近藤日出造 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

さぁて、一週間以上もブログ更新できていませんでしたが、

やっぱり…行っちゃいます?…やっちゃいます?
て、くらい少なからず戸惑いのなか細々と進めようかなぁと思いながら、
やっぱり今や日本の文化となった「漫画」関連となると、それこそいろいろと根強いファンや研究家の方も多く、
そういった方々の熱量は当方の比にならないくらいですし、
おいそれと私のような中途半端な単なる趣味人が踏み込んでいいものか…などと思うこともあり、
…ま、と、いいながらも、コチラは「挿絵」について言及しているだけなので、
まぁ、気にかかることがあっても、多少お目こぼしいただければ…といった感じで、
やっぱりやっておきますか…。


近藤 日出造 こんどう ひでぞう
1908(明治41)年2月15日
長野県更級郡稲荷山町 生  本名 近藤 秀蔵

高等小学校を卒業後、一時東京で務めるも半年で帰郷、家業の衣料品・雑貨商を手伝いながら朝日新聞の懸賞漫画に応募して入選する
1928(昭和3)年 東京美術学校入学を目指して再度上京するが、受験資格がないため断念し、親類の知り合いだった宮尾しげを通じて岡本一平を紹介され、「一平塾」に入門する
1929(昭和4)年 近藤秀三の名で『東京パック』に実質的なデビューを果たし、翌月号から近藤日出造に改名するが、後に『月刊マンガ・マン』に移る
1930(昭和5)年 九州日報の嘱託となり、政治漫画や時事漫画を描きはじめる
1932(昭和7)年 新漫画派集団を結成して、アサヒグラフでは多くの漫画の他、眞杉靜枝『聖堂の娘達』の挿絵なども手掛ける
1933(昭和8)年 読売新聞社に移る
1938(昭和13)年 読売新聞社を退社し、以降は同紙にフリーとして寄稿する
1940(昭和15)年 「新日本漫画家協会」を設立、雑誌『漫画』を刊行
1943(昭和18)年 陸軍報道班員として伊東深水とともに南方諸島に派遣される
戦後は漫画家としてのみならず、対談インタビュアーとしても新聞や雑誌だけでなくテレビでも活躍した

1979(昭和54)年3月23日没 71歳


1984(昭和59)年に青蛙房より刊行された峯島正行著『近藤日出造の世界』を参照させていただき、
取り敢えずこのブログ用にガッツリと圧縮させていただきましたが、
とにかく情報量がエグい。…何を残して、何とか収めるか…。ホント大変です。
「挿絵」といったところでも、所謂「ユーモア小説」と昭和初期には言われていたようなモノの挿絵もそれなりに手掛けておられていますが、
他のアレコレが面白く、そちらに気をとられると、さすがに全部は“略”年譜レベルでは収めきれません。
「あとがき」によると、近藤日出造の通夜の席で杉浦幸雄から「伝記を書かないか」と言われたことからまとめられたの書籍、
いろいろなご苦労もあってまとめられただけあって、“年譜”としたモノこそないものの、
よくぞまとめられた物だなぁ…とつくづく思わざる得ないのですが、
ところどころ、その熱量で「そんな書き方するのかぁ…」と感じてしまうところもあったりもします。
まぁ、それくらいじゃなきゃまとめられないのかもしれませんが…。
でも、そのお蔭でそこそこの肖像写真も取り敢えず入手できたし…で、この調子で他の漫画家の方も…とはいかないあたりが、「漫画家」の方々の難しいところなのですから、
やっかいなところです。
まぁ、新漫畫派集団とアサヒグラフとの関係あたりを「挿絵」といった面でおさらいしておく程度…で、
このブログではいいのかもしれません。