小田富彌 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

岩田専太郎の次となると、師事した伊東深水なり、一緒に挿絵を描いたとの話しもあり所謂当時の三羽鴉と言われた志村立美や小林秀恒にするとかなどといろいろとつなげようもあるのですが、
ここもプラトン社の「苦楽」に岩田専太郎の病気代筆から最初は専太郎に似せて挿絵を描いたというこちらに行ってみます。

 

小田 富彌 おだ とみや
1895(明治28)年7月5日
岡山県 生  本名 大西 一太郎
博多を経て、三歳の頃、母に連れられて大阪に移る
1912(大正元)年 日本画の北野恒富の門を潜る
大正11~12年頃、 知人より「大阪朝報」を紹介されて時代物の挿絵を描く
1924(大正13)年 プラトン社にいた直木三十五に岩田専太郎の病気代筆を頼まれて国枝史郎の『神州纐纈城』の挿絵を描く
この頃、宝塚の自宅両隣に大阪朝日の土師清二、プラトン社の川口松太郎が住んでおり、土師清二の求めを受けて大阪朝日新聞に大正14年10月から始まった三上於菟吉『敵打日月双紙』が評判となり、人気画家となっていく

1929(昭和4)年 挿絵の仕事が増えて東京に進出するがこの時は宝塚にも居を残し、大阪と東京を行き来していた
  この頃の門弟に後に挿絵画家として活躍する中一彌、木俣清史、野口昂明らがいる
1933(昭和8)年 東京に移転

昭和15年頃になると社会情勢の変化の中、「だんだんと仕事がつまらなくなってきた」と情熱を失い日本画に専念するようになる

1946(昭和21)年「もう東京に用はない!」と京都に戻る
戦後は京都日日新聞に陣出達朗の作に挿絵を描いたこともあるが、昭和27年に講談社の講談全集二冊に「長い間楽しい絵を描かせて頂けたお礼をしたい気持ちから」と筆を執ったのを最後に、挿絵を描くことはなかった
1990(平成2)年1月13日没 94歳

 

上の画像はやはりキング掲載のものですが、その5年程後には

こんな風になって誌面に登場されています。

一見、同一人物には見えません。

 

こちらも資延勲編著による「小田富彌さしえ画集」が1994年に出ていたり、
2015年に弥生美術館で開催された時に刊行された図録「怪剣士丹下左膳あらわる : 剣戟と妖艶美の画家・小田富弥の世界」松本品子編といった資料もあり、
また、和田邦坊のところでも触れた「小松左京マガジン」でも第41巻の第3回で取り上げられているくらい資料の多い巨匠です。
普通の略歴なら所謂「代表作」と言われる林不忘の『新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』での丹下左膳についてや子母澤寛の『彌太郎笠』といった諸作の挿絵について言及しておくところなのだろうが、
個人的な資料作成なので、勝手に略歴欄のスペース制約をしていたら、「だんだんと仕事がつまらなくなってきた」「もう東京に用はない!」「長い間楽しい絵を描かせて頂けたお礼をしたい気持ちから」といった本人談の方が面白く、
そちらを入れたらスペースが足りなくなってしまったので省略してしまいました。
現今こそ、画集や図録などあちらこちらで目にすることもでき、よく「代表作」という言葉も使われていますが、
なかには「これを『代表作』とするの?」と個人的に思ってしまうものなどもあり、自分のような単なる趣味人が勝手に「この画家の代表作はこれです」などとは恐れ多くて言えないよなぁという思いも強いので、
こちらのブログではあまり「代表作」という文言は使わないようにしています。
もし、使っているところがあれば、どこかに書かれていた「代表作」をそのままうっかりと引用しているものと思っていただけますと助かります。