松山文雄 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

…童画…関連の人かぁ…。
まぁ、上笙一郎編著『聞き書 日本児童出版美術史』を頼りに、
ちょっとくらいはやれるのかしらん。
…と、したわけで、こちらを。


松山 文雄 まつやま ふみお
1902(明治35)年5月18日
長野県小県郡大門村 生れ

大門小学校卒業後は家業の農家を手伝っていたが
1924(大正13)年 上京して本郷研究所に通い、生活のため三宅やす子の個人誌の手伝いなど三宅邸通いを行う
1925(大正15)年 武井武雄の童画展をみて、自身も童画の売り込みなどを始め、「コドモノクニ」の絵画主任をやっていた岡本歸一の元を訪ねたのを機に私淑するようになり、童画の仕事を始めるが、同時に「三科」の展覧会に出展した作品が入選して、村山知義、柳瀬正夢らと知り合いプロレタリア美術の影響を受けるようになる
1926(大正15)年 村山知義、柳瀬正夢らが結成した日本漫画家連盟に参加
1927(昭和2)年 日本プロレタリア芸術連盟の美術部員となり、翌年創刊された「戦旗」で漫画などを手掛ける
1929(昭和4)年 「戦旗」に連載された徳永直の『太陽のない街』の挿絵を担当
1932(昭和7)年 新ニッポン童画会を設立するが、同年治安維持法違反で検挙され豊玉刑務所に入獄される
1935(昭和10)年 出所して、身元引受人となった前島ともと結婚すると、「コドモノクニ」などでの活動を再開する
戦後は、日本童画会の創立にも尽力し、また共産党に再入党して「赤旗」に政治漫画を描き、漫画研究家としても活躍した

1982(昭和57)年3月3日没 79歳


先に申し上げておきますと、こちらの方の肖像写真も上笙一郎編著『聞き書 日本児童出版美術史』からのモノです。
童画だけでなく、漫画家でもあり、プロレタリア活動で投獄もされているような方となると、
正直、「挿絵」だけなどといったところに持ち出すのも、正直ちょっと気が引ける感じもなくはないのですが、
それでも、やはり「挿絵」を手掛けていた…ということでは、当然のことながら無視することもできず、
まぁ、漫画なり、童画なりに関してはそれぞれ
1949(昭和24)年に飯塚書店より刊行された松山文雄著『新しい漫画・童画・版画の描き方』
1950(昭和25)年、大雅堂刊の松山文雄著『漫画学校』、
1967(昭和42)年の新日本出版社刊、まつやま・ふみお著『漫画でみる戦後史』
1969 (昭和44)年に造形社から刊行のまつやま・ふみお著『赤白黒: 諷刺画40余年』などといったモノもあるので、
気になる方はご確認いただければ…と思いつつ、
また、1956(昭和31)年に五味書店より刊行されたまつやま・ふみお著による『柳瀬正夢』あたりは、
柳瀬正夢のことを語りつつ、自身のプロレタリア美術での動向なども語られている向きもあるので、
そちら方面に関しては眼をとおしておいても面白いのかなぁ…とは思います…が、
まぁ、なんにせよ、なかなかどうして大変な方であった…と、
…いや、大変な時代だった…と言った方がイイのかもしれませんが、
戦後の「昭和」から平成を経て令和となった現今では…さて、どのように捉えられるのか…といったこともまたちょっと気にかかるところです。…なんか、ちょっと重い。…もっと気楽にやりたいんだけどなぁ…。