小学校二年生の、ちょうど二学期が終わるくらいの頃だろうか?

我が家では宝塚へ引っ越しする計画が立てられていた。

引っ越し自体はワクワクするものの、やはり長い間一緒にいた仲間との別れだけがどうしても辛かった。


地元の公立校だったため、幼稚園時代はおろか、産まれてからずっと同じだった幼なじみもたくさんいたのでなおさらだった。

当時の僕は、例えば友達と遊んでいて帰る時間になってバイバイするのも嫌なくらいで、特に夏休み等の長期休暇に入る度に帰省していた、祖父母や親戚のたくさんいる松山からこちらに帰るごとにも大泣きしていた。

情や、涙にものすごく脆いのはこの頃からだったようだ。


話は少し逸れるが、こんな事があった。

幼稚園くらいの時だが大好きな松山の祖父母がこちらへ遊びに来たことがあったのだが、やはり二人が帰る日、朝からぐずってぐずって仕方なかった。

これは何とかしなければ…と思った祖父母は、その時僕が一番欲しがっていたオモチャを買いに連れて行ってくれたのだが、やはりそこは小さな子供。

しばらくはそのオモチャに夢中になってしまった。

そして祖父母はそのスキにこっそり空港へ向かい、帰っていったのだ。

もちろんそれだけで祖父母の事を忘れるほどバカではないので後から気付くわけだが、祖父母から言わせると、やはり『あれだけ泣かれると胸が痛くて帰り辛い』そうだ。


そんな僕なわけだから、もうみんなと別れてしまうのが辛くて辛くて仕方がない。

だが、これが原因となり、後の転校後のスクールライフを若干狂わせてしまうこととなる。


何とか涙ながらに別れの挨拶を済ませ、しばらくゆっくりした後、新しい学校へ転入届けを。


しかし、前述の通り淋しくて別れに疲れてしまった僕は、なぜか新しい学校で馴染もうとする気がなかったのだ。

もちろん新しい学校の友達やクラスメイトも、いい人ばかりであり、普通の感覚でいうならば普遍的にはそんな要素はどこにもないのだが…

今思えば『何故そこまで…?』と思うくらい心を閉ざしてしまった。


そうなればもちろん変わり者扱いも受けるし、そしてこちらは尚更反発する。


知らぬ間に、無意識下で前の環境と比べていたところがあったのかもしれない。

環境は当然違うのだが、それぞれに良いところ、悪いところがあって然るべきである。

だがそこには意識はいってなかったようだ。


自らが自らを塞ぎ込み、

『こんなところでやってられるか』

というような気持ちで新しい学校生活がスタートしてしまったのだ。


さらに、それでもやはり周りと同じなのが嫌だという部分は健在であったため、それが尚更拍車をかけて…

そしてイジメへとエスカレートする。


最初に断っておくが、ここで語る『イジメ』とは、ネガティブなものではない。

もちろんイジメ自体はあってはならないものであり、抑制すべきものである。

だが、ここでのイジメは、当時の自分からすればこの日本の国民性故に『イジメ』を受けて当然な行いをしていたのもあり、こちらにも責任はあった。

それに、そんな時代があったおかげで今の自分がある。

特に、イジメに関しては今の自分を構築する上で非常に大きなウェイトを占める、ある意味自分の中での『革命』に近い意味合いすら持つ、とすら今や思っている。

なのでここで語る、自分が受けたイジメは、あくまでも『ポジティブ』なイジメである。



話を学校へ戻そう。

前の学校での自分らしさは、ここでは微塵も出なかった。

言葉数も激減し、自ら周りを拒絶するようになった。

何故ここまで変化があるのかは未だにわからないが、八歳の自分にはもっと細かい事情が色々あったのだろう。

だが、忘れてはならないのが、それもまた『自分自身』である。


とりあえず毎日学校が苦痛で仕方なかった。

友達と呼べる友達も、いないことはなかったのだが、それでもやはり一番落ち着く場所は家庭のみであった。

だが、この頃から『サッカー』という趣味を見つけ、クラスメイトのみんなと一緒に、ではないにしてもサッカーに興じる日々が続いた。

きっかけは『キャプテン翼』というアニメなのだが、このアニメとの出会いによって救われたと言っても過言ではない。

『居場所』を見つけたという感じだろうか。

孤立していたせいもあって、学校のサッカー部には入らずに一人でのプレイに限定されていたがそれでも楽しくて仕方なかった。

しかし逆に言えば、この落差のおかげでますます学校では孤立することにもなる。

やはり恐らく『周りと同じなのが嫌』というのが一番の要因だっただろう。

この頃の多感な年頃といえばやはり皆と同じがいいと思ってしまうものだ。

その中で自分の行動が全て裏目に出ていたのかもしれない。

なのでそういう意味では当時のクラスメイトには謝りたい気持ちもある。

とにかく、小さな小さな反発心の塊と化してしまっていたわけだ。


しかしこの頃から芸術には興味を持ちはじめていたようだ。

クラスでグループごとに行う制作発表のような行事があり、自分のグループは本を書くことになった。

ここでは脚本、執筆共に担当し、この時はクラスメイトとの関係も良好だったように思う。

その他にも、いわゆる『学級歌』という、校歌ではなくクラスごとの歌を作成することがあったのだが、ここでも作曲を担当した記憶がある。

いや、担当したというより、自由研究のようなもので自分が勝手に作って先生に提出しただけだったか。

何れにせよ、『脳内で出来上がったものを形にして産み出す』という行為はこの頃から大好きだったようだ。

そしてツッコミに目覚めたのもこの頃だ。

授業中は物静かなまま一言も発さないのだが、心の中ではぶつぶつひたすらツッコミを入れていた。

『なんでやねん』

ベタだが、それが基本形なのは今と変わらないようだ。

そして、やはりというべきか、この新しい学校でも相変わらず『宿題しない四天王』に選ばれてしまった。

2校連続四天王だ。
わっはっは。

ひたすらマイペースな部分は変わらず健在であったようだ。

実はイジメ自体は、小学校五年あたりがピークにあり、登校拒否や心の病により倒れたり…等にまで発展するのだが、不思議と当の本人には『イジメられている』という気分には段々ならなくなっていた。

決してドMなわけではない。

おそらくマイペース過ぎたのだろう。

直感的にイジメられている気はしたものの、『でも自分は自分』と、あくまでも表面上は冷静だったように思う。

そんな、ちょっと不思議な小学生だった。


肝心の初恋だが、自分の中での本格的な『恋』と呼べるものは中学に入ってからだと思う。


今号で述べた小学校時代だが、総じて言えば『苦痛』と『妄想』の毎日だったと言える。

ちなみに苦痛というのはイジメられていることそのものではなく、『出る杭は打たれる』的なものであったことも付け加えておく。

あれから、当時仲のよかった大事な級友二人を惜しくも亡くしてしまい、今や小学校時代からの付き合いのある人はいなくなってしまったが、それでもとても大きな変革のあった小学校時代である。

そして次回。

いよいよ初恋の待ち受ける中学校時代について記そうと思う。

続く。

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↑五年生くらいかな?



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↑この頃はどんな夢を見ていたのだろうか。



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↑六年生の頃。ボールは友達。