今テレビ見てます。はあ~ メッセンジャー黒田久々に見たラブラブ

やっぱりめっちゃおもろい!!



黒田はさておき、今日は映画です。(すいません、メッセンジャー黒田好きの余りつい・・・)



「ロシア 魂と闇の国家」や「ペットサウンズ」読了したのに、まだ感想書ける気にならないので

先日見た「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を。



この映画はシタール奏者「ラビ・シャンカール」の娘が主演しています。

そう、皆さんご存知の、NY癒しのウォーミーボイス ノラ・ジョーンズ嬢です恋の矢

そしてもう一人の主演はイギリス2位の男前(1位はヒュー・グラント。個人的に 笑)

ジュード・ロウ。



失恋した娘が偶然発見したカフェの男前オーナーと友達以上恋人未満みたいな仲になりつつも

前彼を吹っ切るためにあてのない旅に出て(色々バイトしながら)

また元のカフェに戻るという、

失恋レストランならぬ失恋カフェといった感の映画。



ウォン・カーウァイの映画はいつ見てもキレイで胸を打ちますが

・・・そもそもこの映画の舞台がアメリカである必要が、

そして主演がノラとジュードである必要があったのであろうか(笑)



それにこの人の映像(映像監督はドイルさんでしたっけ)って

あの独特な西洋的な撮り方で

香港の街を、香港人俳優たちを撮るそのギャップというか

そのギャップから生まれるスタイリッシュさというか

そこに妙味があったように思うのに


アメリカが舞台だとそのギャップが生まれず、結構平凡な映像になってしまって

ウォン・カーウァイの良さが活かされないような・・・



うーむ、次回作に期待します。

それにしても周りカップルばっかりやったなあ・・・。

レイトショー、女子一人、ブルーベリー・ナイツ。

わしがブルーやっちゅうねん(笑)

今回はちょっと毛色を変えて。


先日のananに手相観の日笠雅水さんがフィーチャーされてました。

この方、なんと元YMOのマネージャーという異色の経歴を持つ方で、

現在は色んな人の手相を観てらっしゃいます。

大人気の為、予約は一ヶ月待ち。


で、この日笠さんと仲がいい糸井重里さんがやってらっしゃるほぼ日刊イトイ新聞の企画と連動して、

今回のananも日笠さんと手相をフィーチャーした模様。

日笠さんの手相観は、すごく前向きになれると評判です。



しかし、なぜ今回日笠さんを、しかも雑誌の特集を取り上げるのか?



・・・それはなぜならつい最近、観て頂いたから(笑)



日笠さ~ん!覚えてますか?てのひらに3個十字が出てた営業の子ですよ!

(見てらっしゃるかどうかわかりませんが・・・)



で、見ていただいたんですが、なんというかすごく透明な、穏やか~な雰囲気を持った方で、

色んなことを引き受けて、自分の中で濾過して来られたのだなあ・・・ 

そしてそれを世の中にずっとフィードバックしてきた方なのだなあ・・・  

という感じのする素敵な女性でした。


辛酸なめ子さんが「植物系癒し系美人」と評しているのも、さもありなんという感じです。



さて、内容ですが、前評判に違わずすごく元気を貰って帰ってきました。

「どんなに大きな野望を抱いてもあなたなら大丈夫よ」と

これ以上ないぐらいのお言葉を頂き、最後には私の手相に対して

「お見事!」の一言を頂戴いたしました。


いや~、野望と手相にまで太鼓判を貰ってほんま嬉しかった!(笑)


これからも自分の野望に対してたゆまぬ努力を続けていく元気を貰いました。


今回は何の書評だったかって?

・・・まあ、今日は許して下さい(笑)





今回はいつもと違って映画を。

(書評ブログなんですが・・・すみません。)


先日のアカデミー賞外国語映画部門でノミネートされた浅野忠信主演「モンゴル」です。


なぜここでこの映画を取り上げようと思ったか。

それは先日佐藤優の「闇と魂の国家 ロシア」を読んだ為です。


この本についての書評は後日またアップするとして。

「モンゴル」を撮った監督がロシア人であるという事実が以前から気になっていました。

しかもハバロフスク出身。

極東出身のロシアの文化人って、あんまりいない気がします。

2年前にハバロフスクに行った人間としては縁を感じ、「見に行かなくてはなー」と思ってました。



さて。



司馬遼太郎の「ロシアについて」という本にも書かれていることですが、

ロシアという国は「ヨーロッパ」と「アジア」という大きな二つのルーツを持っています。

そしてその「アジア性」についてはよく「タタールの軛(くびき)」と称されます。

(タタールの軛についてはこちら

→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2)


まあ要するに、モンゴル人に数世紀支配され、ある程度文化がブレンドした歴史がロシアにはある訳です。




その為ヨーロッパに親近感を抱く上層階級であればあるほど

タタールに由来するロシアの「アジア性」を忌避し、「ヨーロッパ性」を高く見る向きがあったにもかかわらず

(例えば、帝政ロシアの貴族階級ではフランス語が必須教養だったようです)

ソ連時代、資本主義移行期の混乱時代、そして現在の爆発的な経済成長を迎えて

大国としての誇りを取り戻しつつあるロシアにおいてこの映画が撮られたことに

大きな意味を感じます。

(映画としての出来は別として・・・)


映画としての筋立ては、

テムジン(後のチンギスハーン)が戦争や捕囚の憂き目など数々の苦難の末に

親友と戦い、ついにはモンゴルの覇者になるという皆様もよく知ってるお話です。


私が気になったのは、

浅野忠信演じるテムジンがやたら「モンゴル人として」「モンゴル人の掟」「モンゴル語は世界一美しい」

などなど、「モンゴル人」を連発すること。


この当時のモンゴル人に、

自分の部族についての意識はあれど

民族国家の一員としての意識などはないはず。


それをやたら連発させるところに

大国としての誇りを取り戻しつつあるロシアの

「自分のルーツのうちのひとつを認め、再認識し、称揚して、自国の更なる誇りにつなげたい」という

意思を感じるのは、私の穿ちすぎでしょうか。


ただ、一緒に映画を見た人間は「なんだか角川映画の大作映画みたい・・・」とコメントしてました。

単に景気がいい国が景気がいい時に作る映画は似る、ということなのかもしれません・・・(笑)

今日は八重洲ブックセンターに行ってきました。

ひさびさに本を大人買い。8千円分のハードカバーが入った袋って重い・・・。

でもこれは幸せを感じる重みですわラブラブ

いつもの営業用カバンの重みとは違います(笑)


今日買ってきたのは鷲田清一さんが書いたメルロ・ポンティの解説書やら、

シモーヌ・ヴェイユの哲学講義やら。


あっあと佐藤優の新しい対談「ロシア 闇と魂の国家」ね!これも楽しみです。

ロシア好きとしてはたまらない対談です(2年前、ロシア好き高じてシベリアにまで行ったぐらいです・・・)


さて、前置きが長くてすみません。今日アップする本は

先日読み終えた司馬遼太郎の「翔ぶが如く」です。


司馬良太郎については色んな人があまりにも色んなことを言っているので、

今更何か言うことがあるのかという気もしますが。


しかし、文庫で全10巻。長い!!(笑)

通勤と移動の合間しか時間のないサラリーマンにとって、

完読には一ヶ月ぐらいかかりました。


しかしこれは読んで損の無い本です。

司馬遼の本って「読んで時間損した!!」って思うことがほとんどないような気がします。

なぜだろう?と考えてみたところ、以下の理由を思いつきました。


①司馬遼自身が著作に投下してる投資が半端じゃないので、

一冊の本に詰められている情報量がすごく、読んだだけで得した気がする

(司馬遼が新しい本を書くといったん決めると、

荷台に古本を満載したトラックがひっきりなしに司馬遼の自宅前に来たと言われています)


②誰か一人にスポットを当てるというよりかは

歴史上の数人にスポットを当て、その数人を通して集団や組織、

そして時代を描き出すという作品の作り方をしているので

歴史に興味がなくとも集団心理について勉強できたような気がする


こんなとこでしょうか?


さて、肝心の「翔ぶが如く」なのですが、

これは薩摩の人たちが駆け上がっていった長い坂をもう一回追体験させてくれるような本です。


薩摩藩自体が内包している自己矛盾

明治政府自体が内包している自己矛盾

西郷、大久保、川路 それぞれが内包している自己矛盾


この3つの自己矛盾が「士族階級」という爆弾をめぐって

内包されていた自己矛盾を露呈させていきます。


あんまり書くと未読の方は興を殺がれるでしょうから

これ以上ディティールを書くことはやめます。


印象に残ったのは、成立したての革命政府である明治政府のもろさ。

現代の日本で「今の日本政府がいつ転覆するかわからない」といってる人はあまりいないと思いますが

この時代、成立したての政府には権威がなく

西郷に代表される声望家の動き次第では

いつかき消されてもおかしくなかったという事実に改めて驚かされます。


あとは、西南戦争の描写。

西南戦争で薩摩側は自分の強さを頼むあまり兵站面を全く顧みなかったため

悲惨な状況に陥ることとなるのですが、ここの描写で思い出されるのはもうひとつの戦争です。

兵站を軽視した悲惨な戦争、

そう、太平洋戦争です。


兵站面の軽視による悲惨からオーバーラップが始まり、

指揮官の無能、戦略・戦術のなさ、情報の軽視と続くと、

司馬遼は西南戦争を描くことによって、日本人の考え方の原型、

ひいては太平洋戦争の原因の原型を見つけようとしていたのではないかと

感じざるを得ません。


司馬遼は終戦時、学徒出陣の戦車兵でした。

「こんな愚かな戦争を引き起こした日本人は愚かだけれども、昔は違ったはずだ」と考え、

自分が作品を書いているのはその証明を手紙にして若い時の自分に送っているようなものだと

どこかで読んだことがあります。


司馬遼が自分に課した「課題」を強く感じる一作でした。

AERAかなんかのマンガ書評で褒められてたので買ってみたのが

中村光「聖☆おにいさん」。

釈迦とキリストが下界でバカンスするため、立川で共同生活するというすごい設定のマンガです叫び

でもねー、いきなりやられました。

だって和室で横になって寝てる釈迦。寄ってくる鳥を追い払いながら釈迦「違う!涅槃とかじゃないから!!」

なんだかめっちゃ笑ってしまった(笑)


あと、カナヅチのキリストがどうしても泳がなあかんとか、

そういうつらいことがあると聖痕(ゴルゴダで拷問された傷跡)が開いて出血するとか(^▽^;)

なんだかギリギリ感があるんだけど、笑ってしまう


それにしても、こういうマンガが成立するってことは、

日本人って案外仏教とキリスト教のエピソードに詳しいのね。

無神論無神論と言われつつも。


このマンガ読んでたら、なんだか司馬遼太郎の「空海の風景」とか、

山本七平のキリスト教関係の本を読み直したくなってきちゃった(笑)


はーはやくこのマンガの2巻が読みたいラブラブ

なんだかんだで一回目のブログを書くのが遅くなりましてすみませんあせる

一回友人の藤野可織が文学界に書いた小説についてアップしようとしたんですが、

なんかうまくアップできず挫折(ノ_-。)


というわけで、一回目の記念すべきブログ記事は、

「世紀の恋人 ボーヴォワールとサルトル」です。


私は今では某メーカーの法人営業をやってますが、

その昔はフランス哲学をやっておったのです。

研究対象は・・・「ジョルジュ・バタイユ」。

キャー!懐かしさに思わず身もだえしそう(笑)


30手前になると昔のことをもう一回復習したくなるのか

最近哲学の本を読む機会が多くなってます。


先日ついにミシェル・シュリヤ「バタイユ伝」も読破。

学生ん時に読んどけよ、という突っ込みはさておき。


私が丸の内に外回りに行った時に必ず立ち寄るのが丸善。

哲学関係の本を手に取ってることが多いです。

そこで見つけたのがクローディーヌ・セール=モンテーユ「世紀の恋人 ボーヴォワールとサルトル」著。


ボーヴォワールとサルトルと言えば、フランス哲学のある意味2大アイドル。

メジャーなものに対する反発心も手伝ってか、この二人の著作を読むことがほとんどなかったのですが

戦後のフランスの思想状況を理解するにはこの二人を抜きにすることができないです。


日本の戦後の思想状況が丸山眞男を抜きにして語りがたいことと似てる気がしますね。

両者とも戦後の思想の空白状態を大きく埋める存在だったということかな、と。


で、この本、ボーヴォワールが晩年近くになってから、

ラディカルな女性運動を若い女性たちとはじめたんですが、

その若い女性たちのうちの一人が書いたものです。


だから、基本はめっちゃボーヴォワール寄り。

不細工だの浮気性だの、サルトルには容赦ないです(笑)


ただ、サルトルのプライベートな点には容赦ないですが、

サルトルの思想的な点に触れる部分があまり多くなく、不満が残ります

(確かにボーヴォワール中心の本なので、やむなしと言われてしまえばそれまでですが)

たとえば、サルトルとメルロ・ポンティの決裂の話だとか

サルトルとバタイユの対立のエピソードとか

私の知りたかったことはひとつも入ってません(笑)


ただ、すごく意外だったのは1944年(ということはパリ開放の直前ですが)に開かれた知識人たちの夜会に

サルトル、ボーヴォワールは勿論のこと、

ジョルジュ・バタイユ、シルヴィア・バタイユ、ジャック・ラカン、ミシェル・レリス、ピカソ等々が

一同に会していたという記述。


ジョルジュ・バタイユの妻であるシルヴィア・バタイユはのちにジャック・ラカンの妻になり、

ここには名前が挙がってないですがピカソの愛人ドラ・マールが後日バタイユの愛人になることを考えると

この夜会はまるで「ビバリーヒルズ青春白書」のような関係の交錯ぶりですね・・・。


あとこの時点では、後に激しく対立するサルトルとバタイユは仲良くやってたんですね。

「レジスタンス」という一大目的があったから。

思想的な差異はこの際問題じゃなかったんでしょう。


そういう小さいディティールに注目するのが楽しい伝記でした。


あとは、前半のサルトルとボーヴォワールの全盛期の伝記よりも、

後半の二人を襲う「老い」の問題の方が身につまされました。


どれだけ素晴らしい知識人であっても、老いからだけは逃れられない。

どんどん体の自由がきかなくなってくるサルトルが、最後に取り巻きの一人にかつがれて

人生の最晩年に自分の今までの思想信条に反するような発言をしてしまう。

肉体の老いは、サルトルという時代を代表するような

哲学者の精神の自由までをも容赦なく奪ってしまうという事実。


ものすごく身につまされました。



それと同時に・・・「ああ、私は・・・ぽっくり逝きたい」と思わされた作品でもありました(笑)