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note「真理の研究」
以前もお伝えしましたが、今度からnoteに記事を投稿することにしました。
(といっても、アメブロはこのままにしておきます。時々、投稿するかもしれませんので)
本日、第二回目の記事を投稿しました。
改めて、ホームのリンクを貼っておきますので、ご興味のある方はどうぞ。
哲学と人
「本棚を見れば人物がわかる」と言われている。
一理あると思う。
一方で,「その人の好む哲学を見れば人物がわかる」とも言えるのではないだろうか。
なぜなら,価値観の根っこがわかるのである。
枝葉である諸々の考え方は,おのずと明らかになるのは必定である。
倫理的なシュヴァイツァーは,倫理的な「実践理性」を重んじたカントを愛した。
無教会主義を唱えた内村鑑三は,教会に戦いを挑んだキルケゴールを好んだ。
政治的共生を重視したハンナ・アーレントは,「対話の哲学」を提唱したヤスパースに師事した。
神秘主義的な観念論を主張したソロヴィヨフは,観念論の創始者であるプラトンを尊敬した。
深層心理学のユングは,集合的無意識の扉を開いたニーチェに興味を持っていた。
仏教・イスラム教・ユダヤ教・儒教・道教など,すべての東洋思想を統合しようとした井筒俊彦は,東洋的無の境地を哲学化したサルトルに感化を受けた。
苦悩の価値を重んじたヴィクトール・フランクルは,苦悩を突破した哲学者スピノザの思想を支えとした。
私はと言えば,ドイツ観念論哲学の完成者ヘーゲルを愛する。
ブログの記事で度々ヘーゲルを批判するのは,逆に言えば,ヘーゲルを過度に意識している証左である。
考えてみれば,数年に一度定期的に読み返すのは,このヘーゲル哲学なのだ(膨大な著作量にも関わらず!)。
キリスト者であるオリゲネスは,キリストを愛しながらも,プラトンを克服しようと試行錯誤したという。
小なる私も,キリストを愛しながら,聖書に立脚しながら,ヘーゲルを突破しようと悪戦苦闘してきたといえる。
私は8月中に,計22冊,9種類の書籍を出版した。
一見,乱雑に見えるこれらの書籍群は,ヘーゲル哲学を意識して計画したものである。
ヘーゲルは,形骸化したキリスト教を改革しとうと考えていた。
だから,神学部に進み,聖書研究に勤しんだのである。
しかし,旧態依然としたプロテスタント主義を再改革しようと企てた。
が,宗教は自由を許さない世界である。
そこでヘーゲルは,自由な思考が許される哲学の道に進んだ。
この哲学の世界で,「聖霊としての宗教」であるキリスト教を構築しようとしたのである。
ヘーゲルのいう絶対精神とは,生きて働く聖霊としてのキリストであり,絶対精神の運動法則である「弁証法(定立vs反定立→止揚)」とは,「神の愛vs人の罪→キリストの十字架」を抽象化した論理だった。
ヘーゲルはこの弁証法によって,すべての現象を解明しようと企てたのである。
しかし,ヘーゲルの野望は失敗に終わった。
なぜなら,彼のいう最高の境地とは,絶対精神を観照する境地であって,絶対精神に参与する境地ではなかったからだ。
故に,ヘーゲル哲学には自由がない,創造がない。
あるのは,必然性・運命・予定である。
私が企図したのは,生けるキリストに接する者は,神と共に創造の業に参与する「福音的自由の復興」にあった。
ヘーゲル哲学の中心である「エンチクロペディー(哲学の体系)」に該当するのは,私の「統合的存在論」である。
この書において,“生ける絶対精神”に向か合うことの意味が説かれている。
ヘーゲルによれば,絶対精神は芸術・宗教・哲学として顕現する。
ヘーゲルの芸術論に該当するのは,私の「モナ・リザの秘密」である。
ヘーゲルの宗教論(神秘主義)に該当するのは,私の「元型の心理学」である。
ヘーゲルの哲学に該当するのは,私の「人類哲学への道」である。
生けるキリストは,芸術作品の中に,心の神秘的世界の中に,理性的思考の中にも顕現するのである。
ヘーゲル哲学の土台ともいえる「大論理学」に相当するのは,私の「聖書研究」「キリスト教の嘘」である。
哲学の根本は論理学かもしれないが,生けるキリストを知る手がかりは聖書である。
故に,私にとって聖書の研究がすべての土台となる。
絶対精神の運動を証明するために書かれた「歴史哲学」や「哲学史」に相当するのは,私の「生まれ変わりの物語」シリーズである。
なぜ,「生まれ変わりの物語」が証明になるのか?
それは第一に,転生の存在を主張することにより,人類二千年を支配してきた破壊的終末論を打破することにある。
第二に,主要な思想家や偉人の生涯をたどることにより,すべては私に繋がり,彼らの思想を総合しまとめたものが私の思想であることを立証するためである。
なぜなら,それが私の使命だからだ。
「生まれ変わりの物語」を重視する理由はここにある。
ヘーゲルの時局論文に相当するのは,私の「日本社会への警告」と「慰めの書」である。
前者は社会を警醒するため,後者は人々を励ますために書いた。
そして最後に,私の「説得する技術」は,ヘーゲル的弁証法を対話や思考に適用する場合,どうすればよいのか簡単にまとめたものである(小冊子ながら,意外と苦労した書かもしれない)。
このように,論理的思考という意味ではヘーゲルに及ばないのは承知の上で,「キリストにおける実存的体験」をもとに大哲学者を超克しようとした。
これが成功したか失敗したかは,読者が判断するところ。
いや,読者ではなく,神が判断するところ。
私は失敗したと思う。
が,ヘーゲルは成功したが故に大失敗した,私は失敗したが故に成功するかもしれない(ヘーゲル哲学は理論的体系として隙はなかったが,体系そのものが間違ったのである)。
さて,ヘーゲル最晩年の書に「法哲学」がある。
この書に該当するものは,今回の著作群にはない。
ヘーゲルは近代国家を構想した,私が構想するのは「地上に実現すべき神の国」。
もしそれが無理ならば,神の国のために戦う「あるべき教会」の姿である。
教会論については,まだ書くことができない。
なぜなら,今度の教会は,全人類を覆うもの,政治や経済や科学まで視野に入れるものでなければならないからだ。
これらの分野に関する知見が,私にはまだない。
いつの日か,私の「法哲学」を書いてみたい。
この法哲学は,いわゆる法律によって規定された権力機構ではなく,神の法によって規定された自由の秩序にあるはずである。
新しい神殿の構想。
これが完成した時,私の役割は終わる。
「時が満ちて,全てが救世主のもとに一つとなる」(エペソ書1-10)