
質問をしてみたら、やっぱり“退屈”と思った事はない。と言い切っていて、本当に人が悪いな。と改めて天才だと思った。
見えているものが違う。
天才という生き物は、見えている世界が違うのだ。その事に気が付いたのは、中学2年の時。
朝、校門で遅刻予備軍の生徒も学年、クラス、出席番号を風紀委員にチェックされる。遅刻こそ、そうそう無かったが、遅刻予備軍の常連だった。
その日も、校門で足止めされていた時、ふと目に入った校庭の端に、糸杉が植えられている事に気が付いた。
何故、糸杉だ。と気が付いたかと言うと、散々、画集で眺めていたゴッホの糸杉の枝の流れを目に入った糸杉に見る事が出来たからだ。驚いた。
小5の頃から眺めて来た画集。ゴッホは粗いタッチが特徴のそういう画風の画家だと思っていたのだけれど、一度気が付くと、ゴッホの描いた糸杉のリアルさが見えてくる。
見えるんだ。と思った。
それからは展覧会で実際の絵を観る事の意味も変わった。
実物の絵を観るという事は、天才と言われた人達の目を通して観た世界を追体験する行為なんだと思うと興奮した。そして、改めて、見えているものが違うのだと思った。それが天才たる所以なのだろう。
「演劇」でも同じなんだな。
演劇の場合、追体験は難しいかもしれないけれど、観劇の際に、何か面白いと思える事を拾おうと、能動的に観れば、確かに退屈している暇は無いかもしれない。
プロ観客というか、批評家的な観方を自分がする必要は無いのだから、そんな観方をするのは勿体ない。これからは、もっと能動的に観てみよう。
