なんだかんだで一回目のブログを書くのが遅くなりましてすみません
一回友人の藤野可織が文学界に書いた小説についてアップしようとしたんですが、
なんかうまくアップできず挫折(ノ_-。)
というわけで、一回目の記念すべきブログ記事は、
「世紀の恋人 ボーヴォワールとサルトル」です。
私は今では某メーカーの法人営業をやってますが、
その昔はフランス哲学をやっておったのです。
研究対象は・・・「ジョルジュ・バタイユ」。
キャー!懐かしさに思わず身もだえしそう(笑)
30手前になると昔のことをもう一回復習したくなるのか
最近哲学の本を読む機会が多くなってます。
先日ついにミシェル・シュリヤ「バタイユ伝」も読破。
学生ん時に読んどけよ、という突っ込みはさておき。
私が丸の内に外回りに行った時に必ず立ち寄るのが丸善。
哲学関係の本を手に取ってることが多いです。
そこで見つけたのがクローディーヌ・セール=モンテーユ「世紀の恋人 ボーヴォワールとサルトル」著。
ボーヴォワールとサルトルと言えば、フランス哲学のある意味2大アイドル。
メジャーなものに対する反発心も手伝ってか、この二人の著作を読むことがほとんどなかったのですが
戦後のフランスの思想状況を理解するにはこの二人を抜きにすることができないです。
日本の戦後の思想状況が丸山眞男を抜きにして語りがたいことと似てる気がしますね。
両者とも戦後の思想の空白状態を大きく埋める存在だったということかな、と。
で、この本、ボーヴォワールが晩年近くになってから、
ラディカルな女性運動を若い女性たちとはじめたんですが、
その若い女性たちのうちの一人が書いたものです。
だから、基本はめっちゃボーヴォワール寄り。
不細工だの浮気性だの、サルトルには容赦ないです(笑)
ただ、サルトルのプライベートな点には容赦ないですが、
サルトルの思想的な点に触れる部分があまり多くなく、不満が残ります
(確かにボーヴォワール中心の本なので、やむなしと言われてしまえばそれまでですが)
たとえば、サルトルとメルロ・ポンティの決裂の話だとか
サルトルとバタイユの対立のエピソードとか
私の知りたかったことはひとつも入ってません(笑)
ただ、すごく意外だったのは1944年(ということはパリ開放の直前ですが)に開かれた知識人たちの夜会に
サルトル、ボーヴォワールは勿論のこと、
ジョルジュ・バタイユ、シルヴィア・バタイユ、ジャック・ラカン、ミシェル・レリス、ピカソ等々が
一同に会していたという記述。
ジョルジュ・バタイユの妻であるシルヴィア・バタイユはのちにジャック・ラカンの妻になり、
ここには名前が挙がってないですがピカソの愛人ドラ・マールが後日バタイユの愛人になることを考えると
この夜会はまるで「ビバリーヒルズ青春白書」のような関係の交錯ぶりですね・・・。
あとこの時点では、後に激しく対立するサルトルとバタイユは仲良くやってたんですね。
「レジスタンス」という一大目的があったから。
思想的な差異はこの際問題じゃなかったんでしょう。
そういう小さいディティールに注目するのが楽しい伝記でした。
あとは、前半のサルトルとボーヴォワールの全盛期の伝記よりも、
後半の二人を襲う「老い」の問題の方が身につまされました。
どれだけ素晴らしい知識人であっても、老いからだけは逃れられない。
どんどん体の自由がきかなくなってくるサルトルが、最後に取り巻きの一人にかつがれて
人生の最晩年に自分の今までの思想信条に反するような発言をしてしまう。
肉体の老いは、サルトルという時代を代表するような
哲学者の精神の自由までをも容赦なく奪ってしまうという事実。
ものすごく身につまされました。
それと同時に・・・「ああ、私は・・・ぽっくり逝きたい」と思わされた作品でもありました(笑)