なかなか資料収集が進められず、難儀しておりますが、どうにかこうにかちょっと手間取っていたこちらの方を…。
小穴 隆一 おあな りゅういち
1894(明治27)年11月28日
長崎県 生
祖父のもと北海道函館市で育つ 旧制開成中学校を中退し、太平洋画会研究所にて中村不折に師事
1914(大正3)年 第一回二科展に出品
1921(大正10)年 新潮社より刊行された芥川龍之介の『夜来の花』装丁を担当
1922(大正11)年 芥川龍之介をモデルにした『白衣』を二科展に出品して話題となり、芥川との親交は、昭和2年の芥川の自殺後も芥川の遺族と親しく交際する程深いものとなる
1923(大正12)年 小杉未醒を敬慕して第一回春陽会展より出品し、また、この年脱疽のため右足を足首から切断し、以後義足を使用するようになる
1927(昭和2)年 東京日日新聞に連載された『大東京繁昌記』のうち芥川龍之介の「本所兩國」の挿絵を担当
1934(昭和9)年 春陽会会員に推挙される
1938(昭和13)年 都新聞連載の坪田譲治『子供の四季』の挿絵を担当、都新聞では昭和16年にも坪田譲治『虎彦龍彦』の挿絵を担当し、以降坪田常時の書籍装丁など多く手掛ける
戦後も春陽会展に昭和32年の第34回展まで毎年出品を続けながら坪田譲治や宮沢賢治などの書籍の装丁や挿絵を手掛け、また芥川龍之介に関する著述なども多く残した
1966(昭和41)年4月24日没 72歳
手間取っていたのには、新潮社の「新潮日本文学アルバム13 芥川龍之介」から引用させていただいた画像が果たして何歳頃のモノなのか…。他の画像などと見比べてみると…よく分からない。
同じ「新潮日本文学アルバム」に芥川龍之介と一緒に写っている大正10年の写真と見比べてもちょっと同一人物といった印象からは判断するのも難しいようにさえ感じますし、後年の写真ともなかなか印象が重ならない。
…まぁ、大手出版社が別人の写真を間違えることもないでしょうから、引用させてもらいましたが、
ちょっと納まりが悪く、他の写真がないものか…としていたところ時間もかかり、
出生地も長崎県らしいのですが、実父が亡くなった際に長野県に変更したらしいとの記述を著作から見つけけ、「それで長野県生れという記載などもあるのか…」と独り言ちしてみたり、
資料の多くが芥川龍之介関連のモノだったこともあって、その中から「挿絵」に関連する部分のみ選びならがらも芥川龍之介のことにも触れないわけにはいけない…とバランスも考えてみたりと、
それなりにいろいろと考えてはみたのです。芥川龍之介の死去後に描かれたいわゆる「デスマスク」の絵についても、この際、あまりにも有名な話なので略年譜では省略しております。
まぁ、1976に刊行された雑誌「銀花」の特集記事では他の雑誌などに掲載された小穴隆一に関する坪田譲治や中川一政の記述も採録されており、芥川龍之介ばかりにとらわれていなかったので、参考にしやすかったです。
特に中川一政の春陽会関連の思い出や「その頃春陽会では、放庵は『水滸伝』、鶴三は『大菩薩峠』、荘八は『濹東綺譚』、私は『人生劇場』というふうにみな期せずして挿繪を描いたが、小穴の描いた坪田譲治の『子供の四季』の挿絵は、代表作の一つで断然名作である。」
との一文は、やはり「挿絵」の部分では残しておきたい一文でもあり、引用させていただきました。