太田雅光 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

あれま、200人目を過ぎて一息つきながら、次をどうしようか…と考えていたら、もう五日も過ぎてしまいました…。
新聞連載小説史年譜の再確認を続けながら、これまで同様行き当たりばったりに整理できた人を続けていく…という感じは致し方ないのかなぁ…と思いながらも、
やっぱり元々気にかかっていた昭和3年に創立された「日本挿畫家協会」の創立時メンバーでまだ取り上げられていない人のこともほったらかしにしたまま…というのも気が気でない感じも残っております。
…と、したところで、


太田 雅光 おおた まさみつ(或いはがこう)
1892(明治25)年9月10日(明治26年の可能性もあり)
静岡県浜松市 生  本名 太田 耕司

1913(大正2)年 
ウラジオストックに渡り、曲馬団に入り寸劇の舞台美術を手掛ける帰国後、小山内薫に師事し演劇美術、美人画などに専念
その後、松竹に入り新派の舞台美術を担当する
鏑木清方門下で修行していた時期もある
1925(大正14)年 報知新聞連載の野村胡堂作の漫画『タロウノタビ 月世界タンケンノ巻』の画を担当
1926(大正15)年 白井喬二、本山荻舟、平山蘆江、直木三十五、長谷川伸、江戸川乱歩らが設立した二十一日會の機関雑誌「大衆文芸」の創刊時より挿絵をいくつも担当する
1927(昭和2)年 報知新聞連載の神田伯山演『幡随院長兵衛』の挿絵を始め、翌年には本山荻舟『寛文元禄・義民時代』、野村胡堂『美男狩』などの連載小説の挿絵を描く
1928(昭和3)年 日本挿畫家協会の創立に参加
1930(昭和5)年 「実際的絵画」を昭和書院より刊行
1931(昭和6)年 「歌舞伎十八番」シリーズなどの芝居版画を刊行し、また、鳥居言人、田中良、名取春仙、水島爾保布、清水三重三らと日本劇畫協會を設立する
戦後も歌舞伎役者絵を描き続けた

1976(昭和51)年12月18日没 84歳

※2024/05/24に雅光の姪の孫様よりコメント欄でご教示いただきました生没年月日更新しました。

基本的に情報更新にあたり、一番最初にブログ掲載した個人的なボヤキや感想などについてあまり触れたくないので、以下にそのままに残すことにしております。

 

【以下ブログ2022年10月公開当時まま】

先に日本挿畫家協会について少し触れた際
引用先の資料の誤植のまま「太田稚光」としておりましたが、今度はちゃんと修正してここに登場していただくこととしたのですが…。
…ご覧のように、生没年月日も今のところまだハッキリとしておりません。
インターネットで検索したりすると1892年生まれみたいな記述もでてきたり、
没年も1975年といったものも目にすることができるのですが、
1976(昭和51)年に発行された雑誌「経済往来」の12月号の特集記事『ズームアップ'76 -最後の歌舞伎絵師・太田雅光-』で、
当年とって82歳と、1976年にはご健在のご様子なので、一体何を根拠としての情報なのか…と全く眉唾情報かと…。
【2024/5/27更新にあたり、頂いた情報から改めて追加調査をしたところ、1930年に刊行された帝国秘密探偵社 編 「大衆人事録 第3版」などには明治26年9月10日生まれとされている記述もありました。…さぁて…例によって数え歳問題かなぁ…。にしても、「経済往来」の記事が出てから程なくお亡くなりになられていたのですねェ…。写真ではまだまだお元気そうな感じではあったのですが…。 以下公開当時ママ】

…正直、浜松生れというのもネットで目にすることができた根拠の確認できていない情報だけなのですが、
何も無いよりも…今後の手掛かり…というか、目安の一つとして今のところ残してみた…というだけです。
大正2年のウラジオストックに渡ったというところから、鏑木清方門下だった?という記述はこの「経済往来」の記事を元にしており、画像も同様にそこに掲載されている晩年のモノです。
まぁ、これを目にすることができただけでも、1993年に三一書房から刊行された「少年小説体系 別巻3 少年漫画傑作集(一)」に掲載されている巻末解説で、あの横田順彌がつくったという「年譜」にある
「経歴まったく不明」よりは少しだけでも進歩してるじゃないか…と一応自己満足に浸れるところではあります(因みにヨコジュンの年譜では「おおた がこう」というルビすらありますが…さすがにこれは…と、思わざるを得ません)。
【2024/5/27更新追記 御親戚などが「がこうさん」と呼ばれていたというのであれば、あながち横田順彌の年譜の「おおた がこう」というルビというのも親しい関係者などもそう呼ばれていたこともあったのかも…。でも、挿絵関連のルビにはまさみつというのもあったので…としておきます。それよりも、「大衆人事録」の昭和7年版には本名「太田耕司」という記載すらあるのですが…。…でも、昭和5年版では、耕の字が耒編に各というパソコンで出ない字になってるし…。…さぁて、これをどう考える?まぁ、あながちでたらめを掲載しているとは思えないので、取り敢えず載せてはおきますが…。 以下公開当時ママ】

鏑木清方門下だった…という話も、これまでいろいろと鏑木清方関連の資料には目を通してきたつもりなのですが、合致するような資料には巡り合えていません。
報知新聞に専属のように突然登場されたのは、小山内薫関係か、二十一日會関連でなのだろうと、推測はできるのですが、あながち、清方門下だということもあれば…と今後の調査の課題の一つとして残してみました。
「日本劇畫協會」というのも、当時の雑誌「美術新論」の記事から引っ張ってきたのですが、会員メンバーが面白かったので一応今後の課題の一つとして残してみました。
…まぁ、こうした資料に出会えるようになったのも、以前から繰り返し言っているように、国立国会図書館のデータ化がこの十年で進んでくれたおかげ。
ありがたい。ありがたい。…と、ありがたがっているばかりでなく、こうしてブログでぼやいていれば、もしかして、何かしら情報を知っている喜徳な方から情報をいただけるのではないか…。といった思惑は、このブログの意義であるわけで、
先々更新できることも祈りつつ、今回はこんな感じで…。