晴山英多 | 襟裳屋Ameba館

襟裳屋Ameba館

訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

いやはや、もう三週間も経ったの?…。
…と、なってしまったのはいろいろと事情もあったのですが、
取り敢えず、コチラを。


晴山 英多 はれやま えいた
1910(明治43)年 月日不詳
東京赤坂区福吉町 生  本名 関 英太郎

府立六中に入学した頃から不良となり、自由な職業として画家になろうと同舟舎研究所に学ぶ
昭和5、6年頃 万里閣社に入社して「三文雑誌」「實話雑誌」などの編集に携わる
1930(昭和5)年 萬朝報連載の桐島豊彦『紅薔薇の歌』挿絵を本名の関英太郎で担当
1936(昭和11)年 北海タイムス連載の吉祥寺宏『恐怖館』の挿絵を晴山英多名義で手掛ける
1938(昭和13)年 「子供のテキスト : ラヂオ」などで子供向け挿絵なども手掛けるようになる
1939(昭和14)年 万里閣社を退社し、召集を受けて渡満
1940(昭和15)年 召集解除で帰国すると讀賣新聞の整理部に入るが、後に情報局の外郭団体だった写真協会に移る
1942(昭和17)年 「海運報国」連載の湊邦三『吾妻八景』の挿絵を担当し、また、「コドモノクニ」で童画なども手掛けた
終戦後、新世界通信社を経て「中外タイムス」に入社してからは事業部長などを務めながら、「少年世界」で挿絵なども手掛け、日本水墨派を経て現代水墨画会などで日本画家として活躍し、創門社という会をつくって後進の指導なども行った

1990(平成2)年1月26日没 79歳?


事情…というのも他でもございません。元々は北海タイムスに連載されていた吉祥寺宏『恐怖館』の挿絵画家として調べ始めた「晴山英多」を情報が薄いながらも肖像画像は北海タイムスの予告で見つけることが出来たので、まぁボチボチアップしようかな…と準備していたところ、改めて国立国会図書館デジタルコレクションで情報を漁っていると、
1988年に岩手出版より刊行された生出仁著「愛闘 : 小説・南部三閉伊一揆の明暗記録」という書籍のカバー絵担当者として「晴山英多(関英太郎)」といった記述に出くわしてしまい、晴山英多=関英太郎ということであれば、関英太郎についても確認しなければ…とブログアップ直前に改めて確認しなければならなくなったわけで、確認してみると、いろいろと面白い雑誌記事などもあったりしながら、
確認にも時間を要してしまった…次第でございます。
晴山英多=関英太郎に関しては、生出仁著「愛闘 : 小説・南部三閉伊一揆の明暗記録」にある記載以外には目に出来ていないのですが、
思えば、後年の水墨画団体「創門社」に関して、1983年版の「美術年鑑」に掲載されている団体名簿に「晴山英多」の名前があったりするのですが、事務局の置かれている常任委員「関英太郎」の名前は同人一覧の中になく、住所も良くみれば同じ…じゃないですか。
であれば、これが同一人物とするのは問題なし。…のはず…だったのですが、
「関英太郎」で調べていくなかで、特筆されなければならないのが、あの加太こうじが聞き手・編集された「思想の科学」に掲載され、
後に筑摩書房より刊行された加太こうじ編著「名もなくすがしくしたたかに : 街のエリート聞き書集」にも収録されている
「日本最初B29撃墜の勇士 関英太郎」というインタビュー記事です。
この記事で「晴山英多」として昭和11年に挿絵を手掛ける以前の様子などもみることができ、プロレタリア運動の盛んな時代などの動向なども目にすることもでき、楽しく読めたりもしたのですが、ここで一つひっかかってしまう加太こうじの言葉があったりもするのです。
加太「その頃、関さんの挿絵を見たことがあるんです。春山英太郎ともいってましたね。英太郎ってサインがしてあって、画風が時代物なのに流行挿絵画家の竹中英太郎に似ていた。竹中英太郎が関英太郎って別名を使っているのかなと思ったほどだったが、関さん、竹中さんには逢ったことがあるんですか。
― いや、一度も逢ったことがないんです。私、ちょっとまねたら、よく似てしまったってわけです。(以下略)
…春山英太郎?!…なんじゃ、この名前。…これまでいろいろと雑誌や新聞みてもこの名前は見たことがないぞ…。
…で、改めて春山英太郎…なる挿絵画家を見落としていないか…と資料を見直してみても…。
やはり出て来ない。…ということで、時間ばかりかかってしまいましたが、加太こうじの言わんとしていた春山英太郎は実は「晴山英多」のこと…としても良いのではないか…というところに現状落ち着かせることにしております。
まあ、そんなこんなでありながら、萬朝報に掲載された『紅薔薇の歌』の挿絵や、
略年譜には省略してしまいましたが、同じ萬朝報で昭和9年から翌年にかけて掲載された吉祥寺光『佐倉宗吾』という作品の関英太郎名義の挿絵なども確認したところ、上記の加太こうじの記事に語られているあたりとの整合性も目にすることができたので、ひとまとめにしてなんとか体裁をつくってみた…といった感じです。
生年に関しては、「日本最初B29撃墜の勇士 関英太郎」では明治43年となっていましたが、他の資料では明治44年とされているモノが多かったので、一応そちらに準じております。