伊藤熹朔 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

日本挿畫家協会とか、漫畫関連がどうだの、色々と気になるところもありますが、
やはり、新聞連載小説の挿絵を手掛けていた方々…といったところももう少し進めていかねばならない…とは思っているのですが、
一通り確認しなければ…と、なかなか進めることが出来ていなかったのも事実。
まぁ、時事新報あたりは何とか一通り目安がつきつつあるので、コチラの方も…。


伊藤 熹朔 いとう きさく
1899(明治32)年8月1日
東京市神田区三崎町 生

東京美術学校西洋画科に入学し、在学中から土方與志の模型舞台研究所に参加
1923(大正12)年 東京美術学校西洋画科を卒業し、赤羽の工兵大隊に入隊
1924(大正13)年 除隊後、築地小劇場の『ジュリアス・シーザー』の装置で舞台美術家として本格的なデビューをすると、以降も数々の舞台美術を手掛け日本の舞台美術の先駆者となる
1926(大正15)年 夫人とともに人形座を設立
1929(昭和4)年 時事新報連載の久保田万太郎『夏と町々』の挿絵を手掛ける
1930(昭和5)年 舞台美術の研究のため渡米し、翌年帰国
1931(昭和6)年 日曜報知連載の長田秀雄『戯曲・戯曲・孫逸仙』の挿絵を担当する
1933(昭和8)年 六人会を主催し後進の育成に当る
1934(昭和9)年 新協劇団第一公演の島崎藤村原作「夜明け前」の装置を担当し、徹底した写実的舞台装置の傑作として、記念碑的作品となる
戦中は移動演劇聯盟事務局の席につかされる
1945(昭和20)年 新劇合同の第一回戦後公演『桜の園』の舞台装置担当し、以降も舞台美術のみならず映画、テレビの美術などでも作品を飾り活躍した

1967(昭和42)年3月31日没 67歳


特定非営利活動法人 テレビ日本美術家協会のホームページにも紹介があるように、
1973年からその名前を冠した舞台美術デザイナーだけでなく照明も含めた舞台美術に功績のあった人達を探し出して贈る伊藤熹朔賞というモノも制定されるほどの凄い方ではあるのですが、
「挿絵」を手掛けていたという面でのみ語れば上記略年譜にひっそりと残されているように、久保田万太郎なり長田秀雄との付き合いで新聞や雑誌に挿絵を描いてみても…と、残されたというのも、また一つ他ではあまり取り上げられることのないこととしてこのブログで取り上げておいてもよいのかと…。
しかし、この方をやると、あの人も…とあるのですが、まだ写真が入手できていないんですよねェ…と、これまでアップ躊躇っておりましたが、この期に及んでそんなこと言ってられません。
2014年にNHK出版より刊行された俳優座劇場編による「伊藤熹朔 舞台美術の巨人」とか、2002年に伊藤熹朔舞台美術研究所刊の「舞台美術家・伊藤熹朔の舞台装置原画による回顧展」といった資料もあるのですが、いずれも舞台美術家としての功績を主に語られており(当然ですが)、
まぁ、この方にとっては「挿絵」など付き合い程度だったのかもしれませんが、新聞連載小説の挿絵を見直すには、やはりこういったこともあったと無視して通ることはできません。