それらは唯一無二のオリジナル品。
だから、他人と100%同じものを共有することはない。
大事なのは、これらを前提とした上で、自分を共有しようとする姿勢。
そして、相手を理解したいと思う気持ち。
誤解が生じたとしても、被害者にならず、不貞腐れないこと、だと思う。
分かり合えずに傷付くのは、その人に自分を理解してほしいと思っているからに他ならない。
自分の発信する言葉は、比較的余白が多いから、意図通りに解釈されないことも多い。
でもそれは当たり前のことだ。
余白は相手の想像を促す。
想像には、特にその人独自の価値観や過去の記憶が映し出され易くなる。
また、余白とは、その人に合ったかたちで、必要なものが入ってくるスペースだと思っている。
まとめ。
自分の言葉が誤解されてしまうことに、しょっちゅう傷付いたり、憤りを感じてきたのだが、それは傲慢で非現実的なことなのだと思った。
正しく(極力齟齬のないように自分の意思を)伝えたいのならば、そういう言葉を紡げば良い。
でもわたしは、自分の表現活動においては敢えてそれを選ばす、
ある時は、正しく理解し合うことが必要な身近な人に、その労力を費やすことを怠けていた。
すべては自分の選択の結果であり、自分の責任だ。
自分をしっかり観ていこう。
あなたは被害者ではない。