冬の長門峡


           長門峡に、水は流れてありにけり。

           寒い寒い日なりき。


           われは料亭にありぬ。

           酒酌(く)みてありぬ。


           われのほか別に、

           客とてもなかりけり。


           水は恰(あたか)も魂あるものの如く、

           流れ流れてありにけり。


           やがても蜜柑(みかん)の如き夕陽、

           欄干にこぼれたり。


           あゝ!  ――そのような時もありき、

           寒い寒い 日なりき。


                  (中原中也)







今日も夕陽を見た

晴れてさえいれば、毎日のように夕陽を見る



遠くの山の稜線の、まだまだ上の、

浅緋(うすきひ)に染まる空と青の境目あたりで

大きく輝く金色の球体は、

少しずつ少しずつ、だけど車で真向かうと見る見る間に

下に降りてくる、降りてくるほどに速さを増しながら・・・


棚引く雲の蔭に姿を隠しながら

やがて山の向こう側に落ちて見えなくなってゆく・・・



薄明は、青と橙のグラデーションを残しているけれど

でもいつも、そんな時でも金色は必ずあって、それらの色に溶けている・・・





        落陽は、慈愛の色の

        金のいろ。


いつからか、

呪文か、御まじないのようになってしまったね・・・ 笑


でも夕陽は、落陽は、

ホントに魔術か呪術のように

不思議で神秘的で綺麗だよね・・・


いつも、どんなときでも

慈愛の色、 をしている・・・




でも私は、

最近多い、自ら発光している磨かれた珠のような

大きな大きな、あかいあかい風景の中の太陽を見ると

上に書いている詩の方を先に思い出してしまうよ・・・



冬でもないのに、川や水があるわけでもないのに、

なぜか・・・


洗心館だって行ったことがないのに

その二階から落陽を見ている視界を思い出すよ・・・


どうしてだろう・・・

その部屋の古い畳や、敷居や、襖のところまで

入り込んで思い出すよ



欄干に腕を乗せ、それに沿って両方の足を投げ出し、

首を横に、窓の外に向けている自分を考える・・・



最初にビールを飲んで、それからいつしかお酒に変わり、

温(ヌル)燗の、徳利に小さなお猪口で手酌でね・・・

そうして誰かを待っている・・・




そんな場面を、これまでの人生で

何度何度、思い出しただろう・・・


考えてみたことを思い出すんだね

体験してはいないのだから・・・




憧れ・・・かな

そうかもしれない


そして私は、男の人になっているのは

なぜだろう・・・



それだけ中也の中に

入り込んでいるということなのか


男性の、一人でも気ままにできるそんな場所に

憧れてもいるのかな・・・

女性が一人だと、不審がられるはずだから・・・




よくわかんないけど

夕陽を見るたびに思い出す

この風景を思い出す

此処の場所を思い出す


あの、欄干に零れたという

蜜柑の如き夕陽、

を、思い出す・・・




思い出なんかじゃないのに、

行ったこともないのに、



なぜかなぜか

思い出す・・・


そんなことを思っていた自分を

思い出すってこと?  なのかな・・・




繰り返すうちに記憶に刻み付けられて、


その大きな蜜柑色の、


光が零れ散るほどの落陽は


いつの間にか忘れられない風景となって


心の中に現れる





今でも夕陽を見ると、


美しい落陽が、空を染めている風景を見ると、





冬でもないのに


長門峡は 知らないのに、


なぜかなぜか、思い出す・・・