阿部金剛 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

1930年協会関係の方ではありませんが、アサヒグラフで見つけた「挿絵」関連でこちらの方を…。


阿部 金剛 あべ こんごう
1900(明治33)年6月26日
岩手県盛岡市 生

東京府立第一中学校を経て、慶應義塾大学文学部予科中退
在学中から岡田三郎助に師事
1926(大正15)年 渡仏して、アカデミー・ジュリアン、アカデミー・ランソンで学ぶ
1927(昭和2)年 帰国
1929(昭和4)年 東郷青児と共に油絵展覧会を開催し、また第16回二科展に初入選して、以後二科展を主に超現実主義風の作品を発表
1930(昭和5)年 アサヒグラフに連載された三宅やす子『返事の形式』の挿絵を担当し、また、新潮社より刊行された三宅やす子著長編文庫「燃ゆる花びら」の装幀も担当、天人社からは新芸術論システムの第11巻となる自著「シュールレアリズム絵画論 」を刊行する
1931(昭和6)年 第一書房より「阿部金剛画集」を刊行
1937(昭和12)年 第一書房より刊行された萩原朔太郎の「詩人の使命」の装幀を担当
1938(昭和13)年 雑誌「大陸」に連載の高見順「更生記」の挿絵を手掛ける
1942(昭和17)年 二科会会友に推挙
戦後は、再建された二科会に参加し、昭和22年に会員となるが、昭和35年から昭和42年までメキシコ、アメリカに滞在、発病して帰国

1968(昭和43)年11月20日没 68歳


父親が内務省官僚で、東京府知事でもあったということで画業もともかくマスコミの注目を得たりすることもあったうえ、
夫人の三宅艶子は当時著名女流文筆家であった三宅やす子の娘で、舞台女優のようなことをされた後、結婚後は阿部艶子として文筆業に転じ、
離婚後はまた三宅姓で活躍するなか、病気で帰国した別れた夫の面倒をみることで当時のマスコミでは話題にもなっていたような方だったということもあって、
なかなかどうして色々と面白おかしくゴシップ記事のようなモノもあったりするのですが、
なんといっても作風が独特なので、一般向けの「挿絵」といったモノはどうかなぁ…と思っていたら、アサヒグラフにあったので取り上げることができました。
…まぁ、三宅やす子の作品だというのもちょっと意味あり気ですが…。
昭和14年版の日本読書新聞社編「雑誌年鑑」に掲載されていた『挿繪畫家名簿』にも名前はあったものの、
あまり「挿絵」の仕事が多いわけでもなく、上記略年譜に何とかみつけていれた昭和13年の高見順『更生記』の挿絵くらいしか目につくモノ無かったのですが…。
まぁ、それでも注目はされていたということなのでしょう…か。